未来への翼Ⅱ
これでようやく一息――とは、いかなかった。
部屋には、まだマルチェロ兄さんが残っていた。差し出された冷たい水を口にしている兄を見ながら、私は少しばかり申し訳ない気持ちになる。長い船旅から戻ったばかりなのだ。普通なら、何日かゆっくり休ませるところだろう。だが、事態はそれを許してくれない。
「……マルチェロ兄さん」
「はい」
グラスを置いた兄が、静かにこちらを見る。
「何でしょうか。ずいぶん改まって」
「戻ったばかりなのに、本当に申し訳ないのですが……至急お願いしたい役目があります」
私の声色で察したらしい。マルチェロ兄さんは居住まいを正し、背筋を伸ばした。
「構いませんよ」
少しだけ苦笑する。
「僕の役目は、リオネルの外交を担うことでしょう。次はどちらへ向かえばよろしいのですか?」
「北です」
「北?」
「アルヴァ王国の王都へ」
兄の表情が僅かに変わった。
「国王ティル・バリウス陛下との面会を取り付けてほしいのです」
「……アルヴァ王と?」
マルチェロ兄さんは眉を寄せる。
アルヴァ王国。多くの獣人部族と諸勢力が割拠し、長年にわたり内紛を続けてきた北方の王国だ。その王座にあるティル・バリウスは、かつて統一王アーガレスと共に戦った伝説的な冒険者の一人である。だが、長い年月を王として過ごすうち、今では地方の争いへ積極的に介入することもなくなったと聞く。
「先日、公都で一人の狐人族を保護しました」
私は卓上の羊皮紙を引き寄せた。
「ノーラ・ミール。アルヴァ南部に暮らす、小さな狐人族部族の長です」
兄へ、これまでに聞き取った事情を簡潔に説明する。出口のない部族抗争。住処を追われた一族。失われた家族。飢えと怪我。そして、滅亡寸前まで追い込まれた数十人の生存者。
「ですが、これは彼女の一族だけの問題ではありません」
私は続けた。
「アルヴァから逃れてくる難民は、何年も前からリオネルへ流れ込み続けています。ウェルマ村をはじめ、受け入れられる者は受け入れてきました」
「ええ」
「ですが、向こう側で人が追われ続ける限り、こちらで何人受け入れても終わりません」
マルチェロ兄さんが顎へ手を当てる。
「……つまり、国境のこちら側で難民対策を続けるだけでは限界がある、と」
「そうです」
「それで、アルヴァ国内へ支援を?」
「ええ」
私は静かに頷いた。
「アルヴァ王に求めるのは、リオネル男爵家が現地の部族へ食料、医薬品、農耕技術などを直接提供することへの『正式な承認』です」
「つまり、人道的な支援だと伝えるわけですか」
「我々はアルヴァの土地など要りません」
私ははっきりと言い切った。
「リオネル男爵領は、アルヴァ王国に対して一切の領土的野心を持たない。そのことも明確に伝えてください」
マルチェロ兄さんはしばらく黙り込み、それから冷静な声で口を開いた。
「王が認めたとしても、現地の軍閥が従うとは限りませんよ」
「もちろんです」
「大量の食料を運び込めば、力ずくで奪いに来る者もいるでしょう。我々が弱った部族に肩入れしている、と受け取る者もいる」
「そのための『条件』も用意します」
兄が私を真っ直ぐに見据える。
「支援を受ける部族には、他部族への襲撃と報復行為の停止を求めます」
「停戦を条件にする、と」
「我々が渡した食料で腹を満たして、そのまま隣の村を襲われては意味がありませんから」
武器そのものを奪うつもりはない。あの過酷なアルヴァでは狩猟にも、自衛にも武器が必要だ。求めるのは、際限のない戦闘を止めること。少なくとも、こちらの支援を受けている間は。
「そして、もう一つ」
私は少し間を置いた。
「リオネルの人員が現地へ入り、支援活動に従事すること。その護衛として、我が領の兵を伴うことも認めてもらいたい」
マルチェロ兄さんの目が、鋭く細くなる。
「……兵を入れますか」
「ええ」
「それは向こうから見れば、十分に軍事行動と受け取られますよ」
「だからこそ、王の承認が必要なのです」
これは戦争ではない。土地を奪うためでもない。だが、武装した兵を他国へ入れる以上、言葉だけで済ませるわけにはいかないのだ。
マルチェロ兄さんは、しばらく私の灰色の瞳をじっと見つめていた。そして、小さく息を吐く。
「なるほど」
口元に、微かな苦笑が浮かんだ。
「人道支援とは、随分と難しい仕事ですね」
「申し訳ありません」
「謝らないでください」
兄は立ち上がった。
「僕にしか頼めないのでしょう?」
「はい」
にこやかに即答すると、マルチェロ兄さんは大げさに肩を落とした。
「……まったく、人使いの荒い当主様ですね」
そこだけ、昔の気安い兄の口調に戻る。
「せめて今夜だけは、ゆっくり休んでください。とびきりの料理と酒は用意させています」
「それはありがたいですが」
兄が扉へ向かいながら振り返った。
「アグリアス公爵領の料理と酒は、かなり美味でしたよ。下手なものを出されても驚きませんからね」
「それは料理長には伝えないでください。寝込んでしまいます」
マルチェロ兄さんが声を立てて笑い、部屋を出ていった。
一人残された執務室で、窓の外に視線を向ける。夕暮れのリンクス港が、穏やかな波音とともに広がっている。海の向こうから持ち帰られた、新たな技術という種。そして今度は、北へ向かう使者。
公都での政務に身を置きながらも、私の視線――そしてリオネルの歩みは、少しずつ領境の外へと向かい始めていた。
-----技術紹介-----
リオネル式中型帆船
リューベルで学んだ造船技術を、アルビオンの遠浅な港湾事情に合わせて再設計した中型帆船群。
大型船ほどの積載量は持たないが、浅い港への入港性能、建造費、運用人数、航路の自由度に優れる。
基本設計を共有しつつ、積載・速度・護衛など用途に応じて船体構造を変更できることが最大の特徴。
現在はリンクスで建造体制の整備が始まったばかりである。




