母の死
今年の冬は例年より雪が多かった。外では、音もなく雪が舞い落ちていた。
年末の早朝、鉛色の空から降りしきる白い結晶が、リオネル城砦の武骨な石垣やマナーハウスの屋根を静かに覆い隠していく。
窓枠の隙間から忍び込む張り詰めた冬の冷気。暖炉の薪が、ときおり小さく爆ぜていた。その橙色の明かりが、壁のタペストリーに弱々しい影を揺らしている。
手足の先から、すうっと温もりが抜けていくのを感じる。
二十八年の短い生涯。あと数日で二十九歳を迎えるはずだったけれど、どうやらそれも叶いそうにない。
私はノルテン公爵家に連なる家系の生まれだったが、実家は騎士爵すら失った没落貴族だった。
十六歳のとき、まだ男爵位を継ぐ前だったアントニウス様に見初められて嫁いだ日のことを、今でも鮮明に覚えている。
けれど、結婚からわずか五日後、義父と義兄が戦場で命を落とし、夫は突如としてこの国境領地の家督を背負うことになった。
決して頑健な身体ではなかった。
それでも十八歳で双子のライモンドとロメロを産み、二十一歳でレティーシャを、そして二十四歳で末子のレオナルドを産んだ。
けれど、一年前から大陸伝来の病に冒され、季節が巡るごとに私の体力は削り取られていった。そしてこの冬、急激に悪化した病魔が、ついに私の最後の刻限を告げようとしている。
苦労がなかったと言えば嘘になる。けれど、振り返ればそのすべてが愛おしく、誇らしい時間だった。
霞む視界の向こうに、愛する家族たちの姿が見える。
夫であるアントニウス様は何も言わず、冷たくなりかけた私の右手を両手で包み込んで震えている。戦場ではどれほどの大軍を前にしても揺らがない武門の当主が、いまはただの一人の男として、子供のように涙を滲ませている。
……泣かないで、あなた。不器用で、実直で、誰よりも領民と家族を愛するあなたの妻になれたこと、私は生涯の誇りでした。どうか、これからもこの家を守ってくださいね。
「母上! 母上ぇっ……!」
枕元にすがりつき、大粒の涙をボロボロと零して慟哭しているのは、長男のライモンド。
父親譲りの灰色の髪を短く刈り、十歳にして逞しい身体つきになってきたけれど、中身は誰よりも心優しい私の自慢の長男。
……ライモンド、立派な騎士におなりなさい。その強さは、誰かを傷つけるためではなく、家族と民を守るために振るうのですよ。
その隣で、私の左手を胸に押し当て、声にならない嗚咽を漏らして肩を震わせている次男のロメロ。私と同じ淡い栗色の髪と碧い瞳を持つこの子は、繊細で、人の痛みが分かりすぎるからこそ、私の身体を気遣っていつも優しい薬草を摘んできてくれた。
……ロメロ、あなたの優しさは弱さではありません。その温かい心を、どうか失わないで。
「お母様……! 嫌、置いていかないで、お母様……っ!」
私の胸元に顔をうずめ、必死にすがりついて泣き叫ぶ七歳の長女レティーシャ。
淡い栗色の髪と碧い瞳、私によく似た面影を持つ娘。気性が激しく、男の子相手でも一歩も引かないお転婆だけれど、誰よりも家族への愛が深い子。
……レティーシャ。泣かないで、私の可愛いお姫様。これからはあなたが、この家の男たちをしっかり叱って、支えてあげてね。
愛しい夫、愛しい子供たち。
みんな、涙で顔をぐしゃぐしゃにして、私の別れを惜しんでくれている。
――けれど。
泣き崩れる兄姉たちの少し後ろ。
ベッドの足元に、ぽつんと立ち尽くしている小さな人影に、私の視線は吸い寄せられた。
三男――レオナルド。
私譲りの淡い栗色の髪に、夫譲りの灰色の瞳。
その幼い顔には、涙が一滴も浮かんでいなかった。
悲しんでいないわけではない。ただ、どうしていいか分からないといった様子で、周囲の慟哭と横たわる私を、まるでどこか遠い出来事を見つめるように、困惑した眼差しで見つめている。
(ああ……レオ……)
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるように痛んだ。
生後半年で突然泣くのをやめ、大人たちを観察するような鋭い目を宿し始めたこの子。
周囲からは「泣かずの子」だの「悪魔憑き」だのと心ない噂を立てられ、どれほど忌避されても、私にとっては神様から授かったかけがえのない、愛しい我が子。
どれほど利発で、どれほど大人のような落ち着きを見せようと、この子はまだ、生まれて五年にも満たない幼子なのだ。
その小さな胸の奥に、誰にも打ち明けられない寂しさを抱えているのではないか。
泣き方も分からず、立ち尽くす我が子。
そんな不器用なレオが、いじらしくて、不憫で、そして愛おしくてたまらない。
私は最後の力を振り絞り、シーツから鉛のように重い右手を持ち上げた。
「……レオ……」
掠れた声で名を呼ぶと、レオナルドはハッとしたように小さな肩を揺らし、恐る恐る私の枕元へと歩み寄ってきた。
伸ばした私の震える掌が、レオナルドのまだ柔らかく小さな頬にそっと触れる。
ひやりとした私の肌に、息子の温かな体温がじんわりと伝わってきた。
「……泣かなくて、いいのよ……」
途切れそうな息の下から、心のすべてを込めて言葉を紡ぐ。
「あなたは、私の……可愛い坊や……」
レオナルドの灰色の瞳が、驚きに大きく見開かれる。
ありのままでいてくれればいい。
「ただ……生きて……。幸せに……なってね……」
私の指先から、ふっと力が抜けた。
視界が白い光に包まれ、家族たちの呼ぶ声が遠のいていく。
◇
母カタリナが息を引き取ってから三日後。 外では音もなく雪が降り続いていた。
薄暗い冬の雲が空を覆う午前、マナーハウスの一階大ホールには、張り詰めた冷気とともに蜜蝋の匂いが立ち込めていた。
吹き抜けの高い天井へと続く広々とした石造りの空間。中央階段の正面には、白布で覆われた母の棺が安置され、周囲を取り囲む何本もの燭台が、揺らめく橙色の炎で石畳の上に長い影を落としている。
ホールは、かつて見たことがないほど多くの人々で埋め尽くされていた。
男爵家に仕える家臣や騎士たち、住み込みの使用人たちだけではない。
雪深い街道を歩いて駆けつけた近隣の村長や農民たち、領都の職人や商人たちまでもが、泥のついた外套を脱ぎ、静かに棺に向かって頭を垂れている。
(……これほどの人が集まるとはな)
私は兄姉たちの列の端に立ち、その光景を見つめていた。
華美な装飾も、派手な儀礼もない。だが、集まった人々は誰に強いられた様子もなく、静かに棺へ頭を垂れていた。
視線を前に向けると、黒い礼服に身を包んだ父アントニウスが、彫像のように直立していた。
戦場でどれほどの大軍を前にしても怯まない領主は、ただじっと棺を見つめ、固く結んだ口元を引き結んでいる。
その隣では、十歳になる長男ライモンドと次男ロメロが、必死に唇を噛み締めて涙を堪えていた。
七歳の姉レティーシャは、黒いベールの下で目を真っ赤に腫らし、時折あふれ出るしゃくり上げを懸命に抑え込んでいる。
背後に控える使用人たちの列からも、抑えきれない嗚咽が漏れていた。
乳母のロザリンダはエプロンの端で目元を押さえて肩を震わせ、メイドのフローラもまた、俯いて大粒の涙を零し続けている。
(……二十八年、か)
あまりにも早く、儚い生涯だ。
ふと、自分の小さな手を握りしめる。
あの朝、母が最後に残してくれた手の温もりは、もう記憶の奥底にしか残っていない。
――『ただ……生きて……。幸せに……なってね……』
この世界に生を受けてから、およそ五年。
言葉を覚え、歩き、周囲を眺め、家族の温もりに触れてきた時間。
母の遺志は、大層な業績を残すことでも、家名を高めることでもなかった。
ただ、この冷たく厳しい大地で、命を繋ぎ、懸命に生き抜くこと。
大ホールの高窓から差し込む冬の光が、棺の上に手向けられた一輪の白い冬花を、淡く照らし出していた。
大陸伝来の病。
衛生環境。
限られた医療技術。
母を救えなかった理由を考えれば、いくつもの可能性が頭をよぎる。
(――なぜ、泣けない?)
脳裏に浮かんだのは、そんな疑問だった。
この世界では、神の存在は信仰だけの問題ではない。神聖魔法という形で、その力は現実に示されている。
だが、神は母を救ってはくれなかった。
なぜだ。
神が存在するからといって、すべての命が救われるわけではない。そんなことは、この世界で暮らした五年の間に嫌というほど分かっていたはずなのに。
「人は死ぬ」。当たり前のことだ。だが、前世で八十年を生き、政治の修羅場を経験してきた私でさえ、幼い身体で突きつけられた死は、胸を鋭く抉った。
母は二度と目を開けない。もう私の名を呼ばない。
この女性は、まぎれもなく私の母親だった。
普通に泣くこともできない、得体の知れない私を――何の疑いもなく愛し、守ってくれた。
いまさら、そんな当たり前のことに気づくなんて……。
(……私は、物語の登場人物じゃない)
分かっていたはずだった。
ここは夢でも物語でもない。
だが今、母を失って初めて、その意味を身体の奥まで思い知らされた。
ここは私が現実として生きる世界なのだ。
もしこの先、大切なものが理不尽に失われていくのなら――。
少なくとも、目の届く範囲だけは守りたい。
それがどれほど小さな誓いでも。
英雄でも救世主でもなくても。
ただ、この小さな掌で届く範囲を守る。
それだけを、母の棺を前に胸へ刻んだ。
蝋燭の炎が揺れ、白布に覆われた棺の影を石壁に長く映し出した。
私は小さな手を胸元で固く握りしめる。
刹那、頬を伝って一筋の涙が流れた。
それは、この世界に来てから初めて流した涙だった。
-----人物紹介-----
カタリナ・グレリオ
人族・享年28歳
グレリオ男爵アントニウスの妻
ノルテン公爵家に連なる家系の出身だが、実家は爵位を失った没落貴族
十六歳で、当時まだ家督を継いでいなかったアントニウスに嫁いだ
穏やかで慈愛深い性格で、慈愛神リューリアを信仰する
身分を問わず人に接することから、家臣や使用人だけでなく領民からも広く慕われていた
十八歳で双子のライモンドとロメロ、二十一歳で長女レティーシャ、二十四歳で三男レオナルドを出産
四人の子供を深く愛し、とりわけ数々の噂に晒された末子レオナルドにも、最後まで変わらぬ愛情を注ぎ続けた




