公国のバランスⅡ
公都での新年の儀、そしてここリオネル領での新年の儀が滞りなく終わり、ようやく肩の荷を下ろせる頃合いだった。
窓ガラスに白い霜が張り付くような、身を切る寒さの夜。石造りの壁を北風が叩く音が時折響いてくるが、マナーハウスの食堂には、暖炉の薪が爆ぜる音と香ばしく焼かれた肉の匂いが満ちていた。
公都から戻ったレオナルドと、外交から戻って滞在していたマルチェロ。グレリオ家の男三人が久々にテーブルを囲み、酒杯を傾ける。かつてのリオネルでは考えられなかった、和やかで気の置けない食卓だった。
「そういえば、マルチェロ兄さん。先日の新年の儀の折、レムノ辺境伯にマティルダ姉様のことをお願いしておきましたよ」
食事が進み、ワインの栓が新たに抜かれたところで、レオナルドが肉を切り分けながら言った。
「春には一度、レムノ辺境伯への根回しも含めた打ち合わせがあると思います。その時に私に同行して、姉上に会われると良いでしょう」
「本当ですか、レオナルド様。……ありがとうございます。久しぶりに、マティルダ姉上の顔を見ることができます」
マルチェロが、深く頭を下げて感謝を口にする。
我が弟であり、当主であるレオナルドの身内に対する細やかな心遣いは、昔から変わらない。公国の政務という重責を担いながらも、彼はこうして家族の絆を確実に結び直そうとしてくれている。
「マルチェロは、リンクスの造船所を見てこられたのでしたね」
私がグラスを傾けながら話を振ると、マルチェロは目を輝かせて頷いた。
「ええ。驚きましたよ。ドワーフの職人たちと我が領の若い技師たちが、泥まみれになって巨大な竜骨を組み上げている。彼らがリューベルから持ち帰った技術は、完成すれば間違いなく公国全土の物流を変えます」
「春には一隻目を進水させる予定です。ワーグナー技師たちの腕は確かですよ」
レオナルドが嬉しそうに口元を緩める。だが、頼もしい話ばかりではない。
「だが、北へ向かったロドリゴの部隊は、今頃アルヴァの雪に埋もれているはずだ」
私は、空のグラスへワインを注ぎながら言った。
「戦うなと命じられた兵を率いての撤退支援だ。出発前、とんでもない貧乏くじを引かされたと頭を抱えていたよ」
「申し訳ないとは思っています」
レオナルドは少しだけ苦笑した。
「ですが、状況を読み、兵を抑え込みながら無傷で退路を開けるのは、あの義兄上とザウロの采配をおいて他にありません。必ず、やり抜いてくれます」
語るべき未来と課題は尽きず、酒の回りも手伝って、私は心地よい疲労と充実感に身を委ねていた。
一段落し、私がほっと息をついて残りのワインを飲み干そうとしたときだった。レオナルドが、ふと顔を上げ、さも当然の世間話でも切り出すかのような、ひどく自然な口調で言ったのだ。
「そういえば、ロメロ兄さんはいつフェリシア姉様と婚礼を挙げられるのです?」
「…………え?」
私は、喉まで出かかったワインを危うく吹き出しそうになり、そのまま全身を硬直させた。
私とフェリシアのことは、レオナルドは知っている。幼きあの日に森での密会を見られ、それ以降も私が彼女に会い続けていることは、聡い弟のことだから当然察してはいただろう。
だが、問題はそこじゃない。貴族社会――いや、そもそもこの人族の社会において、魔族との婚姻など禁忌に近い。それが公国に連なる貴族の当主の身内ともなれば、なおさらのことだ。
「いや、でも……」
「以前はライモンド兄上の婚姻が先だからと仰っていましたが、もう十分待ったでしょう」
「……周囲がどう見るかは、やはり考えるよ」
私は激しく動揺し、答えに窮した。
「まさか、貴族だからとか、周囲の目がどうとか、そんなつまらないことを考えてらっしゃるのですか?」
レオナルドはナイフとフォークを置き、灰色の瞳で私を真っ直ぐに見据えた。
「フェリシア姉様に、申し訳ないとは思わないのですか?」
……申し訳ない?
人族社会から「魔族」と一括りにされ、忌避されてきたファウン族の彼女に対して、人族の貴族である私が、身分を理由に結婚をためらうことを「申し訳ない」と言うのか。この弟は、本当に……おかしな思考を持っている。
「結婚という形をとらなくとも……彼女と一緒にいることはできるよ」
私は、精一杯の言い訳をこの口で紡いだ。現状を壊さず、ただ静かに彼女を愛し続けること。それが最善だと、自分に言い聞かせてきたからだ。
「はぁー……」
レオナルドは、わざとらしいほど大きなため息をついた。
「もし兄上が、彼女が『魔族として忌避される存在だから』などと考えて躊躇しているのなら、なおさらです。周囲がそう思っているというだけで、兄上まで同じように考える必要はないでしょう」
「…………」
「ノルテン公国には、人族とファウン族の婚姻を禁じる法はありません。家としても、私が反対する理由はありません」
涼しい顔で、あっさりとそう言い切る。
恐ろしい弟だ。人族社会で長く当然とされてきた常識を、この弟は法と理屈だけであっさり脇へ退けてしまう。
そして私は、自らの心の奥底にあった感情を、明確に自覚していた。
三年前。長兄ライモンドと、三男レオナルドが家督を巡って争った、あのシエル軍の越境事件。
あの時、私は表向きは、暴走する騎士たちを止め、領地を守るため。だが……私の心の底には、確かな打算と期待があったのだ。
(私は……弟の、この貴族然としない異端な考えに賭けていたのだな)
この弟ならば、堅苦しい常識を壊してくれるのではないか。私とフェリシアが、日の当たる場所で結ばれる世界を作ってくれるのではないか、と。
沈黙する私に、隣に座っていたマルチェロが、静かに、だが力強く口を開いた。
「ロメロ兄様。私も、レオナルド様に同感です。……フェリシア様を、正妻として娶るべきですよ」
その言葉には、庶子として長年日陰を歩んできた自身の、偽らざる思いが込められているように感じられた。
胸の奥に閊えていた硬い石のようなものが、じんわりと溶けていくのを感じた。私は深く息を吸い込み、二人の弟へ顔を向けた。
「ありがとう……」
心からの礼を言うと、二人の顔がパッと明るくなった。
「では、日取りを――」
「だが」
早々に動き出そうとするレオナルドを制し、私ははっきりと言葉を継いだ。
「彼女とは結婚するよ。だが、大仰な婚礼は挙げない」
私はゆっくりと口を開く。
「これは、フェリシアの願いでもあるんだ」
私は、愛しい人の穏やかな笑顔を思い浮かべながら告げた。
「私たちは、ただ静かに暮らしたいんだよ。大仰な儀式も、貴族としての披露目も必要ない。ただ、共に生きていければ、それでいい」
私の決意を聞いたレオナルドとマルチェロは、一瞬だけぽかんとした顔をした後、互いの顔を見合わせ、まるで悪戯を成功させた子供のように、揃って口元を綻ばせた。そして、二人同時に私へ向き直り、晴れやかな声を重ねた。
「おめでとうございます、兄上」
窓の外では、容赦ない北風が吹き荒れている。だが、このマナーハウスの食卓だけは、春が来たかのように温かかった。




