アルヴァからの少女Ⅲ
国境の険しい山道を抜け、関所が見える場所へ辿り着いたのは、森を飛び出してから二日後のことだった。
私は街道脇の木陰に身を潜め、尖った耳を伏せながら、目の前の光景に頭を抱えていた。
「……どうしよう」
頑丈な石造りの関所。
人の背丈を超える二メートルほどの城壁が横に伸び、街道を完全に塞いでいる。
門の前では、厳しい顔つきの衛兵たちが槍を手に目を光らせていた。
通りかかった旅人や行商人は一人ずつ呼び止められ、何やら木札や羊皮紙を差し出している。
(あれがないと通れないの?)
もちろん、私にそんな通行許可証などあるはずもない。
正面から堂々と近づけば、一言も交わす間もなく槍の穂先を突きつけられて追い払われるのが関の山だ。
「事情を……話したら、通してくれないかな」
しばらく真剣に考えた。
「…………」
いや、駄目だ。
私のつたない人族の言葉で、この切迫した事情を正確に説明できる自信なんてこれっぽっちもない。
そもそも、身元不明で泥だらけの獣人の小娘を、人族の兵士が「はいそうですか」と通してくれるはずがないのだ。
私は木陰からそっと顔を出し、城壁の高さをもう一度見上げた。
「……あのくらいなら、いけるかな」
息を潜め、日が沈むのをじっと待った。
夜の帳が下り、松明の明かりが石壁を赤く照らし出す。
見張りの衛兵が、荷崩れを起こした別の旅人の馬車に気を取られて視線を逸らした――その瞬間、私は地を蹴った。
足音を殺して疾走する。
壁際に積み上げられていた木箱の上へ、音もなく飛び乗る。
石壁の継ぎ目からわずかに突き出していた突起に爪先を引っかけ、身体をバネのようにしならせて一気に蹴り上げた。
壁の最上部に指が掛かる。
そのまま勢いを殺さず身体を引き上げ、天端へ滑り込む。
反対側の地面を見下ろし――誰もいないことを確認して、闇の中へ飛び降りた。
トン、と膝を柔らかく使って無音で着地。
「よしっ」
思わず小さく拳を握りしめ、会心の笑みを浮かべた。
――だが、その直後。
「――誰だッ! 壁の向こうに人影が……曲者か!?」
松明を持った見張りの怒号が頭上から降ってきた。
「ひゃっ!?」
心臓が跳ね上がり、私は尻尾を巻き込んで一目散に走り出した。
背後で「止まれ!」「鐘を鳴らせ!」と何やら怒鳴り散らす声が響いているけれど、もう聞こえない。
聞こえない、聞こえない!
狐人族は腕力では大男に逆立ちしたって勝てない。
だからこそ――追っ手から逃げ切る足の速さだけは、誰にも負けないのだ。
夜風を切り裂き、私は街道を外れて闇の奥へとひたすら駆け抜けた。
国境を越え、夜を徹して走り続けた末に辿り着いた最初の大きな集落―― 朝靄の中に広がるその村の光景を目にした瞬間、私は立ち止まり、自分の目を疑った。
「……あ」
獣人がいた。
一人じゃない。
二人でもない。
「……いっぱい、いる……」
思わず、ピンと耳が立った。
広大な畑の畝を、人族の農夫と肩を並べて耕している多くの獣人たち。
掛け声を合わせながら、巨大な木製の荷車を力強く押していく屈強なオーク族。
街道の脇では、恰幅のいい人族の商人と、何やら親しげに身振り手振りを交えながら話している熊人族の姿まである。
人族と獣人が、当たり前のように同じ空間にいる。
誰も棍棒を振り上げて追いかけ回していない。
誰も罵声を浴びせたり、石を投げたりしていない。
それどころか、あぜ道では人族と獣人の子供たちが、泥だらけになって笑いながら追いかけっこをして遊んでいた。
その子供たちの一人が、母親から手渡された焼きたてのパンを、ふかふかと湯気を立てながら大きな口で頬張った。
「…………」
ふわりと、風に乗って香ばしい小麦の匂いが鼻腔をくすぐる。
――ぐぎゅるるるるるるるっ!
静かなあぜ道に、情けないほど盛大な音が響き渡った。
「…………」
私は慌てて両手でお腹を押さえ、真っ赤になった。
そういえば、一昨日から道端の渋い木の実をほんの少し齧ったきりだった。
「……おい」
不意に頭の上から短く低い声が落ちてきて、私は「ひぃっ」と肩を跳ねさせて飛び退いた。




