英雄への憧れ
夏の終わりを告げる乾いた夕風が、リオネル城砦の石畳の上を吹き抜けていた。西の山並みへと沈みゆく夕陽が、武骨な石造りの城壁や見張り塔を赤銅色に深く染め上げ、長く伸びた影が訓練場を覆い始めている。
館の敷地にある私的な練習場とは異なり、城砦の主門をくぐってすぐの場所に広がるこの大広場は、領地の防衛を担う兵士たちの実戦的な鍛錬の場だ。
あちこちで砂煙が舞い上がり、使い込まれた鉄の胸甲や革鎧が夕暮れの残光を鈍く跳ね返している。激しく打ち合わされる木剣の乾いた打撃音、教導に当たる歴戦の騎士たちの野太い怒声、そして息を切らしながら型を繰り返す騎士見習いや従士たちの荒い呼気が、夕刻の冷え込み始めた空気の中に満ちていた。
やがて訓練終了を告げる角笛が低く鳴り響くと、それまで張り詰めていた空気が緩み、男たちは互いの健闘を称え合いながら散開し始める。
その広場の片隅で、汗を拭いながら忙しなく立ち働く少年の姿があった。従士の三男として生まれた七歳の少年、シグルドだ。従士の子として訓練の手伝いをする彼は、散らばった木剣や訓練用の円盾を手際よく回収し、武具庫の前にある木箱へと片付けていく。大人たちの足元をすり抜け、重い荷に顔を歪めながらも、その瞳には疲労を感じさせない活き活きとした光が宿っていた。
その片づけの様子を、訓練場の端にある樽の上に腰かけ、静かに見つめる小さな人影があった。
母譲りの淡い栗色の髪を夕風になびかせた、グレリオ男爵家の三男・レオナルドだ。砂埃が舞う広場を父譲りの灰色の瞳で眺めながら、大人たちの訓練の余韻と、忙しなく働く友人の後ろ姿をじっと見守っていた。
◇
夕暮れの光が、訓練場の砂埃を赤く染め上げていた。兵士たちが引き上げたあとの大広場で、友人は忙しなく駆け回っていた。
地面に転がった重い樫の木剣を何本も抱え上げ、傷んだ訓練用の円盾を手際よく木箱へ収めていく。大人用の武具は子供には結構な重さのはずだが、彼は額に光る汗を腕で乱暴に拭いながら、甲高い声を上げて武具庫との間を小走りに往復していた。
(……感心なほどよく働く)
私は訓練場を見渡せる道具置き場の樽に腰掛けながら、そのせわしない姿を見守っていた。従士の三男坊。男爵家の三男である私と同様、家督を継ぐ権利など端から持ち合わせていない立場だ。しかし、周囲が私に貼る「泣かずの子」だの「悪魔憑き」だのといった色眼鏡を一切気にせず、ごく自然に対等な友人として接してくる稀有な少年でもあった。
やがて最後の木箱の蓋を閉め、作業を終えたシグルドがこちらへ顔を向けた。私と目が合うと、くしゃりと屈託のない笑顔を浮かべて駆け寄ってくる。
「若様! 今日も来てたのですね!」
「お疲れ様、シグルド。今日も頑張ってるね。しかし、ここの熱気はいつもすごいね、見てるだけで強くなった気になるよ」
私が労いの言葉をかけると、シグルドは照れたように頭をかいた。
「慣れてますからね! 早く一人前の見習いになって、もっと重い鉄の剣を振りたいんです」
「熱心だね。やはり、騎士を目指しているのかい?」
従士の三男であれば、家を継げるわけではない。騎士として取り立てられることが、現実的には最大の立身出世だ。
だが、私の問いかけに対し、シグルドは首を横に振った。その双眸に、夕陽よりも熱くギラギラとした光を宿らせながらも気恥ずかしそうに言う。
「もちろん騎士もいいですが……俺が本当になりたいのは、英雄なんですよ若様」
「……英雄?」
「吟遊詩人が酒場で歌うような、本物の英雄です。 若様だって知ってるでしょう? 二百年前の、あの『統一王アーガレス』の伝説を」
シグルドは身振りを交えながら、聞き集めたであろう英雄譚を夢中で語り始めた。
二百年前、未曾有の混乱期にあったこのアルビオン島。
北方大地から押し寄せる異民族の猛威によって、アルビオン島は侵略の危機に瀕していた。その混沌の時代に現れたのが、一介の冒険者から身を起こした男――アーガレスだった。
伝説的冒険者パーティー『スルスト』のリーダーであり、炎の精霊の加護を持ち、剣聖と呼ばれるほどの剣技で人心をつかんだ。
彼は圧倒的な武勇で散り散りの諸侯をまとめ上げ、アルビオン島を史上初めて統一し、後にも先にも唯一の統一王となった「英雄王」だ。外敵の侵略を押し返し、人々に平和をもたらしたと伝えられている。
しかし彼の死後、統一王は現れず、現在のアルビオンは五つの公国に分かれている。
「何の後ろ盾もない冒険者が、自分の腕一本で国をまとめ、アルビオンを救ったんです。 誰だって一度は憧れるでしょう。俺もいつか、あんな風に誰からも称えられる英雄になってみたいんです」
シグルドは拳をぎゅっと握りしめ、まだ見ぬ未来を掴み取ろうとするかのように空へと突き上げた。
その眩しいまでの純粋さと熱量は、七歳の少年に相応しい輝きを放っている。
「……若様はどうなんです?」
ふいにシグルドが腕を下ろし、不思議そうに首を傾げて私を見つめてきた。
「若様は男爵家の三男だし、頭もすごくいいって皆が言ってます。……若様は、『英雄』になりたいとは思わないのですか?」
(『英雄』になりたいとは思わないのか?)
シグルドのまっすぐな問いかけに、私はほんの少しだけ考える素振りを見せてから、静かに首を横に振った。
「いや……英雄なんて大層な役割は、シグルドに任せるよ」
当たり障りのない笑みを浮かべ、軽く肩をすくめてみせる。
シグルドは不思議そうに眉をひそめて笑った。
(英雄、か……)
少年の屈託のない笑顔を見つめながら、私の意識は自然と深い内省へと沈み込んでいく。
視線を上げれば、夕闇が迫る空の下に広がる、この世界の暮らしが否応なしに目に入る。
道路は狭い。衛生状態も現代日本とは比べものにならない。農業も工業も、私の知る時代から見れば改善できそうな余地はいくらでもある。
だが、それはあくまで外から眺めた印象にすぎない。
なぜそうなっているのか。何が不足し、何が障害になっているのか。私はまだ、この領地のあらゆる事を知らなさすぎる。
(……私が動けば、これらを多少なりとも是正することはできるだろうか)
道を整え、物資を滞りなく運び、農業や工房の生産を少しでも増やす。父アントニウスや長兄ライモンドが武力で領地を守る足元で、その兵站と経済を支える『仕組み』を整えることなら、私の手腕でいくらか実践できるかもしれない。
――だが、それが本当に「正しい」ことなのか。
前世で背負い続けた重責から解放され、せっかく手に入れた二度目の人生なのだ。田舎貴族の三男坊として、余計な野心も持たず、適当に本でも読んでのんびり緩く生きる――そんなスローライフこそが、波風を立てずに静かに暮らせる唯一の方法ではないだろうか。
目の前の少年は、己の腕一本で世界を救うという純粋無垢な『英雄』の夢に目を輝かせている。
その眩しいほどの熱量と、冷めきった自分自身の老獪な思考との間に横たわる、埋めようのない深いギャップ。
私自身がこれから何を成すべきなのか、その明確な答えはまだ見えていない。
けれど――。
「……でも、応援しているよ、シグルド」
私は視線を戻し、少年に向けて穏やかに言葉を紡いだ。
「君が本当に剣を執って前線に立つ英雄になるなら……その時、君が背後を気にせず戦えるような場所を、私も何かの形で作れているといいな」
シグルドはどういう意味か分からない様子でキョトンとした後、破顔して笑顔に戻る。
「若様が後ろを守ってくれるのは心強いですね!」
赤銅色に染まっていた空が、ゆっくりと藍色の帳を下ろし始めていた。
城砦を吹き抜ける秋口の冷たい夜風を感じながら、私は幼い友人と並んで、静かに暮れゆく訓練場を眺め続けていた。
-----人物紹介-----
シグルド・フォリナー
人族・7歳
リオネル男爵領に仕える従士の三男
幼い頃から城砦の訓練場に出入りし、武具の片付けなどを手伝いながら騎士たちの鍛錬を間近で見て育つ
快活で物怖じしない性格
領主家の子であるレオナルドにも必要以上に遠慮せず、「泣かずの子」や「悪魔憑き」といった噂にも頓着しないことから、レオナルドとは身分を越えた友人関係を築いている
吟遊詩人の語る英雄譚を好み、なかでも統一王アーガレスに強い憧れを抱いている
いつか自らも、人々から称えられる英雄になることを夢見ている




