それぞれの目に映る貌Ⅲ
「……何?」
ヴァイシス様の眉が、鋭く吊り上がった。
「そなた自身が提案したものではないか。なぜ急ぐことを阻む?」
「試験には大賛成です。最初から規模を大きくすることに反対しております」
「……そなたは、余の家令ではなかったか?」
冷やかな公爵の問いに、若き男爵は微塵も怯むことなく、淡々と返した。
「そのつもりですが」
「先ほどから聞いていると、誰よりも余の案に真っ向から反対しているような気がするぞ」
ピリピリと張り詰めていた空気が、その言葉でわずかに緩んだ。
エドマンが面白そうに口元を手で隠し、円卓の端から忍び笑いが漏れる。
レオナルドもまた、困ったように口元を緩めて肩をすくめた。
「失敗すると最初から分かっている案に唯々諾々と賛成する方が、家令として職務怠慢かと存じます」
「……言うようになったな」
ヴァイシス様も思わず苦笑を漏らされた。
先日の宴の爆弾発表以来、何かと殺伐とし、疑心暗鬼に包まれていた重臣たちの間に、ふっと柔らかな風が吹き抜ける。
主君の懐に飛び込み、場を和ませるその呼吸――とても十六歳の青二才の所作とは思えない。
「それで、なぜだ」
公爵が姿勢を正し、改めて問い直す。
レオナルドは手元の羊皮紙をトンと揃え、短く言い切った。
「人が足りません」
「農民ならいくらでもいる」
「農民ではありません。……収穫を数える人間です」
一瞬、室内の誰もが言葉の意味を咀嚼できず、眉を寄せた。
ヴァイシス様も同じだったらしい。
「……数える?」
「例えば改革によって、ある村の収穫が倍になったとします」
レオナルドはすっと人差し指を一本立てた。
「それで終わりなら、実に簡単な話なのです。作物が豊かに実りました。領地が豊かになりました。めでたし、めでたし、と」
芝居がかったその口調に、オズワルドたちが怪訝そうに目を細める。
「ですが、領主としては、それでは決して終われません」
二本目の指が、すっと並んで立った。
「どれだけ増えたのか。余った作物はどこへ運ばれ、いくらで売られたのか。人口はどれだけ増え、商業の取引はどう変化したのか。そして――それによって公爵家の税収はどう変わったのか」
ヴァイシス様の面元から、先ほどまでの苦笑が完全に消え去っていた。
「それを調べる者が必要になる、ということか」
「はい」
「徴税官を増やせばよかろう」
「では閣下。その徴税官が正しい数字を報告していると、一体『誰』が確認するのでしょう」
息を呑む音が、静かな部屋に落ちた。
ヴァイシス様が口を閉ざす。
その横で、エドマンが膝を打つように口端を吊り上げた。
「なるほど……。収穫が増えた分だけ、現地の徴税官の懐ばかりが豊かになりました、では笑えませんな」
「そういうことです」
「ならば、不正を働いた者を片っ端から厳罰に処せばよいだけの話だ」
ヘルベルトが法の番人として冷酷に言い放つ。だが、レオナルドは彼へ静かな視線を向け、穏やかに首を横に振った。
「処罰はもちろん必要です。ただ――不正をしていると客観的に分からなければ、法をもって罰することすら叶いません」
「……監査する者が必要になる、と」
「はい。現場を客観的に統制できる仕組みと、帳簿の数字を裏付ける監査官です」
「なるほどな」
低く唸るように呟いたのは、腕を組んだままのオズワルドだった。歴戦の武人の瞳に、深い理解の色が灯っている。
「……軍と同じか」
「軍、ですか?」
「ああ。兵の数だけ無駄に増やしたところで、軍が強くなるわけではない。兵糧を確実に届ける輜重部隊も、隊を統制する副官も、前線へ正確に命令を伝える伝令も必要になる。千人の烏合の衆を二千人にしたからといって、明日から二倍強くなるわけではないのと同じ理屈だな」
レオナルドは深く、我が意を得たりと頷いた。
「まさしく、その通りにございます」
オズワルドの例えを聞き、私の中でもすとんと腑に落ちた。
そうだ、決して難解な魔術のような話ではないのだ。
畑が豊かになれば、収穫物が増える。
物が増えれば、それを買い付ける商人が集まる。
人が集まれば、町ができ、金が激しく動く。
当然、それを正確に計算し、記録し、不正を防ぐ『役人』が必要になる。
言われてみれば、まったくもって当たり前の道理でしかない。
だが――その当たり前の連鎖を、農法という現場の一点から公国の財政機構という巨視的な視点まで結びつけて即座に論じられる者が、果たしてこの国にどれほどいただろうか。
「……リオネルではどうしたのだ」
ヴァイシス様が、探るように低く尋ねられた。
レオナルドは気負う風もなく、あっけらかんと即答した。
「失敗しました」
「……失敗?」
「はい。生産を増やすことばかりを先に急ぎすぎて、それを管理する人間が圧倒的に足りなくなりました」
「ふん、そなたのような男でも失敗するのだな」
セルジオが鼻で笑う。
だが、レオナルドは嫌味を気にする素振りすら見せなかった。
「かなり盛大にやらかしました」
オズワルドが短く鼻を鳴らした。
「自慢することではあるまい」
「お恥ずかしい限りです」
しかし萎縮した気配など微塵もない。
なるほど、この男は「失敗したこと」そのものよりも、「同じ失敗から何も学ばず繰り返すこと」を何より恥じる人種なのだ。
「ですから、公爵領では同じ轍を踏む必要はありません」
レオナルドはヴァイシス様へ真っ直ぐに向き直った。
「まず、人を育てるべきです」
「どのような人間をだ」
「文字の読み書きと、正確な算術ができる者。複式の帳簿を扱える者。税と流通の仕組みを肌で理解し、商人が持ち込んでくる数字を鵜呑みにせず、自分の頭と手足で確かめられる者。最初は、それだけで十分です」
「……どれほどかかる」
「まず半年から一年。その間は改革の規模を小さく抑え、現場で実地の経験を積ませます」
「一年か……」
ヴァイシス様が僅かに眉を曇らせる。
だが、レオナルドは妥協することなく静かに首を横に振った。
「一年で一人前にはなりません。ですが、一人前になるまで何もさせない必要もありません。基礎を徹底的に叩き込み、経験のある実務官僚の下につけて現場を踏ませる。そして数年後には、その中から『次の世代を教えられる人間』を育て上げるのです」
――静寂が、再び評議室を満たした。
セルジオも、エドマンも、ヘルベルトも、反論の言葉を見つけられぬまま沈黙している。 公爵の性急な思いを柔らかくいなし、諸侯の反発を綺麗に解きほぐし、それでいて最終的には公国の根幹たる「官吏養成」という話を収束させてしまった。
農業改革を巡る議論は、これで決着を見た。
……はずなのだが。
どうにも、私の老いた耳の奥に、一つの言葉が妙に引っかかって離れなかった。
輪作でもない。
鉄製農具でもない。
帳簿や税の仕組みでもない。
レオナルドが何度も、当然のように口にした、あの言葉だ。
――人を育てる。
私は何とはなしに、円卓の向こうへ視線を向けた。
当の本人は、もう次の議題の羊皮紙へ目を落としている。
(……人、か)
何が気になるのか、自分でもまだ分からない。
私は白くなった顎髭を撫でると、その小さな違和感をひとまず頭の隅へ追いやった。
さて、この若き家令は皆にはどう見えているのだろうか?




