篭絡Ⅰ
公都ノルデン城の大広間を揺るがした、あの前代未聞の発表から刻が過ぎ、宴もいよいよ終幕へと近づいていた。
幼い婚約者であるベアトリーチェ令嬢が退出したあとも、広間には依然として熱気と、それ以上に冷ややかな動揺と疑念の残滓が漂っている。
三男の身でありながら、長兄を領外へと追いやり、自らの手で男爵位を手中に収めたという成人したばかりの坊や。
風の噂に聞こえるリオネル領での目覚ましい改革の実績に、二年前のシエル伯軍の撃退。
男爵位を継ぐや否や、公爵家の内務を束ねる家令に抜擢され、次期公爵の教育係、果ては公爵令嬢との破格の婚約――。
壇上で見せたあの完璧な笑みの下には、一体どんな素顔が隠されているのかしら。
「レイナ殿、今宵の貴女はひときわ眩しい……」
「アルセリナ卿、もしよろしければバルコニーで涼まれませぬか」
群がる蛾のようにまとわりついては、見え透いた口説き文句を並べる貴族たちを、私は扇を揺らしながら手慣れた調子で適当にあしらっていた。
視線を送る先には、今宵の主役である十六歳の若き男爵。
今夜の私は、濡れたような光沢を放つ真紅の絹ドレスを身に纏い、豊かな胸元を惜しげもなく覗かせている。歩くたびに、夜風に乗って甘く重い香水が漂う。
私を一度視界に入れた男たちは、まるで抗えぬ魅了の魔法にでもかかったかのように目を奪われ、私から視線を外せなくなる。
ええ、当然よ。私にはそれだけの魅力も、美貌という名の絶対的な価値もあるのだから。
――さて、あの新任の家令坊やは、私を前にどんな反応を見せてくれるのかしらね?
私は紅を差した唇の端をわずかに吊り上げ、グラスを片手に、その坊やに向かってしずしずと歩を進めた。
「お初にお目にかかります、リオネル卿。……この度は目出度きご婚約、心よりお慶び申し上げますわ」
涼やかに声をかけると、すっとこちらを振り返った。
「パドヴァ男爵領主、レイナ・アルセリナと申します」
私は己の武器を完璧に理解しているつもりだ。そして、男という生き物の愚かな生態もね。
夜も更け、幼い婚約者が奥へと下がったあとの社交場において、あからさまな色仕掛けを仕掛けるなど少々悪趣味が過ぎるかもしれない。
けれど、どうしても見てみたかったのだ。
あの年不相応に貼り付けられた、冷徹な笑顔の仮面を剥ぎ取った時の顔を。
私は蠱惑的な眼差しを真っ直ぐに絡め、豊かな胸元や熟れた肢体を嫌でも意識させるような、ねっとりとした艶やかな態度で会釈を返した。
「――これは、アルセリナ卿。かねてより、お噂は耳にしておりますよ」
若き家令は、私の露骨な視線に動じる様子もなく、完璧な会釈を返してきた。
「あら……? どんな噂かしら? 田舎の女男爵の評判など、新任の家令閣下の耳に届くほど大層なものではないと思いますけれど」
扇を口元に当て、妖艶さを演出した甘い声音で囁きながら、坊やの瞳の奥をじっと覗き込む。
赤面するか、狼狽して視線を泳がせるか。年頃の少年なら誰しもが見せるはずの隙を待ち構えていた私に、彼は事も無げに言葉を返した。
「アルセリナ卿が推し進めておられる、女性を多く登用するという人材活用術ですよ。あれは私にとっても、大いに興味を惹かれる試みです」
(……え? この男、私のことをそこまで知っている?……)
内心で小さく舌を巻く。
そう、私はこのノルテン公国において、女性の権利拡大を強く主張し続けている。
この男尊女卑が骨の髄まで染み付いた社会において、女性はただ家に縛られ、政略の道具のように虐げられ、都合よく扱われてきた。
けれど、女性は決して男の劣等種などではない。
私自身、己の才覚でパドヴァ領を治め、能力ある女性たちを積極的に領政の要職へと登用し、男たち顔負けの実績を叩き出して見せてきたのだ。
「あら……! まさかリオネル卿ほどのお方が、私の活動にご理解を示してくださるなんて思ってもみませんでしたわ」
社交辞令の皮を被った探り合いのはずが、思いがけず話に熱がこもり、言葉が弾んでいく。
経済の合理性や領民の労働力、身分や性別に囚われない適材適所の人材登用――この坊やが口にする言葉は、驚くほど先進的で、公国の頑迷な男どもが口にする戯れ言とは一線を画していた。
けれど、だからこそ試したくなる。
ひとしきり言葉を交わし、話が一段落したその絶妙な間を見計らって、私はすっと半歩、彼との距離を詰めた。
甘い香水の香りが、二人の間を濃密に満たす。
「……リオネル卿。できれば、このような騒がしい場所ではなく、二人っきりでゆっくりとお話しさせていただきたいわ。あなたのお考えを、ぜひもっと奥深くまで知りたいのですもの」
上目遣いに潤んだ瞳を向け、とどめとばかりに甘美な誘惑を投げかける。
男爵令嬢ならともかく、熟れた女の露骨な誘い。
さあ、これでもその澄ました仮面を保っていられるかしら?
だが――坊やの眉は、ピクリとも動かなかった。
動揺も、狼狽も、青さゆえの昂ぶりすらもない。
それどころか、彼はふっと蠱惑的とすら言える柔らかい笑みを深めると、躊躇うことなく私へと顔を近づけてきたのだ。
耳朶をくすぐる、低く落ち着いた吐息。
「二人きりで、とは……実に魅力的なお誘いですね。私とて、レイナ殿の類まれな手腕とお考えについては、もっと腰を据えてゆっくりとお話ししたいと思っております」
耳元で囁かれたその声音には、私の誘惑を完全に受け流した上で、こちらの足元を値踏みするような冷徹な響きが宿っていた。
肌を粟立たせるような奇妙な戦慄を覚えながら、私は胸の前で扇をパチンと閉じた。
背筋を滑り落ちる、冷たい興奮。
(……どうやら、ただの早熟な坊やではなさそうね)
公爵家の首輪を嵌められた無垢な小鳥かと思えば、とんでもない。
女の武器すら平然と政治の天秤に乗せてみせる、極上の食えない男がここにいた。




