命の重さ
鉱山の視察を終えた一行は、山裾の中継所へと戻り、待機させていた馬車に乗り込んだ。
目指すは、今回の定期視察における最終目的地――北方のアルヴァ王国と境界を接する国境関所砦であった。
山を下りた馬車は、鬱蒼とした針葉樹の原生林を抜け、東へと進路を取る。
二時間ほど揺られたところで周囲の景色がわずかに開け、前方に一直線に伸びる古びた石畳の幹線道路が現れた。
古代帝国期に整備されたという「エディバラ街道」である。
遥か南方、古代帝国期のアルビオンの中心地として栄えた古都ドウセッシャーから、ノルテン公国の版図を貫き、北のアルヴァ王国の王都へと続く大動脈。長年の風雨で敷石はところどころ割れ、苔むしてはいたものの、往時の卓越した土木技術の痕跡を色濃く残し、今なお主要な道路としてその機能を果たしている。
馬車はその街道を北へと舵を切り、緩やかな丘陵地帯をさらに一時間ほど登っていく。
次第に周囲は深い森に挟まれ、両脇から迫る険しい山岳が道をすり鉢状に狭めていく自然の隘路に変わってゆく。
やがて木々の切れ間から、前方を塞ぐように横たわる石造りの関所が姿を現した。
山と山の狭間に沿って築かれた、横幅三十メートルほどの石壁。
その高さは二メートルほどで、城砦のような巨大な防壁ではない。
北のアルヴァ王国とは、二百年前に即位した現国王ティル・バリウスの治世以降、国家間の大規模な軍事衝突は起きていなかった。現国王ティル・バリウスは、かつて英雄王アーガレスの冒険者パーティー『スルスト』に名を連ねたエルフの精霊剣士である。
ティル・バリウスは二百年に及ぶ長い治世の末、いまや政務への関心をほとんど失っていた。
中央の統制が崩壊したアルヴァ国内では、種族ごとに分派した軍閥同士の勢力争いが近年激化の一途をたどっている。
ゆえに、この石壁も外敵の軍勢を防ぎ止める要塞というよりは、あくまで人や荷の行き来を改めるための仕切りとして設けられたものであった。
壁の内側に建つ石造りの簡易砦で、関所を預かる指揮官と対面した一同は、そのまま石壁の上へと足を運んだ。
そこから見えた光景に言葉を失った。
石壁を前にした人々は細い通路に溢れており、炊き出しのある火の周りでは小さな争いも起きている。
泥と汗と汚物の入り混じった鼻を刺すような臭気が、風に乗って石壁の上まで漂ってくる。
「……な、これは……」
愕然とした長兄が言葉を漏らす。
アルヴァ国内の戦乱を逃れた民が、難民となって国境へ押し寄せていた。
ノルテン公国からアルヴァへと伸びる街道は三か所あるが、いずれの関所も溢れかえる難民によって麻痺状態に陥っている。
先代の急逝に伴い若くして跡を継いだヴァイシス公は、治安維持のため「アルヴァからの難民の受け入れは原則として禁止し、許可なき越境を厳格に遮断せよ」との命令を下していた。
リオネル領ではまだ深刻化していないものの、最大の街道を抱えるレムノ辺境伯領では、すでに治安の悪化が限界に達しつつある。
このエディバラ街道の関所前にも、粗末な襤褸布を纏った人々が、冷たい泥の上に幾重にも群がり、身を寄せ合っていた。
その多くは、獣の耳や尾を持つ獣人やドワーフなどの亜人――アルヴァの民たちだ。
飢えで骨の浮き出た子供たち、寒さに震えながら虚ろな目で関所を見上げる老人たち。砦側も人道的な見地から炊き出しを行ってはいたが、漂う薄い粥の湯気に対し、群がる人の数はあまりにも多すぎた。配給の寸胴の周りには飢えた人々が殺到し、怒号と悲鳴が絶え間なく響いている。
「……父上! なぜ門を閉ざしているのですか!?」
正義感の強いライモンドの悲痛な叫びであった。
少年は石壁に拳を叩きつけ、苦痛に顔を歪めながら父を見上げていた。
◇
ライモンドの激しい声が、見張り台の冷え切った空気を切り裂いた。
十一歳になった長男は、握りしめた小さな拳を石造りの胸壁に叩きつけ、苦痛に満ちた表情で父アントニウスを見上げている。
「あんなに大勢の人が飢えて苦しんでいるのに……! なぜ助けてあげないのですか! 門を開けて、中に入れてあげればいいじゃないですか!」
正義感の強い兄の、純粋で真っ直ぐな叫び。
それに答えたのは、父ではなく、背後に控えていた砦の長官――鍛え抜かれた鋼の胸甲を纏った初老の騎士だった。
「――若様、それはなりませぬ」
低く、押し殺したような声だった。
砦長はライモンドの前に歩み出ると、苦渋に満ちた瞳を伏せながら、静かに首を横に振った。
「先代公爵の崩御に伴い、若くして跡を継がれたヴァイシス閣下より、厳命が下っております。『アルヴァからの難民の受け入れは原則として禁止し、国境にて厳格に遮断せよ』と。……そして何より、彼らを無制限に領内へ入れれば、我がリオネルの治安は一瞬にして崩壊いたします」
「治安だって!? そんなこと、飢えて死にそうな人を放っておく理由になるものか!」
「なるのです、若様」
食い下がるライモンドを、砦長は痛ましげに見つめながら遮った。
「すでに大街道を抱えるレムノ辺境伯領では、先行して流入した難民が溢れかえり、食糧の略奪や盗賊化が深刻化しております。受け入れた側の領民が襲われ、殺される事態すら起きていると聞きます」
「そんな……っ!」
ライモンドは言葉を詰まらせ、悔しげに唇を噛んで俯いた。
その隣で、次男のロメロは血の気を引かせた顔で立ち尽くしていた。
繊細な兄は、眼下に広がる泥だらけの飢民たちのうめき声に圧倒され、ただただ呆然と現実の残酷さに打ちのめされている。
八歳の姉レティーシャは、怒りに燃えるような碧い瞳を見張り台の縁に向けていた。だが、その怒りの矛先をどこに向ければいいのかが分からないのだ。隣国を荒らす軍閥か、冷酷な命令を下した公爵か、あるいは門を閉ざす砦の騎士たちか。誰を責めることもできない理不尽に、姉は小さく肩を震わせていた。
そして――私は、理解できてしまっていた。
(……砦長の言う通りだ。感情論で国家や領地は運営できない)
前世で国土交通や外務、そして総理大臣として幾度となく直面してきた、国際的な難民問題の記憶が蘇る。
あの門の向こうにいる数百人を無計画に受け入れれば、ただでさえ余裕のあるとは言い難い領内の食糧事情に、深刻な負担をかけるだろう。それだけではない。衛生管理の知識や設備が十分とは言えないこの世界で、飢えと泥にまみれた集団をそのまま市街や農村へ招き入れれば、母の命を奪ったような伝染病があっという間に領内へ蔓延する。
無秩序に門を開けば、自領の食糧、治安、防疫が一気に破綻する危険がある。
(救える数には限りがある。誰を、どこまで救うのか。結局、為政者は線を引かなければならない)
それは前世の地球でも、この未熟な異世界でも、為政者が背負い続けなければならない永遠の業だった。
沈黙を守っていた父アントニウスが、深く、重い息を吐き出した。
武門の領主としての威厳を保ちながらも、その灰色の瞳の奥には、予想を遥かに超える外の惨劇に対する深い痛恨が滲んでいた。
「……砦長」
「はっ」
父は静かに、だが通る声で命を下した。
「閣下の命に背き、彼らを領内へ通すことはできん。……だが、我が目の届く場所で、ただ指をくわえて餓死を見過ごすこともまた、グレリオの誇りが許さん」
アントニウスは見張り台の石壁に手をかけ、眼下の泥濘を見据えた。
「男爵家の倉庫から、可能な限りの余剰食糧をこちらへ回せ。炊き出しの回数を一日二回に増やし、配給の列を整えさせろ。それから、奥の沢から木樋を引いて清潔な水を確保させ、汚水と汚物は関所の風下へ埋めさせるのだ。……泥水の上で疫病を出せば、砦の兵にまで感染が広がるぞ」
「はっ! ただちに手配いたします!」
砦長が頭を下げ、駆け足で階段を降りていく。
父の指示は、現状で取り得る最善の人道支援であり、同時に砦の安全を守るための実務的な防疫措置でもあった。
だが――それでも、この場しのぎの対症療法に過ぎない。
(余剰食糧の供出も、清潔な水の確保も、ほんのわずかな延命にしかならない。根本的な問題――アルヴァ国内の戦乱と、この領地の貧弱な経済基盤そのものを変えない限り、この悲劇は永遠に終わらないのだ)
救うということの、途方もない難しさと重み。
それは、まだ五歳の幼い身体の胸の奥底へ、冷たく重い鉛のように沈み込んでいった。
前世の知恵があろうと、今の私にはこの国境に対して指一本触れる力すらない。
私たちが重苦しい沈黙の中で見張り台に立ち尽くしていた、その時だった。
関所の門前で、人々の悲鳴と怒号が一段と高く跳ね上がった。
◇
関所の外から響き渡った異様な叫び声と怒号に引かれ、砦の頑丈な木製門扉が軋んだ音を立てて内側からわずかに開け放たれた。
不穏な空気を感じ取った複数の兵士たちが、長槍を構えながら警戒を露わにして外へと足を踏み出す。 炊き出しの鍋に群がる難民たちの怒声を制し、門前の空間を確保しようとした、まさにその一瞬の隙であった。
門扉の陰――埃まみれの石壁の死角から、小さな影が弾かれたように飛び出した。
ぼろ布に包まれた、まだ乳も離れていない小さな赤子を両腕でしっかりと抱え込んだ、一人の獣人の少年。
泥で固まった毛並み、飢えで浮き出たあばら骨。少年は血走った目を剥き出しにし、外へと出ていく兵士たちの間隙、すれ違いざまのわずかな隙間を目がけて、一心不乱に門の内側へと滑り込もうと身を投げ出した。
生き延びるためか。腕の中の命を救うためか。
だが、その決死の跳躍は、最後方から外へ出ようとしていた一人の兵士の視界を捉えた。
兵士の身体が、訓練された反射速度で反応する。
侵入者への恐怖か、あるいは規律を守るための条件反射か。
刹那――鞘走る硬質な金属音が空気を裂いた。
その瞬間だけ、時間が異様にゆっくりと流れた。
振り抜かれた鋼の剣が、早春の冷たい陽光を浴びて鈍く銀色に閃く。
滑り込もうと前傾姿勢のまま宙に浮いた少年の身体。腕の中の赤子をかばうように丸められた小さな背中。
兵士の目が見開かれ、振り下ろされた刃が、赤子を庇うように丸められた少年の肩口から胸元へ深く食い込んだ。
「が、あっ……」
短い吐息とともに、朱色の鮮血が石畳の上に激しく散った。
少年の小さな身体が泥と血にまみれて崩れ落ち、腕からこぼれ出た布にまかれた赤子が石畳の上に投げ出される。
自らの手で少年を斬った兵士は、柄を握ったまま硬直していた。刀身から滴る生々しい赤を見つめ、顔から急速に血の気を失っていく。
静寂は、ほんの一瞬であった。
門の外にいた無数の難民たちの目が、一斉に見開かれた。
次の瞬間、地鳴りのような激しいどよめきが群衆を揺るがした。
「子供を……! 斬ったぞ!!」
「人殺しだ!」
恐怖に叫び声を上げて後退る者。絶望と飢えが臨界点を超え、怒りに顔を歪めて手にした石や棒切れを振り上げ、門へ向かって殺到しようとする者たち。
外に出ていた兵士たちは蒼白になりながらも、一斉に腰の長剣を抜き放ち、ギラつく刃を群衆へ突きつけて牽制した。
「下がれ! 近寄れば容赦なく斬り捨てるぞ!」
押し寄せる飢民の怒りと、抜刀した兵士たちの張り詰めた恐怖。
境界線の上で、一触即発の流血の火蓋がまさに切られようとした――その時であった。
「――そこまでだッ!!」
落雷のような怒声が、見張り台の上から関所全体を打ち据えた。
低く、腹の底を震わせる圧倒的な威厳。
領主アントニウスが胸壁から身を乗り出し、眼下の空間を一喝していた。その怒声に、先頭へ殺到しかけていた者たちが一瞬たじろいだ。
「武器を収めよ! 誰一人として抜刀を許さん!」
父は鋭く命じながら見張り台を駆け下り、開かれた門をくぐって、一人で外の泥濘へと大股で歩み出た。
防壁を背にしたアントニウスは、石畳の上に倒れ伏す獣人の少年を見下ろした。
少年の胸元からは夥しい血が流れ出し、すでに事切れていた。
その遺体へ、群衆の中から悲鳴を上げながら駆け寄り、すがりついたのは、少年の母と思われる痩せ細った獣人の女性であった。
女性は泥だらけの手で冷たくなっていく少年の体を抱きしめ、少年の名前を叫び慟哭を響かせて咽び泣いた。
アントニウスは硬い表情を崩さず、しかしその灰色の瞳の奥に深い苦痛を宿しながら、抜刀していた自らの兵士たちを背後へ促した。
「……門の内へ下がれ」
蒼白な兵士たちが促されるように門内へ引き上げていくのを見届けた後、アントニウスは少年が抱えていた赤子を拾い胸に抱き、すがりつく母親の前へ静かに歩み寄り、膝を折った。
武門の領主が、泥にまみれた難民の母親の前に視線を落とし、低く、重い声を絞り出す。
「……すまない。私の領を守る兵が、お前の子を死なせた」
その謝罪の言葉は、冷え切った冬の風に溶けていった。
母親はただただ少年の亡骸にすがり、涙を流し続けるしかなかった。
そのとき、アントニウスが拾い上げた襤褸布の包みから、火がついたような高い泣き声が上がった。
少年が命を賭して守り抜いた、幼い赤子の声であった。
死の静寂を切り裂くように響き渡るその無力で力強い産声だけが、血と泥にまみれた国境の空へ、どこまでも鮮明に吸い込まれていった。
◇
夕陽が傾き、石壁の影が長く伸びる。焚き火の煙は赤から灰に色を変え、風が冷たさを増した。少年の亡骸は布に包まれ、母の手に導かれて運ばれていく。母に返された赤子の泣き声はとぎれとぎれになり、やがて火のはぜる音に溶けた。
私はゆっくりと息を吐いた。喉の奥は砂を噛んだみたいに痛む。
不意に二か月前の母カタリナの顔が思い出される。
(英雄でなくてもいい……)
目の前で走るしかなかった子が、剣に出会わずにすむ世界を。
私に剣の才がなくても、魔法の才がなくてもいい。
人を集め、金を回し、仕組みを作ることなら――私は一度、それを仕事にして生きた。
石畳の赤は、もう茶に変わり始めている。けれど、目は覚えている。鼻は匂いを、耳は泣き声を。
忘れない。これは戦ではない。旗も甲冑も行軍もないところで、人はこんなにも簡単に死ぬ。
幼い拳を膝の上で握り、石壁の上から暗くなり始めた空を見上げた。
櫓の上の旗が、冷たい風にばさりと鳴った。
その響きを、私は生涯の礎として心に刻んだ。
翌日、関所を後にした馬車の中は沈黙に包まれていた。
窓の外ではそんな自分の思いなど素知らぬ顔で木々は今日もいつもと変わらずそこにあった。山並みが遠ざかり、蹄の音と車輪の軋みだけが耳に残る。兄や姉は皆うつむき、誰も口を開こうとはしない。あの少年の死の光景が、それぞれの胸を押しつぶしていた。
長兄ライモンドは父アントニウスと視線を合わせられずにいる。
ライモンドの胸の奥からせり上がる感情は、もはや幼い憤りだけでは収まりきらないようだった。
「目の前で、あんなに苦しんでる人たちがいるのに」
呟くライモンドはこぶしを強く握りしめている。
父は目を閉じ、しばらく答えなかった。硬い指が膝の上で組まれ、革の手袋が軋む。
やがて深い息を吐き、低く重い声で言った。
「……ライモンドよ。助けたいと思わぬ者などいない」
「では……!」
「だが、助けることはできぬのだ」
その声は石壁のように揺るぎなく、私の心を冷たく叩いた。
自分はわかっているがゆえに。
「領内の蓄えは限られている。今は春先で倉庫の麦も残り少ない。港に入る船では大量の穀物を運び込む術もない。ここで門を開けば、領民の食を数日のうちに失うだろう」
父は視線を窓の外に向けた。馬車は山を下り近隣の農村に差し掛かっていた。陽に照らされた田畑では、農夫が牛を曳いて土を起こしている。
「それだけではない。群衆は飢え、疲れ、病を抱えている。無秩序に流れ込めば、盗賊も疫病も領内へ広がる。レティやレオの命すら危険に晒すことになるのだ」
さらに声を落とし、兄の目をまっすぐに見据えた。
「そして何より――これはヴァイシス公の命令だ。『難民の受け入れを停止せよ』と。ノルテンの貴族たる私が従わねば、我が家は一族ごと罪に問われるやも知れぬ。……それが、現実だ」
胸に重石を押し込まれたような感覚だった。
助けられない理由は、理として理解できる。だが――
ライモンドは納得しないだろう。兄はそういう男だ。
(……私はこの理不尽を理解し受け入れてしまったのか?)
拳を握りしめた。自分も助けたいと願ったのに、父の言葉を否定できない自分が憎い。
守りたい理想と、理解してしまう現実。その狭間で胸が灼けるように痛んだ。
この世界には、確かに神の御業が存在する。
それでも、人の命はあまりにも簡単に失われる。
命が軽いのではない。
命を守るための仕組みが、あまりにも脆いのだ。
ならば――。
私にできることは、きっとそこにある。
-----世界設定-----
アルヴァ王国
アルビオン島北部に位置する王国
人族だけでなく、エルフ、ドワーフ、獣人をはじめとする多くの亜人種が暮らす多民族国家であり、南方のノルテン公国と国境を接している
現国王は、かつて統一王アーガレスとともに戦った冒険者パーティー『スルスト』の一員、ティル・バリウス
エルフである彼は二百年以上にわたり王位にあるが、長い治世の末に中央政府の統制力は弱まり、現在では各地で種族や有力者を中心とした勢力が独自に軍を抱えている
近年、その対立は武力衝突へと発展し、多数の住民が戦乱を逃れて南方のノルテン公国国境へ押し寄せている
ノルテン公国との間には複数の街道が通じており、古代帝国時代に築かれたエディバラ街道もその一つ




