公国のバランスⅠ
年が明け、新年を迎えた公都ノルデン。
ノルデン城の広大な大広間には、何百本もの蝋燭と精霊光のシャンデリアが眩い光を投げかけ、新年の祝賀にふさわしい華やかな熱気に包まれていた。楽士たちが奏でる優雅な調べの中、大理石の床を踏み鳴らして進み出るのは、隣国マルケン公国をはじめとする周辺諸侯国からの使節団だ。豪奢な毛皮や色鮮やかな絹の礼装を身に纏った異国の貴族たちが、うやうやしく祝辞を述べ、持参した贈答品を捧げていく。
だが、その絢爛たる儀式の中心に座すべき男の姿が、そこにはなかった。正面のひときわ高い場所、青い竜の文様の下にある玉座は、空席だった。
「――公国を代表し、遠路はるばるお越しいただいた使節の皆様を、心より歓迎いたします」
玉座の一段下に立ち、新年の儀を取り仕切っているのは、公国宰相であるバルバナ・トルミーノ侯爵だ。
年末から体調を崩したヴァイシス公爵閣下は、大事を取ってこの新年の儀を欠席し、静養しているという。表向きの発表は「冬の冷えによる軽い風邪」だ。宰相のよどみない口上と落ち着き払った態度は、その発表に疑いを挟む余地を与えないほど堂々としたものだった。居並ぶ公国の諸侯たちも、表面上は穏やかな笑みを浮かべて宰相の言葉に拍手を送っている。
だが、私は拍手を合わせながら、空席の玉座へ冷ややかな視線を落としていた。
(……軽い風邪、だと?)
本当にただの風邪ならば、他国の使節を前にしたこの新年最大の儀式に、這ってでも顔を出すのが君主というものだ。思い返せば、昨年末の重臣評議会の折、ヴァイシス公は何度かひどく咳き込んでいた。その顔色は薄紙のように青白く、いつもの精悍な覇気は影を潜めていたように思う。公爵の体調は、我々が思っている以上に悪いのではないか。
現在のノルテン公国は、先代から二代にわたって安定した治世が続いており、公爵家そのものの権力と影響力が極めて強い。相対的に、我々のような歴史ある有力貴族の権力はかなり抑え込まれているのが実情だ。だからこそ、昨春、家令という重職に十六歳の若造を強引に据えるという人事も、公爵の血を引く令嬢をその若造に嫁がせるという暴挙とも言える采配も、我々は正面から止めることができなかった。
しかし、その絶対的な権力基盤は、本当に盤石なのか?
ヴァイシス公は、年が明けて三十一歳。まだ若く、本来であれば活力に満ち溢れているはずの年齢だ。だが、万が一……あの男に『頓死』などという事態が起きたらどうなる?
公国の次期後継者として約束されているボナペントゥーラ様は、まだわずか七歳。彼が成人し、自らの手で公国を統治できるようになるまでには、まだ九年という長い年月が必要になる。
(……九年、か)
急に、足元から這い上がってくるような背筋の寒さを覚えた。
圧倒的だと思っていた公爵派の権威は、決して盤石などではない。それはただ、ヴァイシス公という一個の巨大な存在の上に乗っかっているだけのものだ。我々分権派は、公爵の強権によって追い込まれていると感じていた。だが、相手の優位性もまた、いつ割れてもおかしくない薄氷の上に成り立っているのに過ぎないのだ。
(少し、ヴァイシス公の容態を詳しく探っておく必要がありそうだ)
私は視線を巡らせ、玉座に向かって整列している諸侯たちの顔ぶれを確認した。
ふと、険しい面持ちのレムノ辺境伯と視線が交差する。お互いに、わずかに目を細めるだけで、すぐに視線を外した。あちらも同じ危惧を抱いているに違いない。
公爵の権威が弱まること。それは分権を掲げる我らにとって、一見すると好機のように思える。だが、単純な公爵家の力の喪失は、決して望ましい事態ではない。公爵家の権威が失墜しすぎれば、権力の空白が生まれる。万一にもそのようなことが起きれば、幼き次期公爵を自らの陣営に抱き込もうと、私とオズワルド辺境伯の間で主導権争いが勃発し……最悪の場合、公国を二分する内戦に発展しかねない。そのような事態を免れているのは、「公爵家」という太い柱が中央にそびえ立っているからこそなのだ。
(我々分権派を、一枚岩にできればよいのだがな)
だが、それも容易ではない。
斜め前に立つ武断派の巨頭、オズワルド辺境伯は、宰相の挨拶を聞き玉座を見つめている。そして列の向こう側に立つ、エドマン・クレーブン伯爵。その底意地の悪い笑みは隠しきれていない。水面下で独自に蠢いているというあの男の動きにも、細心の注意を払わねばならない。
そして……。
私の視線は、諸侯の列の後方に静かに佇む、一人の少年に向けられた。
新任の家令、レオナルド・グレリオ男爵。
居並ぶ百戦錬磨の諸侯たちがそれぞれに腹の探り合いをしているこの大広間にあって、彼だけは不気味なほどに無表情だった。十七歳という若さでありながら、評議会では公爵の案にすら平然と異を唱え、未だに誰の派閥にも与しようとしない底知れぬ若造。
彼は今、誰も座っていないあの空席の玉座を見上げて、何を考えているのか。公爵の体調不良すらも、あの冷やかな灰色の瞳には計算の一部として映っているのではないか。
豪奢な音楽と使節団の華やかな声が響き渡る中、冬の冷気とは違う悪寒を振り払うように、私は小さく息を吐き、再び前を向いた。一見して華麗で揺るぎなく見える公国の未来も、その実、薄い氷の上に立っているだけなのかもしれない。




