楔Ⅱ
吐く息が、白い。頬に当たる風も、尖った耳の先がちぎれそうに痛くなるほど冷たい。
私たち狐人族は、かつて敵対部族に追われて捨てざるを得なかった故郷へ戻ってきていた。もちろん、昔の平和だった村がそのまま戻ったわけじゃない。無残に焼かれたり、無惨に壊されたりした家々の残骸は、まだそのまま冷たい土の上に放置されている。
代わりに出来上がったのは、目前に迫ったこの過酷な冬を越すためだけの、急造の集落だった。
村の周囲には、外敵を阻む頑丈な木柵。その内側には、太い木骨を力強く組み、冷気を遮る厚い布を二重に張った八角形の仮設住居がいくつも並んでいる。隙間風が入り込まないよう、地面近くは丁寧に土で固められ、屋根にはこれから降るであろう豪雪の重みに耐えるための補強まで施されていた。
ちゃんとした、綺麗な家じゃない。でも。凍える寒さをしのげる。冷たい雨や雪が入らない。火を焚いて、仲間と身を寄せ合える。お腹の底から温まるものを食べられる。それだけで、飢えと死の恐怖に怯えていた今の私たちには、夢のように十分すぎる場所だった。
「ノーラ殿!」
呼ばれて振り返る。声の先では、リオネルの紋章を掲げた荷車から、次々と大きな小麦の袋が降ろされていた。ずっしりとした干し肉の塊。袋いっぱいの豆。貴重な塩。怪我の手当てに使う清潔な布と薬。並べられていく物資の山を見ていると、部族が一番平和で豊かだった頃よりも、今のほうが食料があるんじゃないかと思うくらいだ。
リオネルの人たちは、本当に、私と交わした約束通りに来てくれた。武器を持った兵隊さんだけじゃない。家を建てる大工さんや、土木工事を専門とする人たちまで連れてきてくれた。
みんな、ものすごい速さで働く。巨木を切り倒し。あっという間に柱を立て。泥だらけの道を平らに均し。村の中心に、清潔で使いやすい仮設の水場まで作ってしまった。最初の数日は、目の前で何が起きているのか理解が追いつかず、ただ呆然と見ていることしかできなかったくらいだ。
でも。この部隊を率いるロドリゴ様は、村作りが始まった最初の日に、私たちへ厳しい顔で釘を刺した。
『勘違いしないでほしい』
そう言って、卓上に村の周辺を描いた地図を広げた。
『我々は、この場所を守るために来たのではない』
一瞬、意味が分からなかった。こんなに必死になって、せっかく村を作り直してくれているのに?
呆然とする私へ、ロドリゴ様は鋭い、けれどどこか温かみのある瞳で続けた。
『我々が守るのは、あなた方だ』
万が一、野盗や軍閥が大軍で攻めてきたら。この村は捨てる。山積みの食料も捨てる。汗水垂らして建てたばかりの住居も、未練なく捨てる。そして全員で、指定された退路を通って南の国境へ一目散に逃げる。
『建物はまた造れる。食料もまた運べる』
ロドリゴ様はそう言った。
『だが、死んだ人間は戻せない』
私は、その言葉を一生忘れられないと思う。
だから、私たちは血のにじむような思いで、何度も何度も逃げる練習をした。足腰の弱い老人を誰が支えるのか。小さな子供を誰が抱えるのか。動けない怪我人を、どの荷車に乗せるのか。南へ続く細い小道を、どの順番で、どれだけ素早く進むのか。
私たち狐人族は、これまで「逃げる」ことを他の獣人たちから散々馬鹿にされてきた。卑怯者。臆病者。強い者へヘラヘラと尻尾を振る、骨のない狐。
でも。逃げることにも、高度な技術と覚悟が要る。生き残るためなら。仲間を一人も死なせないためなら。私はもう、逃げることを決して恥ずかしいとは思わなかった。
ふと、頬へ冷たいものが落ちた。
「あ……」
空を見上げる。白い。雪だ。とうとう、アルヴァの長い冬が来る。
そのとき。集落の外から、周囲を警戒していた二つの斥候隊が戻ってきた。南の森を歩いてくるのは、狼人族のバウンド様。そして、北東の街道の方から歩いてくるのは猿人族のウカン様。
「ロドリゴ様。南側の森、異常なし」
「街道筋も静かなもんだ。今のところ、こっちを嗅ぎ回ってる連中はいねえ」
二人は陣幕の前で簡単に報告を済ませる。そして、互いに何か冗談を言い合ったらしく、大きな口を開けて笑いながら、肩を並べて兵隊さんたちの天幕へ戻っていった。
私は、ついその背中を呆然と目で追ってしまった。狼人族と、猿人族。私が知っているこのアルヴァなら、この二つの種族が同じ場所へ来るだけでも、互いに牙を剥いて警戒する。まして、あんな風に笑いながら、無防備に背中を預け合うなんて。絶対にあり得ない。
なのに、南のリオネルでは、それがごく当たり前の日常なのだという。人族も。狼人族も。猿人族も。ドワーフも。同じ隊の中で、当たり前のように助け合って働いている。
(……私も、ぼんやりしてちゃ駄目だ)
冷えきった両頬を、両手でぱん、と強く叩く。
「みんな!」
部族の仲間たちへ、腹の底から声を上げる。
「雪が降ってきた! 見張りを増やそう!」
私たちに、敵と正面から剣を交えて戦う腕力はない。でも。遠くの音を拾う。匂いを嗅ぎ分ける。森の中を気づかれずに移動する。そういうことなら。私たち狐人族だって、どんな屈強な戦士にも負けない。
「西と北の森は私たちが見るよ! 街道の方も交代で見張って!」
「分かった!」
「ノーラ、あんたは?」
「私も行く!」
「また一人で転ぶなよ!」
「転ばない!」
勢いよく即答してから。……前回、見回りの途中で木の根に盛大につまずいて転んだことを思い出す。少しだけ、声が小さくなる。
「……たぶん」
私の情けない返事に、仲間たちがどっと温かい声を上げて笑った。
雪が本格的に舞い始めた、白い空の下。私は狐の耳をぴんと立てて、深く暗い森の向こうへ鋭く目を凝らした。
私たちをどん底から助けてくれた人たちの、ただ守られるだけの足手まといには絶対にならない。今度は。私たちが、自分たちにできることで、この部隊の目を担う番なのだから。




