楔Ⅲ
暖炉の薪が、ぱちりと乾いた音を立てて爆ぜた。揺らめく炎の明かりを背に受けながら、私は執務机の上に置いた瀟洒な酒瓶から、とろりとした琥珀色の液体をグラスへ注ぐ。
「――リオネルの兵が、アルヴァへ入った?」
最初にその報告が耳へ入ったときは、どこにでも転がっている馬鹿げた噂だと思った。我がクレーブン家へ出入りする商人が、さらに北方の交易を扱う商人仲間から酒場の席で聞いたという程度の話だ。その程度の出所でしかない。
だが、どうにも引っかかって別の筋を密かに探らせてみると、驚いたことに似たような噂が次々と這い出てきたのだ。
もっとも。その内容は、あまりにも滅茶苦茶だった。
『リオネルがアルヴァのドワーフ軍閥と密約を結んだ』
『大量の武器を北へ密輸している』
『特定の獣人部族を支援し、アルヴァの内戦へ武力介入した』
『北方の鉱山を奪うために私兵を送った』
どれもこれも、話が大きすぎる。大げさに尾ひれがつきすぎていて、真実味が欠けていた。
「……くだらん」
私は鼻で笑い飛ばした。アルヴァの凶暴な軍閥どもを徒に煽って、一体何の得があるというのか。向こうの戦火が南へ広がれば、一番最初に焼かれるのは国境を接している当のリオネル領だ。自分の領地を泥沼の戦場へ変えるために、わざわざ隣国の内乱へ火をくべる愚かな領主などいるものか。
まして。あのレオナルド・グレリオが、そんな底の浅い愚かな真似をするとも思えない。
十六歳。この春、男爵位を継ぎ。そしてヴァイシス公爵閣下から、突然公国の家令へと抜擢された若造。
先日の重臣評議会で実際に顔を合わせた限りでも、あの男の考えていることは妙に読みづらく、底知れなかった。公爵の寵臣として振る舞うかと思えば。公爵が性急に進めようとした農業改革へ、平然と反対の意を唱えてみせる。かといって、我々分権派の諸侯へ擦り寄ってくるわけでもない。欲しい者には改革の技術を渡すと言い放ち。誰の派閥へも取り込まれる様子を見せない。
「では、何をしている?」
私はグラスを揺らす。氷がからりと鳴った。
リオネルの兵がアルヴァへ入った。どうやら、そこだけは揺るがぬ事実らしい。だが、真の目的が分からない。ただの商隊護衛か。難民救済の慈善活動か。特定の部族との交易か。それとも。この混沌とした噂の山の中に、こちらがまだ掴んでいない恐ろしい『何か』が混じっているのか。
「……気味の悪い小僧だ」
低く呟く。だが。分からないからといって、こちらから下手に藪をつつく必要はない。あの若造が勝手に失敗し、アルヴァの軍閥を不必要に刺激してくれるというなら、それはそれでよい。国境を荒らして統治能力を疑われる事態になれば、いくらヴァイシス公爵でも庇いきれまい。
逆に。もし、この不可解な動きで何らかの成功を収めたなら――。
そこで、敢えて考えるのをやめた。まだ早い。
私は杯を干した。北の不穏で得体の知れない話よりも、公都の華やかな社交界には、もう一つ極めて面白い噂が流れている。
パドヴァを治める、レイナ・アルセリナ女男爵。あの気位が高く、誰のものにもならない女が、このところ表舞台へほとんど姿を見せなくなった。表向きは、体調不良による療養ということになっている。だが。どうも、それだけではないらしい。
「身籠った、ねえ……」
私は思わず、下世話な笑みを浮かべた。未婚の女男爵。求婚者など掃いて捨てるほどいたというのに、その誰とも婚姻を結ばず、誇り高く振る舞っていたあの女が。屋敷の奥で、ひっそりと腹に子を宿したらしい。
父親については、誰も知らない。どこかの貴族だという者もいれば。近衛の騎士だという者もいる。出入りの商人だという噂まであった。どれも確たる根拠はない。だが、だからこそ社交界の人間はこういう話を好むのだ。
「あの女がねえ」
いつも男どもを冷たく見下ろすように笑っていた女傑が。一体どこの誰に、こっそりと情を許したのやら。その滑稽な姿を想像するだけで、酒が美味くなる。私はもう一杯、グラスへ注いだ。
公都の社交場という場所には、実に様々な話が転がっている。くだらない恋愛話。領地同士の境界の揉め事。誰と誰が喧嘩した。誰の娘が誰に惚れた。そんな、取るに足らない雑談の山だ。
だが。その中に時折、ぞっとするような本物が混じる。誰もが酒の肴として笑って聞き流すような噂話の底に。時代を動かす、小さな欠片が埋まっていることがある。
「さて――」
私は燃え盛る暖炉へと目を向ける。北の噂。女男爵の噂。どちらが本物で。どちらが、ただの笑い話なのか。
今はまだ。誰にも分からない。
-----制度紹介-----
アルヴァ人道支援
アルヴァ王国で部族抗争や飢餓に苦しむ住民を対象に、リオネル男爵領が開始した国外支援活動。
食料、医薬品、生活物資、農耕・土木技術などを提供し、必要に応じて護衛部隊も派遣する。
支援を受ける部族には、周辺部族への襲撃や報復行為の停止が求められる。
リオネル軍の目的は土地の占領や防衛ではなく住民の保護であり、重大な脅威が生じた場合は集落を放棄して住民とともに国境へ撤退することを原則としている。
アルヴァ王ティル・バリウスより、現地での支援活動および護衛兵の同行について承認を得ている。




