アルヴァからの少女Ⅳ
振り返ると、そこには見上げるような巨躯を誇る、灰色の毛並みをした熊人族の男が立っていた。
無骨な顔つきに、丸太のように太い腕。感情をあまり表に出さない、寡黙な佇まいでじっと私を見下ろしている。
「……腹、減ってんのか」
「へ、減ってません! ぜんぜん平気です!」
意地を張って胸を張った瞬間。
――ぐううううううううっ。
お腹の虫が、容赦なく私の嘘を暴き立てた。
「…………」
熊人族の男が、黙って私を見る。 私も、恐る恐る男の顔を見上げる。
「……ほ、ほんの……ちょっとだけ、です……」
消え入りそうな声で白白しい弁明を口にすると、男は表情を変えぬまま、短く喉を鳴らした。
「……来い」
その無口な熊人族の男性が、実はこの村をまとめる村長のゴンザさんという方なのだと知ったのは、木の器になみなみと注がれた温かい野菜スープと、ちぎりたての白パンを腹いっぱいご馳走になった後のことだった。
お腹が満たされ、人心地がついたところで、私は胸の内に溜め込んでいたすべてを必死に吐き出した。
アルヴァで今起きている泥沼の部族抗争のこと。
私たち狐人族が卑怯者と蔑まれ、住処を追われたこと。
暗い森の中で食料が尽き、怪我と飢えで仲間たちが瀕死であること。
このままでは、そう遠くないうちに全員が皆殺しにされること――。
話しているうちに、森に残してきた子供たちやお爺ちゃんの顔が浮かび、目からポロポロと涙がこぼれ落ちて止まらなくなった。
ゴンザさんは相槌を打つことも滅多にせず、腕を組んで黙ったまま、私の取り留めのない訴えをじっと静かに聞いていた。
「……なるほどな」
訥々とした声が落ちる。
「お願いします……っ!」
私は椅子の下へ滑り落ち、床に額を擦りつけるようにして深く頭を下げた。
「ここの領主様に会わせてください! 何でもします、どんな仕事でも文句言わずに働きます! だから……私たち部族のみんなを、ここに置いていただけるようお願いしたいんです……!」
ゴンザさんは顎の毛を撫で、しばし思案するように沈黙した。
そして、ぼそりと口を開いた。
「……話は、分かった。……伝える。だが」
すがるように顔を上げた私に、彼はぽつりと言葉を継いだ。
「……男爵様は、今ここにはおらん」
「…………え?」
目の前が真っ暗になった。
「公都ノルデンだ。……家令に、なられた」
家令。
聞いたこともない言葉だった。
何だろう、それ。
分からないけれど、たぶん、ものすごく偉いんだろう。
でも、そんなこと今はどうだっていい。
「い、いつ……いつ領地へ帰ってくるんですか!?」
「……わからない。しばらくは戻らないと聞いている」
「しばらくって、どれくらいですか!?」
私はたまらず立ち上がって、テーブルに身を乗り出した。
「一月!? それとも、ふた月先ですか!?」
「…………儂に聞かれても、困る」
困惑したように太い眉を寄せるゴンザさんに、私の焦燥感は限界に達していた。
待てない。
そんなに待てるはずがない!
今この瞬間だって、森の仲間たちは敵の足音に怯えているのだ。ひと月もふた月も待っていたら、戻った時には全員が冷たい骸になっている。
「……待て。代理の、ロメロ様に」
「その人はっ!」
私はゴンザさんの言葉を遮った。
「その人は、アルヴァにいる私の仲間全員を助けるって、今すぐその場で決められるんですか!?」
「…………」
ゴンザさんは言葉を詰まらせ、視線を泳がせた。口下手な性格もあってか、うまく説明の言葉が見つからない様子だった。
けれど、その沈黙だけで十分だった。
救ってほしいのは、ここに単身逃げてきた私一人じゃない。
森に取り残された、怪我人や子供を含めた数十人の一族全員なのだ。
国境を越えて迎えに行かなければならない。
場合によっては、敵の追手を警戒して武装した兵士の護衛だって必要になるかもしれない。
他国の領土に踏み込むような途方もない重大事を、「代理」の人に頼んで、そこからさらに領主様へ手紙を往復させて返事を待つ?
そんな悠長なことをしている時間なんて残されていない……。
「……その『ノルデン』って町は、どこですか?」
私の問いかけに、ゴンザさんは不穏な気配を察したように、ぎょっと目を細めた。
「……おい。まさか」
「どっちですか!?」
「……待て。公都は遠い。まずは屋敷へ――」
「どっちの方角なんですか!!」
必死に詰め寄る私の剣幕に圧されたのか、ゴンザさんは困り果てたように眉根を寄せ、短く息を吐くと、窓の外を指差した。
「……街道を、南だ」
「ごちそうさまでした! 恩は絶対に返します!」
それだけ叫ぶと、私は止める声が追いつくよりも速く、脱兎の如く部屋を飛び出していた。
お腹には温かいスープとパンがある。
足なら、まだ動く。
南へ続く一本の街道を見据え、私は一刻を争う仲間の命を背負って、公都ノルデンを目指し泥を跳ね上げて疾走した。




