神童
春の柔らかな光が、執務室の窓枠を縁取っていた。
城砦を囲む木々の枝先には青々とした若芽が息吹き始めている。晴れ渡った午前、窓から差し込む陽光が、オーク材の床の上に穏やかな四角い影を落としていた。
だが、室内に満ちる空気は、春の暖かさとは裏腹にどこまでも張り詰めていた。
「――パウロ・ペルノー」
低く、よく通る声で名を呼ばれ、私は背筋を限界まで伸ばした。
がっしりとした体躯の領主、アントニウス様が、大きな執務机を前にして私を正面から見据えている。
先日、夫人の死に涙を滲ませていた面影は消え、そこにあるのは国境を預かる武門の当主としての、威厳に満ちた厳格な眼差しであった。
「はっ」
「今年でレオナルドも五歳となった。……そこで、あの子の教育係をお前に任せたい」
その一言が下された瞬間、私の胸の奥で熱い塊が大きく跳ね上がった。
教育係。
貴族の家において、それは単なる勉強や剣の手ほどきをする役目ではない。将来にわたってその子の後ろ盾となり、歩む道を支える「後見人」と同義の重職だ。
妻のロザリンダが乳母を務めているとはいえ、私は男爵家において一介の騎士に過ぎない。三男様とはいえ、れっきとした男爵家の御子息の教育を一手に任されるなど、家臣としての地位の向上――望外の出世そのものであった。
(おお……リューリア神よ……!)
湧き上がる歓喜と名誉に打ち震え、私は床に膝をつき、恭しく頭を垂れた。
「身に余る光栄にございます、アントニウス様! このパウロ、命に代えましてもレオナルド様を立派な武門の男子として育て上げてみせます!」
「うむ。お前とロザリンダの忠義は疑っておらん。……だがな、パウロ」
父君はそこで言葉を区切り、重々しく息を吐き出した。
その灰色の瞳に宿ったのは、喜色ではなく、奇妙なまでに複雑な影だった。警戒とも、戸惑いともつかない、得体の知れないものを測りかねるような眼光。
アントニウス様は椅子から立ち上がり、窓辺へと歩み寄ると、外の景色を見つめながら低く告げた。
「……あの子が少し変わった子であるということは聞いているだろう」
「は……。乳幼児のころから、一切泣き声を上げなかったと……」
「うむ、しかし、それだけではないのだ」
父君の声が、わずかに沈んだ。
「二歳の折、教会の司祭に鑑定させ、お墨付きは得た。……だが、あの子の不思議なところは、そんな生易しい言葉で片付けられるものではない」
アントニウス様は振り返り、私を射すくめるように見つめた。
「あの子は、物事を見る目が達観しすぎている。先日の領内視察でもそうだ。ライモンドが感情を爆発させていた隣で、あの子は、まるで老臣のように周囲を冷徹に観察していた」
父君の口調には、実の息子に対する誇らしさとともに、拭い去れない空恐ろしさが混ざり合っていた。
「言葉を交わせば、理路整然として一切の破綻がない。時に見せるその佇まいは……とても五歳の幼子のものとは思えんのだ」
そこまで言われて、私はごくりと唾を飲み込んだ。
妻ロザリンダが以前「レオナルド様に見つめられると、まるで見透かされているような気がする」と漏らしていた言葉が、生々しく脳裏をよぎる。
「パウロよ。文字や算術、剣の手ほどきを教えるのは当然の務めだ。だが……それ以上に、あの子をよく観察してくれ」
アントニウス様は私の前に戻り、その重い手を私の肩へと置いた。
「あの子の言動、思考、行動……何か少しでも気になったことがあれば、些細なことでも余に報告するように。よいな」
「は……ははっ! 謹んで仰せの通りにいたします!」
深々と礼を尽くしながら、私は背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
望外の出世に沸き立っていた心は急速に冷え込み、これから向き合うことになる五歳の少年の底知れなさに、武人としての直感が警鐘を鳴らしていた。
◇
貴族教育が始まったグレリオ家三男レオナルド様の教育係を任されたとき、私は誇らしくも身の引き締まる思いでいた。
将来は領地の支えとなる若君、その基礎を自分が叩き込むのだ――これは男爵に仕える騎士としての名誉だった。
剣術、馬術。少年は額に汗をにじませ、真剣に取り組む。
お生まれになって半年ほど経ったある日を境に泣かなくなった不思議な子。妻のロザリンダが乳母を務め育てた。「泣かずの子」「悪魔憑き」などと呼ばれたこともあったが、それとは裏腹に、少年は自らを徹底的に鍛え上げるように武芸に励んでいた。レオナルド様はまだ五歳にすぎぬが、真剣な眼差しで稽古に臨む。小さな体で必死に木剣を振るい、落馬しそうになっても馬にしがみつき乗馬を学んでいる。その姿勢に私は舌を巻いた。
そこまでは良かった。
問題は、座学である。
算術の時間になれば姿を消す。読み書きの稽古を始めれば「腹が痛い」と言って席を立つ。歴史の講義となれば、いつの間にか窓の外へ消えている。
――逃げてばかりではないか。怠け癖がつけば、せっかくの武芸の稽古にも響く。 私は頭を抱えた。
「あなた、あの子は少し変わっているのです」
乳母であった妻ロザリンダは、穏やかに笑っていた。
「叱りつけても無駄ですわ。むしろ、こちらが振り回されます」
しかし、だからといって教育係を投げ出すわけにはいかない。
私は決意した。今日こそ、逃がすまいと。
翌日の座学の時間、私はレオナルド様の先回りをして廊下の角に身を潜め待った。案の定、授業の気配を察して外へ出ようとした少年が、後ろを気にしながらコソコソと歩いてくる。
「今日は逃がしませんよ、レオナルド様!」
不意を突かれて驚いた顔を見せ、レオナルド様は観念したように机へ向かい、ちょこんと椅子に腰を下ろした。
私は算術や文字など、用意した座学の本を読み聞かせ始めたが、レオナルド様は上の空で窓の外ばかり眺めておいでだ。
よほど座学がお嫌いなのだろう。
しかし、私は教育係だ。嫌いだからといってやらなくて良い道理はない。ましてや男爵家の御子息である。このまま社交場に出れば恥をかき、男爵家にとっても汚点になる。何が何でもある程度は座学も修めてもらわねばと、私は気を引き締めた。
「レオナルド様! 聞いておられますか!?」
つい、声を少々荒げてしまった。
しかし、レオナルド様はさほど気にした様子もなく、「聞いてるよ」と短く答えただけだった。
私は少し意地悪く、問いを投げかけた。
「……では、三十七に四十五を足したら?」
「八十二」
即答だった。まるで答えが最初から頭に入っていたかのようだ。
「……では、二十八に九十七を足したら?」
「百二十五」
「え?」
「え?」
二人の間に、なんとも言えぬ間が生まれた。
怪訝に思い、私は本棚の奥から古びた羊皮紙を取り出した。そこには自分でも読めぬ古代帝国の文字が並んでおり、歴史の一部を記録した難解な資料だった。
(さて、これはさすがに読めまい)
「では、五ページの最初から読んでください」
勝ち誇ったつもりだった。だが―― レオナルド様が怪訝そうな顔で尋ねてくる。
「最初って、ページの頭からってこと?」
私がそうだと頷くと、少年は眉をひそめた。
「『……を築き、豊饒を祈るべし』……なんで尻切れのとこからなんです?」
レオナルド様はすらすらと古代語を読み上げ、私の出題の不手際を的確に指摘してきた。
私は恥ずかしさのあまり顔が熱くなった。
どうして読める?
知識神ルシーナの神官でも解読に苦労する文書だぞ。
座学を終え、レオナルド様を見送ったあとも、私は机に額を押しつけ、呻き声を漏らした。
妻が言う「不思議な子」などという生易しい言葉では片付けられぬ。
――この子は、初歩の座学をもはや必要としない天才なのだ。
自分の役目は剣と馬を教えること。学問は、もはや自分が教える領分ではないのだろう。
小さな背中が廊下の向こうに消えていくのを見送りながら、私は思わず背筋を伸ばした。
「……さて、こんな事実をどうやってアントニウス様に伝えたものか」
◇
翌日。昨日の騒動を思い返しながら、私は自室で小さくため息を漏らしていた。
(……少々、調子に乗りすぎたか)
暗算を即答し、古代帝国語の文献を難なく読み解いてしまった。相手は真面目で誇り高い騎士パウロだ。乳母ロザリンダの夫であり、父から直々に教育係を任された武人としての面目を、五歳の幼児が完膚なきまでに叩き潰してしまったのだ。立ち直れぬほどに心をへし折ってしまったのではないか、あるいは恐れをなして父アントニウスへ駆け込んだのではないか――。
そんな懸念を抱えたまま迎えた、午後の座学の刻。
学習室の重い扉を開けると、そこにはすでにパウロの姿があった。
だが、部屋の空気は奇妙なまでに静まり返っていた。パウロは直立不動のまま、机の上に置かれた一枚の羊皮紙と石板を、穴が開くほど凝視してピクリとも動かない。まるで石造りの彫像のように固まり、息を潜めている。
(……これは、相当気まずいな)
私は咳払いもできず、抜き足差し足で机の前の椅子へと腰を下ろした。
痛々しいほどの沈黙が、部屋の隅々にまで満ちていく。こちらから「昨日は悪かった」と声をかけるのも不自然だ。五歳児としての体裁を取り繕うべきか、それとも素知らぬ顔で座っていればいいのかと内心で苦笑していた、その時だった。
パウロが、ゆっくりと顔を上げた。
その目には昨日までの困惑や恐れは微塵もなく、澄み切った、驚くほど真摯な光が宿っていた。
騎士は静かに膝を折り、私の目線の高さまで姿勢を落とすと、深く頭を下げた。
「――レオナルド様。折り入って、ご相談がございます」
「……なんですか、騎士パウロ?」
低く落ち着いた私の問いかけに、パウロは意を決したように顔を上げ、はっきりとした口調で告げた。
「この座学の時間……私に、教えを乞わせてはいただけないでしょうか」
「…………」
予想だにしていなかった言葉に、私は思わず目を丸くした。
今年で三十を迎える一人前の騎士が、つい先日五歳になったばかりの子供に向かって、平伏して「学問を教えてくれ」と頼み込んでいるのだ。
プライドを傷つけられて憤るでもなく、恐怖から遠ざけるでもない。己の無知を真正面から認め、ただ貪欲に知を求めるその実直さ。
(……ほう)
胸の奥から、感嘆が込み上げてきた。前世の政界でも、これほどの素直さを持った人間には滅多にお目にかかれなかった。保身と見栄に凝り固まった古狸ばかりを見てきた老政客にとって、この若き武人の態度はあまりにも眩しく映った。
「……三軍得易く、一将求め難し」
不意に口を突いて出た前世の兵法書の言葉に、パウロが怪訝そうに眉を寄せた。
「さんぐん……? それは、どういう意味でございますか、レオナルド様」
「兵を集めることは容易だが、真に気骨のある優れた一人の将を得ることは極めて難しい――古代帝国の古い兵法書に似た言葉があったんだ」
さらりと出鱈目の出処を仕立てて微笑むと、パウロは息を呑み、まるで至高の箴言でも授かったかのようにその言葉を噛み締めていた。
面白い。実に面白い男だ。
この世界で何かを変えるなら、私一人では足りない。
知らないことを知らないと言え、学ぼうとする人間が必要になる。
その最初の一人として、この男は面白い。
「いいですよ、騎士パウロ。申し出を受けます」
「ほ、本当でございますか……!」
パウロが歓喜に顔を輝かせかけた刹那、私はすっと視線を鋭くし、低く釘を刺した。
「ただし――条件があります。この部屋で起きていることは、父上にも、兄上たちにも、誰一人として漏らさないでください。私たちの間だけの『内密』ですよ。……守れますか?」
五歳児からの提案にパウロは一瞬息を詰まらせ、驚きに目を見張ったが、すぐに居住まいを正して力強く胸を叩いた。
「それはできませぬ。私は御父上より、レオナルド様について気付いたことは報告するよう、直々に命を受けております」
(なるほど。秘密を餌にしても主命を曲げないか。ますます気に入った)
「分かりました。では父上への報告を止めろとは言いません。ただ、私があなたに教えたことを、必要もなく他の者へ話すのは控えてください」
「それでしたら、お約束できます。アントニウス様以外には、決して口外いたしませぬ」
(これ以上を求めるのは酷というものだろう)
私はにこりと、努めて五歳児らしい笑顔を作った。
男爵家の小さな学習室で、三十歳の騎士と五歳の少年。
教える者と教えられる者が逆転した、奇妙な師弟関係が静かに始まった。
-----人物紹介-----
パウロ・ペルノー
人族・30歳
グレリオ男爵家に仕える騎士
乳母として長く男爵家の子供たちに仕えるロザリンダ・ペルノーの夫
四児の父であり、妻ロザリンダは現在第五子を身籠っている
実直で忠義に厚く、武芸と馬術に通じる
派手さはないが堅実な働きぶりを評価され、三男レオナルドが五歳を迎えたのを機に、その教育係に任じられた
教育係は、学問や武芸を教えるだけでなく、将来にわたって主家の子弟を支える後見人的な役割も担う
そのため、任命された者は担当する子弟に近い家臣として、家中でも一定の影響力を持つ
生真面目で責任感が強く、主君から命じられた務めを軽んじることはない
一方で身分や年齢にこだわらず、自らに足りないものを認めて学ぶことのできる柔軟さも持ち合わせている




