楔Ⅰ
秋の終わり。リオネルの平野にはまだ雪こそないものの、窓の外を吹き抜ける風には、はっきりと冬の刺すような気配が混じり始めていた。遥か北に連なるアルヴァの山々は、すでに雪を孕んだ鉛色の雲に重く覆われている。
私はマナーハウスの静かな廊下を歩きながら、凝り固まった肩を思わずぐるりと回した。我が若き男爵様は、とにかく忙しい。領主としてリオネル領のさらなる発展を推し進めながら、公都ノルデンへ出向いては公国の家令としての政務まで同時にこなしているのだ。そして公都から帰領したと思えば、一息つく間もなく軍を預かる私を呼び出した。
執務室の重厚な扉を押し開く。そこにはすでに、レオナルド様と、留守を預かる領主代理のロメロ様が待っていた。
「お待ちしていました、義兄上」
卓上の書類から顔を上げたレオナルド様が、十六歳らしい穏やかな顔つきで声をかけてくる。私は一応、臣下として居住まいを正し、礼を取った。
「お呼びと聞き、参上いたしました。男爵閣下」
「堅苦しいのはその辺でいいですよ」
すかさずロメロ様が苦笑し、レオナルド様もまた柔らかく微笑んだ。
「姉上はお元気ですか? 小さなカタリナは、風邪など引いていませんか?」
我が妻は、目の前にいる主君レオナルド様の実姉、そしてロメロ様の実妹レティーシャだ。そして今年の春、私たち夫婦には待望の長女が生まれた。名はカタリナ。妻やレオナルド様たちを産み落とし、若くして亡くなった母君から頂いた大切な名前である。
「ええ。母子ともに元気ですよ」
私は肩をすくめ、わざと大げさに息を吐いてみせた。
「元気すぎて、妻と娘の両方に振り回されています。家へ帰ると、戦場より疲れるくらいです」
私のぼやきに、ロメロ様が堪えきれずに吹き出す。レオナルド様も声を上げて笑った。グレリオ家特有の、この気取らない温かな空気が私は好きだった。
ひとしきり家族の話に花を咲かせたところで、ふっと、レオナルド様の灰色の瞳から笑いが消えた。
――本題だ。空気が、ピンと張り詰める。
「マルチェロ兄上より、文が届きました」
レオナルド様が卓上に置かれた羊皮紙へ、静かに手を置く。
「アルヴァ国王ティル・バリウス陛下より、我が領による人道支援活動について正式な承認を得たそうです」
「……本当に取り付けましたか」
思わず感嘆の声が漏れた。多くの獣人部族が割拠する、閉鎖的なアルヴァ王国へ乗り込み、猜疑心の強い王から直接言質を引き出したというのか。使節として向かったマルチェロ殿の外交手腕も、実に大したものだ。
「細部については、まだ交渉が続いています。ただ少なくとも、アルヴァ王権に対する敵対行為とは見なさないとの回答を得ました」
「それで?」
「次の段階へ進みます」
レオナルド様の理知的な目が、真っ直ぐに私へ向けられた。
「ディバール卿。アルヴァ王国内へ入る人道支援部隊を編成してください」
来たか。私は姿勢を正し、軍人の顔へと切り替えた。
「はっ」
「二個中隊を準備します。ただし、国境を越えるのは一個中隊のみ」
「残りは?」
「国境関所の後方へ置きます」
なるほど。私は頭の中で、アルヴァ国境付近の詳細な地形図を思い浮かべた。越境してアルヴァに踏み込む兵は八十。そして同数を、退路となる国境側へ予備戦力として残す。
「何かあれば、越境部隊は住民を伴って直ちに撤退。関所側の一個中隊は、撤退経路の確保と受け入れに専念させます」
「村を守らせるわけではない、と?」
私が確認すると、レオナルド様ははっきりと頷いた。
「ええ」
その返事には、一片の迷いもなかった。
「我々が守りに行くのは、土地ではありません」
一呼吸。
「人です」
冷徹なまでに合理的な割り切りだった。私は黙って続きを待った。
「軍閥や他部族が近づいてきた場合、こちらから先に手を出すことは禁止します。挑発にも乗らない」
「攻撃された場合は?」
「住民と部隊の安全を確保するために必要な武力行使は認めます」
レオナルド様は、卓上で両手を組み合わせて続けた。
「ただし、その村を守り切るための会戦は行いません」
なるほど。ようやく、この若い主君の描く泥臭い図面の意味が分かった。勝つことが目的ではない。現地の領土や拠点を確保することも目的ではないのだ。
「危なくなったら村を捨てろ、と」
「そうです」
実に簡単に言う。だが、それを現場で実行する方はたまったものではない。
築き上げた村を襲われれば、兵の情として守りたくなる。味方を傷つけられれば、血が上って殴り返したくなるのが軍隊という生き物だ。その衝動を力ずくで抑え込みながら、足の遅い老人や子供、怪我人を引き連れ、背後から襲い来る敵を捌きつつ、隊列を崩さず雪深い国境まで後退する。並の突撃や攻撃命令の何倍も難しい、高度な統制が求められる任務だ。
私は無精髭の生えた顎を撫で、ガリガリと頭を掻いた。
「……やれやれ」
「難しいでしょうか」
「難しいなんてもんじゃありませんよ」
私は、誤魔化すことなく正直に答える。
「戦うなと言われた兵を制御する方が、戦えと命じるよりよほど難しい」
武功を焦る血気盛んな若者や、腕自慢の猪武者には到底任せられない。状況を冷静に読み、引くべきところで引き、必要とあらば部下に殴られてでも隊列を崩させない、図太い胆力を持った指揮官がいる。
しばらく脳内で将の駒を動かし、考える。やがて、一つの顔がはっきりと浮かび上がった。
「作戦全体の指揮は、私が執ります」
二人が私を見る。
「一個中隊は、ザウロ殿に任せたい」
領軍を支える古参、パウロ殿の長男だ。与えられた命令の意図を正確に理解し、どんなに状況が悪化しても決して頭に血が上らない、氷のような冷静さを持っている。今回の撤退戦を前提とした任務には、うってつけの男だ。
「それから」
私は続けた。
「バウンドとウカンを借ります」
アルヴァ出身の狼人族と猿人族の士官。雪深い現地の地形、複雑な部族社会の掟、そして獣人特有の感覚と気配を肌で知る二人は、過酷な敵地での耳目としてこの任務に欠かせない。
私の人選を聞き、レオナルド様は満足そうに小さく笑った。
「委細の差配は、義兄上に任せます」
「承知しました」
私は主君の命を重く受け止め、深く一礼する。窓の外に目を向ける。北の山々にかかる鉛色の雲は、先ほどよりもさらに低く、重くなっていた。




