目と耳Ⅰ
雪解けの泥濘が風に乾き始め、リオネルの平野に柔らかな春の陽射しが降り注ぐ季節。マナーハウスの執務室には、アルヴァの雪深い国境地帯から一時帰還したばかりの義兄ロドリゴと、狐人族の族長であるノーラの姿があった。
「――結論から言えば、現在のところ集落の周辺は落ち着いています」
アルヴァにおける人道支援部隊の総指揮を執るロドリゴが、卓上に広げた地図を指差しながら報告を始めた。
「我々一個中隊が駐屯し、退路の安全を確保していることは、すでに周辺の軍閥にも知れ渡っています。手を出せば厄介だと判断したのか、奴らは集落を大きく迂回していくようになりました」
「抑止力としては、十分に機能しているということですね」
「ええ。ですが、新たな動きがありました。集落の北、湿地帯の方からリザードマンの小部隊が接触を図ってきました。彼らもまた軍閥の争いに巻き込まれ、我々に保護を求めてきています」
私は顎に手を当てた。リザードマン。狐人族や狼人族とは生態も文化も大きく異なる亜人種だ。アルヴァの奥地で泥沼化する抗争の余波が、彼らにまで及んでいるということか。
「ロドリゴ義兄上。遠征軍の兵と士官は、適度な期間でローテーションを組み、循環させてください。多くの者に前線勤務を経験させると同時に、交代で十分な休養を与える必要があります」
「承知しています。その手配のためにも、一度こうして戻ってきましたからな」
「それと、リザードマンへの接触と交渉には、ガナクスを向かわせましょう」
私がその名を出すと、ロドリゴは納得したように頷いた。
ガナクス。法神トゥーロスの司祭にして、我が領軍に所属する士官。彼はリザードマンの男性であり、非常に厳格で生真面目な性格をしている。若き日より、公国内で迫害されがちな獣人や亜人たちの暮らしを助けるため、父親と共に奔走してきた苦労人だ。私が男爵位を継ぎ、異種族の融和政策を本格的に打ち出した際、その理念に深く感銘を受けたらしく、リオネルへ留まって忠誠を誓ってくれた。
彼ならば、過酷な状況にある同族の警戒心を解き、こちらの真意を正確に伝えることができるだろう。
「分かりました。至急、ガナクスに準備をさせます」
ロドリゴが了解の意を示すと、今度はその後ろに控えていたノーラが一歩前に出た。冬を越え、彼女の顔つきは以前のような怯えた難民のものではなく、確固たる決意を秘めた『族長』のそれになっていた。
「レオナルド様。私からも、一つ提案があります」
「何でしょうか、ノーラ殿」
「私たちに、アルヴァの様子を探る仕事をさせてもらえませんか?」
ノーラは真っ直ぐに私の目を見て言った。
「森や街道の警戒は、冬の間、私たちもやってきました。遠くの音を聞き分け、匂いを拾い、気配を消して森を動くことなら、兵隊さんたちよりも私たち狐人族の方がずっと得意です。ただ守られているだけではなく、私たちにもリオネルのために働かせてください」
その申し出は、私の予想の少し先を行くものだった。確かに、彼らの隠密性や獣人社会に溶け込む能力は、我々は真似できない。アルヴァの奥地で何が起きているのか、正確な情報を得るための『耳と目』が必要なのは事実だった。
私は少し思案し答える。
「……分かりました。その提案、ありがたく受け入れます」
私が頷くと、ノーラはほっとしたように耳を揺らした。だが、ただの村人たちを危険な諜報活動に放り込むわけにはいかない。専門の技術が必要だ。
「メルヴィナをここへ」
私が声をかけると、ほどなくして執務室の扉が開き、一人の女性が静かに入室してきた。褐色の肌に、尖った長い耳。感情が見えないがかなりの美貌を持ったハーフダークエルフの女性、メルヴィナだ。
「お呼びでしょうか、レオナルド様」
「ええ。ノーラ殿の部族の者たち数名を、諜報員として育成してほしいのです」
私はメルヴィナに要件を伝える。
「シャドウウォーカーに訓練を依頼してください」
その名を聞いた瞬間、隣に立っていたロドリゴがピクリと反応し、露骨に顔をしかめた。
「……承知いたしました。手配します」
メルヴィナは表情一つ変えずに頷き、踵を返して退出しようとした。
「メルヴィナ」
私はその背中に向け、少しだけ声を低くして念を押した。
「技術は必要ですが、あくまで情報収集と生存のためです。『人道的な教育』にするように伝えて下さね」
「わかりました」
短い返事とともに、メルヴィナは静かに部屋を出ていった。扉が閉まり、執務室に少しだけ重い沈黙が落ちた。
コトリ。
ふいに、私の手元のデスクに、湯気を立てる温かい紅茶のカップが置かれた。ロドリゴ用のカップも、彼の手元に音もなく置かれる。ロドリゴもノーラも気が付かなかったようでハッとした表情でそのカップを置いたメイドを見る。
「――おい。そこの猫メイド」
ロドリゴが、思わずといった様子で鋭い声を上げた。シエル領で島第一の騎士と謳われた彼が、いつの間にか部屋に入り込み、自分の背後へ回るまでまったく気配を察知できなかったのだ。
「お前、何者だ?」
訝しむような厳しい視線を向けられた猫人族の少女、ミーアは、ふさふさの尻尾を揺らしてトレイを胸に抱えたまま、きょとんと首を傾げた。
「ニャ? レオナルド様付きの美少女メイドだニャ」
一切の悪びれもなく、あくまでとぼけた笑顔を浮かべる。
「何か失礼があったかニャ?」
そのあまりに間の抜けた態度に、ロドリゴは毒気を抜かれたように押し黙り、それ以上深く追求するのをやめて怪訝そうに頭を掻いた。
私は手元の紅茶を一口啜り、小さく息をついた。




