それぞれの目に映る貌Ⅳ
ノルデン城の広大な庭園の奥、木々に囲まれた屋敷の離れに、今日は新しい教育係の先生がやってくる。
リオネル領を治める男爵様。 そして、姉上が将来結婚するお相手――つまり、僕にとって新しい「兄上」になる方だ。
淡い栗色の髪に、落ち着いた灰色の瞳。
華美な飾りを好まない質素な貴族服に身を包んだその人は、離れの前の石畳に馬を止めると、優雅に鞍から降りてこちらへ歩いてくる。
僕はレースのカーテンを少しだけめくり、つま先立ちになって離れの二階の窓からその姿をじっと見つめていた。
父上は以前、僕に「レオナルド卿は並外れて頭の良いお方だ。たくさん学びなさい」と仰っていた。
お会いするのはもう何度目かになるけれど、僕は最初から、このお方のことが大好きだった。
僕がどんな些細な疑問をぶつけても、嫌な顔ひとつせず何でも丁寧に答えてくれる。それに、僕が家庭教師から教わって知っているはずの歴史や地理のことでも、「見方を変えると、こうも考えられますよ」と、まるで魔法のようにまったく新しい面白い景色を見せてくれるのだ。
父上とお話しするのとはまた違う、胸が躍るような楽しさがあった。
(あ、上がってきた……!)
エントランスで使用人に案内され、廊下の絨毯を踏みしめてこの部屋へと向かってくる足音が聞こえた。
僕は慌てて窓辺を離れ、机の前の椅子へと駆け戻ってちょこんと腰を下ろし、背筋をピンと伸ばす。
ちょうどその時、トントンと行儀よく扉がノックされた。
「ボナペントゥーラ様、リオネル卿がお見えになられました」
使用人の声に、僕は胸の鼓動を弾ませながら元気に答える。
「すぐ入ってもらってください!」
「失礼いたします」
扉の向こうから低く穏やかな返事があり、カチャリと静かにドアが開いた。
入ってきたリオネル卿は、僕の姿を認めるなり、いつものようにふっと柔らかな笑顔を浮かべて一礼した。
姉上は以前、青い顔をして「あの人の笑顔は底知れなくて怖いわ」と呟いていたけれど、僕にはどうして姉上がそんなことを言うのかちっとも分からなかった。
僕にとって、この人は誰よりも優しくて、話しているだけで世界が広がるような不思議な先生なのだ。
僕は、この人と過ごす時間が本当に大好きだった。
約束の三時間、僕たちは机を挟んで本当に色々なことを話した。
机の上の難しい勉強ばかりじゃない。
僕が少し疲れた様子を見せると、リオネル卿――ううん、心の中ではもう「兄上」と呼んでいるその人は、机の端に肘をついて、領地の民たちがどんな遊びをしているのかを面白おかしく話してくれたり、どこか遠い世界のおとぎ話のような不思議な物語を聞かせてくれたりする。
あっという間に時は流れて、窓の外の陽光が少し傾き始めていた。
「――では、本日の講義はここまでといたしましょうか。ボナペントゥーラ様は本当に物覚えが早くていらっしゃる」
「もう終わりですか……? まだ、さっきの川の治水のお話の続きが……」
思わず身を乗り出して名残惜しそうに言う僕の頭を、兄上は困ったような、でも温かい笑みを浮かべてそっと宥めてくれた。
離れでの時間が終わると、兄上は必ず本邸の屋敷へと向かう。
姉上に、ご挨拶をするためだ。
でも――姉上は、三回に一度くらいしか兄上にお会いにならない。
今日も部屋の前で使用人が申し訳なさそうに頭を下げ、「ベアトリーチェ様は少々お体の調子がすぐれず、本日はお会いできません」と告げていた。
本当に具合が悪いのか、それとも兄上を避けているのか、僕にはなんとなく分かってしまうから少し胸が痛む。
けれど、兄上は少しも嫌な顔など見せなかった。
「そうですか。くれぐれもお体を大事になさってくださいと、お伝えいただけますか」
そう言って、あらかじめ用意してあった可憐な白い花束を丁寧に執事へ託すと、兄上は静かに会釈をして、馬を待たせている庭先へと歩き出した。
(もっと、お話ししたいな……)
僕はじっとしていられなくなって、兄上の後を追うようにトタトタと駆け足で外へ出た。
馬の脇まで駆け寄り、見送りをしようと息を切らす僕を見て、後ろからついてきた年配の執事が「ボナペントゥーラ様、そのような所まで駆け出すなど、お行儀がよろしくありません。おやめください」と眉をひそめて叱ってくる。
でも、そんなのお構いなしだ。僕は少しでも長く、この人と話がしたかった。
「兄上……あ、いえ、リオネル卿!」
呼びかけると、馬の手綱を握りかけていた兄上が振り返り、少し驚いたように目を丸くしたあと、ふわりと目元を和ませて僕の目線まで屈んでくれた。
「ボナペントゥーラ様、わざわざ見送りに出てきてくださったのですか?」
「はい! あの、次回の講義、楽しみに待っています!」
僕の精一杯の言葉に、兄上は「ええ、私も楽しみにしていますよ」と優しく頷いてくれた。
この優しい兄上の顔が僕はすごく好きだ。
馬に乗って颯爽と去っていく背中を、僕は見えなくなるまでずっと見送っていた。
この人と姉上が結婚したら、本当に僕の兄上になるんだ。
早くその日が来ないかな。
僕は小さく手を振りながら、本当の兄上と呼べるその日を、心から待ち遠しく思っていた。
-----人物紹介-----
ボナペントゥーラ・ルガーノ
人族・六歳
ノルテン公爵ヴァイシス・ルガーノの嫡男
姉はベアトリーチェ・ルガーノ
ルガーノ公爵家の後継者として幼い頃から教育を受けており、現在は父ヴァイシスの命により、リオネル男爵レオナルド・グレリオから直接教えを受けている
好奇心旺盛で、分からないことがあれば何でも尋ねたがる性格
答えを教えるだけでなく、自分では思いつかなかった物事の見方を示してくれるレオナルドの授業を、毎回楽しみにしている
姉ベアトリーチェとレオナルドの婚約が決まったことで、いずれ彼が義兄となることを誰よりも喜んでいる
本人を前にしては「リオネル卿」と呼んでいるが、心の中ではすでに「兄上」と呼んでいる




