視察
年が明け、母カタリナの死から一月半ほどが過ぎていた。
この大陸では、新しい年を迎えるとともに誰もがひとつ歳を重ねる習わしとなっている。
双子の兄ライモンドとロメロは十一歳に、姉レティーシャは八歳となり、そして私もまた、五歳を迎えていた。
例年より多かった雪もようやく解け始め、窓の外には遠くの山肌をわずかに白く残すだけの、淡い早春の光が差し込んでいる。春になれば、五歳となった私の本格的な貴族教育が始まる手筈になっていた。
静まり返った午後のマナーハウス。
中二階の踊り場を右へ折れた先にある、二階の領主執務室に、私たち子供四人が呼び集められていた。
重厚なオーク材の扉を開けて中に入ると、インクと古い羊皮紙、そして暖炉の薪が燻る匂いが微かに鼻を突く。
大きな執務机を背にして立っていたのは、父アントニウスだった。 がっしりとした体躯に、短く刈り込まれた灰色の髪。だが、その端正な顔立ちには、最愛の妻を失った喪失感の影が今なお色濃く刻まれており、父譲りの灰色の瞳には隠しきれない疲労と寂寥が漂っていた。
部屋の中には、重苦しい沈黙が淀んでいる。
それは私たち子供側も同じだった。
十一歳になった長男ライモンドと次男ロメロは、並んで立ちながら俯きがちに視線を落としている。
いつもなら威勢よく木剣を振るっているはずのライモンドは肩を落とし、繊細なロメロは所在なさげに自分の指先を見つめていた。
八歳になった姉レティーシャもまた、母譲りの淡い栗色の髪を小さく揺らし、普段の苛烈さなど見る影もなく、元気を失ったままじっと床の絨毯を見つめている。
母の死という巨大な喪失は、この武門の館から温もりを奪い去り、家族全員の心を深い悲しみの底へと沈めきっていた。
(……無理もない。まだ四十日あまりだ)
私は列の端に立ち、父と兄姉たちの姿を静かに見つめていた。
悲しみを忘れることなどできない。だが、このまま館の中に閉じこもり、沈鬱な空気に押し潰されていくのは、誰にとっても良いことではなかった。
やがて、父アントニウスが静かに口を開いた。
その低く落ち着いた声は、静まり返った執務室の空気をわずかに揺らす。
「……集まってもらったのは他でもない。明日から数日をかけ、領内の定期視察へ赴く」
父は机の上に広げられた領地の地図に視線を落とし、それから私たちを見回した。
「お前たち全員を、この視察に同行させるつもりだ」
その言葉に、ライモンドたちが驚いたように顔を上げた。
本来、五歳の私が連れ出されるようなものではない。
領主としての務めを果たしながらも、塞ぎ込む子供たちを外の空気に触れさせ、少しでも気を紛らわせようという――不器用な父なりの、精いっぱいの配慮だった。
「城砦の外を巡り、我がグレリオが預かる領地の現実をその目で見ておきなさい」
父の言葉に、兄たちと姉は小さく頷いた。
私もまた、父に向かって静かに頭を下げた。
城砦とマナーハウスの外へ出る、初めての機会。
母の死を受け入れ、この世界で生きていくと誓った私にとって、それは自分たちが生きる足元――リオネル領の「現実」をその目で確かめるための、第一歩となるはずだった。
◇
領都リオネルを出立した馬車は、石畳を外れてすぐに土煙を上げ始めた。
リオネル男爵領は、北方のアルヴァ王国国境付近の辺境という事もあり一般的な男爵領と比べて広い領域を持つ。しかし、その大半は手つかずの草原、深い森林や湿地、丘陵地帯だ。領都から東端の港町リンクスまでは、馬車で一日とかからない道のりである。
だが、その道中は快適とは程遠いものだった。
ガタガタと激しく揺れる馬車の中で、私は手すりを掴んで姿勢を保つのに必死だった。
窓の外を見れば、街道と名ばかりの踏み固められただけの泥道が続いている。路肩の排水溝すら掘られておらず、先日の雪解け水が引かない轍に車輪が何度も足を取られていた。荷車を引く農民や商人の牛馬も、ぬかるみに喘ぎながら牛歩の如き速度で進んでいる。
(……街道の舗装どころか、基礎的な排水設計すらされていないな。これでは雨になれば物流は即混乱するだろう。距離は近くても、時間的・経済的な輸送コストが跳ね上がるわけだ。これが領内唯一の港湾都市と領都を結ぶ幹線道路とは商人も難儀な事だろう)
前世で国土交通や経済産業を預かってきた身としては、ため息を禁じ得ない。
向かいの座席では、ライモンドとロメロ、レティーシャが押し黙ったまま窓の外を眺めている。まだ母の喪失感から抜け切れていない兄姉たちにとって、この悪路の単調な揺れはただ物思いを深めさせるだけに見えた。
傾きかけた陽が海原を茜色に染め始める頃、潮の香りと粗野な男たちの怒声とともに、ようやく馬車は港湾の町リンクスへと滑り込んだ。
馬車を降り、父アントニウスの少し後ろに立って港を見渡す。
潮風に晒されて黒ずんだ木造の家々、網を繕う漁師たち、樽を担ぐ人足の姿。一見すると活気があるようにも思えるが、私は港の様子をひとつずつ目で追った。
(……大型船が一隻もいないな)
海へと突き出た木製の桟橋は短く、接岸しているのは平底の小舟や、沿岸漁業用の粗末な木造船ばかりだ。外洋を渡るような大型の商船や、大量の交易物資を積載できる喫水の深い帆船などは接岸していなかった。
(水深の問題か。それとも潮流か、港の構造か。いずれにせよ、大量輸送を受け入れられる港ではなさそうだ)
大型船が入港できないとなれば、沖合に停泊させて小舟で荷を積み替えるしかない。
視線を陸側へ戻せば、さらに非効率な光景が広がっていた。
魚や干物、わずかに運び込まれた鉱物資源を収める倉庫群が、なぜか水揚げ場から百メートル以上も離れた緩やかな坂の上に建ち並んでいる。荷揚げ用の滑車や起重設備、荷を運ぶための軌道らしきものも見当たらない。
(なぜ水揚げ場と倉庫の動線を一直線上に作らない? 水際から倉庫までの横持ち輸送だけで、人件費と時間が無駄に浪費されている。おまけに荷捌き場には屋根すらなく、雨が降れば塩や穀物は一発で台無しだ)
商取引が行われている市場を眺めても、扱われているのは日々の生活をギリギリで支えるだけの一次産品ばかり。少なくとも目につく範囲では、加工業や大規模な集積・再分配を担う施設も見当たらない。
「どうだ、レオナルド。ここが我が領の海への窓口だ」
父アントニウスが、海風にマントを靡かせながら、感想はどうだと言わんばかりに私の肩に手を置いた。
「……ええ、はじめて見るものばかりで驚きます、父上」
私は無邪気な子供の愛想笑いを浮かべて頷いた。
父を侮るつもりはない。この状況の封建領主として、この治安と日々の稼働を維持しているだけでも十分に合格点だと思う。
(海という広大な物流路を目の前にしながら、その恩恵を十分に引き出せているとは言い難い。荷役設備、倉庫、水揚げ場からの運搬路……思いつくインフラ投資の余地は山ほどあるがそれができる状況なのかどうかはよく考える必要がある。簡単に持っている知識を押しつけ状況に合わない改革をすることが正しいとは限らないのだ)
未熟な港の波音を聞きながら、私は小さな胸の内で、この弱々しい経済の胎動を静かに見つめ直していた。
◇
港町リンクスを後にした私たちは、領都の南方へと馬車を進めた。
海沿いから内陸へ入るにつれ、開けた平野部がどこまでも広がっていく。
ここはリオネル男爵領最大の穀倉地帯の村の一つエルレスコの村だ。水害の少ない緩やかな平坦地に位置し、領内へ供給される食糧を支えている重要な農村である。
車窓の外には、広大な農地が幾重にも連なっていた。
痩せた土地が多い国境沿いにあって、この一帯だけは黒々とした肥沃な土壌が広がり、大勢の農民や農奴たちが作業に精を出している。この領地で農奴と呼ばれる者たちは、売買される奴隷とは違う。土地を離れる自由こそ制限されているが、家を持ち、耕作地を預かり、収穫の一部を納めて暮らしている。
粗末な麻布を纏いながらも、その顔つきには飢えの影はなく、村の規模相応の活気と豊かさが肌で感じられた。
やがて馬車は、村の中央に建つ石造りの立派な執政館の前へと到着した。
出迎えたのは、この村の執政官を務める上級騎士の男だ。
「これはアントニウス様! 遠路はるばるエルレスコへようこそお越しくださいました!」
革と鋼の胸甲をきっちりと着込み、腰に佩いた長剣の柄に手を当てながら、男は恭しく最敬礼を取った。 父アントニウスは馬車を降り、穏やかな笑みを浮かべてその肩を叩いた。
「息災そうで何よりだ。子供たちに領地の様子を見せたくてな。……今年の作況はどうだ?」
「はっ! 昨年は天候不順でやや不作に泣かされましたが、今年は休耕地との入れ替えも順調でございます!なにとぞご安心を、今年こそは何としても例年並みの水準へ持ち直してみせますとも!」
上級騎士は胸を張り、快活に意気込みを語った。 実直で熱意ある家臣そのものの態度に、父も満足そうに深く頷いている。
その後、執政館の大広間で村の現状報告が行われ、私は父の背後に立ちながら、机の上に広げられた徴税帳簿にそっと視線を落とした。
(……やはり、単式簿記か)
羊皮紙に記されていたのは、収支を一行ずつ書き連ねただけの極めて原始的な記録だった。
収支は一方向に書き連ねられるだけで、資産や在庫の増減を照合する仕組みは見当たらない。項目ごとの歩留まりや在庫の変動、未収金の扱いもすべて曖昧なまま、ひとつの数字として雑に処理されている。
私は無言のまま、過去数年分の税収の推移を目で追った。
(……おかしいな)
帳簿の端に記された戸数と耕作地の記録は、ここ数年わずかながら増えている。
(……数字が合わない)
それにもかかわらず、男爵本庁へ納められる年貢の総額は、ここ数年で緩やかに、だが確実に目減りしていた。
昨年の「不作」を差し引いたとしても、減収のペースが農地の拡大傾向と明らかに辻褄が合わない。
視線を帳簿から上げ、父と談笑する上級騎士を観察する。
上等な革靴、手入れの行き届いた舶来の絹混じりの裏地、そして「不作」を報告する男の顔に漂う、微かな、だが隠しきれない余裕。
(横領か?)
だが、この程度の帳簿と報告だけでは、彼を不正で追及するには材料が足りない。領主側の監査機能が存在せず、現地の収支のすべてが一人の執政官の「申告」に丸投げされている以上、客観的な数字で不正を証明する術がない。
下手に騒ぎ立てれば、「命懸けで領地を支える騎士の名誉を傷つけた」と武官たちの反発を招き、男爵家の統治基盤そのものを揺るがしかねない。
(……調べる価値はありそうだな)
外では、農民たちが荷車に積んだ豊かな麦樽を運んでいる。栄える穀倉地帯の裏側に潜む、統治制度の大きな穴。
(帳簿の形式そのものより問題なのは、比較する資料がないことだ)
収穫量。耕作面積。戸数。徴収額。在庫。
それぞれを別の人間が記録し、照合できる仕組みがあれば数字の不自然さは浮かび上がる。
私は父の隣で静かに息を吐き出し、まだ五歳の小さな瞳の奥に、この領地が抱える病巣の輪郭を深く刻み込んだ。
◇
エルレスコの穀倉地帯を抜けた私たちは、領地の北部――アルヴァ王国との国境関所砦から西へと折れ、丘陵と山岳が幾重にも重なり合う山間部へと向かった。
この一帯には、リオネル男爵領の武具や道具を支える貴重な鉄鉱石が眠る鉱山が存在する。
山裾の鬱蒼とした針葉樹林の入り口にある中継所で馬車をとめて、私たちは全員馬車を降りて徒歩で山道を登る。
まだ五歳の私の短い足では骨の折れる登攀だったが、父アントニウスや兄たちに手を引かれ、深い森の木立を抜ける。
その先で木々が途切れ、視界が開けた場所に、泥と削り出された岩肌が剥き出しになった採掘場が現れた。
岩肌のあちこちには、大人が身を屈めてようやく入れる程度の粗末な横穴が穿たれている。 周囲には掘り出された低品位の鉱石や砕石が乱雑に積み上げられ、煤と泥にまみれた鉱夫たちが、つるはしを振るう重い金属音を山間に響かせていた。
(……私には、この掘り方そのものが正しいのかどうかまでは分からない)
だが、支柱が歪み、落盤事故が繰り返され、それでも良質な鉱脈へ到達できない。少なくとも、現状の技術では限界に達していることだけは分かる。
さらに気になったのは、安全対策の乏しさだった。
坑口の補強に使われている木組みは細く、土圧で今にも軋みそうなほど歪んでいる。有毒ガスを確かめる仕組みも、十分な排水設備も見当たらない。ただ「崩れないことを祈りながら掘る」という前時代的なやり方では、崩落事故が日常化しているのも当然だった。
やがて、煤だらけの革の前掛けをつけた鉱山の監督官が、慌てた様子で父のもとへ駆け寄ってきた。
「アントニウス様! 遠路このような危険な場所まで……!」
「苦労をかけるな。採掘の状況はどうだ?」
父の問いかけに、監督官は苦渋に満ちた表情で頭を下げた。
「……申し訳ございません。先週も奥の坑道で小規模な落盤が起き、二名が負傷いたしました。その先により良質な鉄の鉱脈があることは確実なのですが……岩盤が脆く、これ以上掘り進めば坑道全体が崩れて作業員が生き埋めになりかねません。手の打ちようがなく、現在は手前の痩せた鉱石を細々と掘り出している状態でして……」
良質な鉱脈を目の前にしながら、安全を確保する術がないために指をくわえて見ているしかない。 監督官の悔しげな報告を、父アントニウスは重々しい表情で受け止めた。
「そうか……。無理をして死人を出すわけにはいかん。採掘量が落ちても構わない、何よりも安全を第一に考えて仕事に当たってくれ」
「はっ……! 寛大なるお言葉、感謝いたします!」
父の判断は正しい。
今ある技術と人員で無理に採掘を続ければ、死人を増やすだけだ。
問題は、父の判断ではない。
選べる手段そのものが少なすぎるのだ。
(足りないのは、気合でも人手でもない。『知識』と『技術』だ)
だが、現在の男爵領の閉じた社会では、その技術を生み出すことすら叶わない。
私にできるのは、制度や仕組みを考えることまでだ。正しい鉱山開発を行うための専門知識も、施工技術も持ってはいない。
(足りないものは、外から学ぶしかない。技術者を招くのか、人を学びに出すのか……それすら、まずはこの世界にどんな技術があるのか知らなければ始まらない)
山肌から吹き降ろす冷たい風の中、泥だらけの鉱夫たちが運ぶわずかな鉄鉱石を見つめながら、私はこの領地の産業が直面している分厚い技術の壁を噛み締めていた。
◇
(……簡単ではないな)
口で言うのは容易い。だが、実際にこの足で領内を巡り、その現実を目の当たりにした今、前世の知識をただ当てはめるだけの「安易な解決」などあり得ないことを痛感していた。
港町リンクスでは、大型船を受け入れられない港の規模と荷役能力が物流を制約していた。
港を広げれば済む話でもない。幹線道路、水深、潮流、荷の量、維持費――判断するための情報そのものが足りていない。
穀倉地エルレスコでは、不十分な記録と監査体制の隙を突いた横領が疑われた。しかし、監査機能も近代的な法体系もない現状で、中世的な「名誉」を重んじる騎士階級の不正を暴こうとすれば、証拠不十分のまま家臣団の反発を招き、領の統治そのものを瓦解させかねない。
そして山間の鉱山では、落盤と排水、安全確保の問題が採掘を阻んでいた。私には、その解決策を設計できる専門知識などない。必要なのは、鉱山技術を持つ人材と、それを支える資材や仕組みだった。
(構造上の問題、そして何よりも技術と知識の圧倒的な不足……)
現代日本で当たり前だった知識を持っていることと、それをこの社会で実現できることの間には、あまりにも深く険しい溝が横たわっている。
単なる知識チートや文化ハザードを闇雲にぶつけたところで、社会の受け皿がなければ摩擦と破綻を生むだけだ。
(焦ってはならないな。まずは足元を固め、人を育て、段階を踏んで仕組みを整えていくしかない)
五歳となった私の本格的な貴族教育は、もうすぐ始まる。
私はまだ、この世界について知らないことが多すぎる。
港も、農村も、鉱山も。目についた問題の原因すら、正確には理解できていないのだ。
ならば、まず学べばいい。
五歳児としては、これ以上ないほど自然な仕事ではないか。
(さて、心してかかれよ、源次郎……)
私は久々に懐かしい自分の名前を心で呼んだ。
-----領地紹介-----
リオネル男爵領
ノルテン公国北部、アルヴァ王国との国境に接するグレリオ男爵家の領地
一般的な男爵領と比べて広い領域を持つが、その多くは森林、草原、湿地、丘陵地帯で占められており、人口密度は低い
中心地は領都リオネル
領主館とリオネル城砦が置かれ、周辺を含め約千五百人が暮らしている
東部には港町リンクス、南部には穀倉地帯、北西部の山岳地帯には鉄鉱山を抱える
北方国境に近いことから軍事上の重要性が高く、周辺で産出される鉱物資源を背景に、古くから鍛冶や金属加工も盛んである
一方で、広大な領域に対して人口や交通網は十分とはいえず、未開発の土地も多く残されている




