気高き少女Ⅲ
冬の終わりを告げる柔らかな風が、公都ノルデンの街並みを吹き抜けていく頃のことでした。
私はお父様に呼ばれ、お父様とお母様のお部屋を訪れていました。
まだ名残の寒さがあるのか、暖炉には小さな火が静かに焚かれています。そのそばの長いソファーでくつろいでおられたお父様は、私に気付くと優しく手招きをして、ご自身の傍らに腰掛けさせてくれました。
そして、いつものように大きな手のひらで、私の頭をそっと撫でてくださったのです。
「愛しているよ、ベア」
お父様は、いつも私に優しく接してくださいます。
威厳に満ちた公爵様でありながら、私や幼いボナの前では決して声を荒らげることもなく、いつでも温かな眼差しを向けてくださる。そんなお父様のことが、私は世界で一番大好きでした。
その日、暖炉の火を見つめながら、お父様はいろいろなお話をしてくださいました。 このアルビオンの古き歴史のこと。代々受け継がれてきたルガーノ家の誇りのこと。お父様とお母様が出会われた時のこと。
そして――お父様は穏やかに、けれどどこか重い静けさを漂わせながら、私にこう告げられたのです。
「ベア。君の伴侶を……見つけたんだ」
私も十一歳になり、日頃から家庭教師の先生から貴族の淑女としての教育を受けています。ですから、大体のことは理解していました。
高貴なる家に生まれた女性は、家と領民の未来のために政略結婚を受け入れなければならないということ。
大好きなお父様やお母様、そして甘えん坊の弟ボナと離れ離れになるのは、胸が張り裂けそうにつらいけれど――それもルガーノ公爵家の娘として生まれた私の大切な責務なのだと、幼い頃から教え込まれてきました。その役目から逃げ出したいなどと、子供じみた我が儘を言うつもりはありませんでした。
「……私の婚約者様が、お決まりになったのですか?」
私は胸の動悸を悟られないよう、努めて明るい声でお父様へとお尋ねしました。
「ああ。そうだよ」
そう答えたお父様は、いつものように穏やかに微笑んでおられました。
けれど、その笑顔の奥には、今までに一度も見たことがないほど深くて哀しい影が滲んでいたのです。
「レオナルド・グレリオ。リオネル領を治める貴族だ」
聞いたことのない名でした。
外国の領主様なのでしょうか?
お屋敷の使用人たちからは「ベアトリーチェ様はいつか海を渡り、他国の王族へお輿入れされるかもしれない」と聞かされ、幼い頃からいくつかの国の言葉を教え込まれていました。ですから、てっきり遥か遠くの見知らぬ異国へ行かなければならないのだと思い込んでいたのです。
けれど、お父様はその領地は決して遠くないのだと教えてくれました。
この公都ノルデンから馬を走らせれば、一日とかからずに着いてしまうほどの距離なのだと。
(……いつでも、お父様やお母様に会えるかもしれない)
遠く離れた異国へ連れて行かれずに済むのだと知り、私は少しだけ嬉しくなりました。
けれど――その日を境に、周囲のお付きのメイドたちの様子が目に見えて変わってしまったのです。
廊下ですれ違うたび、身支度を整えてくれるたび、彼女たちはひそひそと囁き合い、痛ましいものを見るような目で私を見つめては「姫様が可哀想に……」「なぜ公爵閣下はあのようなご決断を……」と、ため息を漏らすようになりました。
なぜ、私は可哀想なのでしょう?
訳がわからず理由を尋ねると、彼女たちは言いにくそうに口ごもりながら教えてくれました。
私の婚約者となった方は、公爵家の娘が嫁ぐにはあまりにも「身分が低い貴族」なのだと。
どういうことなのか理解できず、私はもう一度お父様に尋ねてみました。
すると、お父様は私の手を優しく包み込み、静かにこう言い聞かせてくださったのです。
「ベア、人の真の価値は身分などでは決まらないよ。グレリオ卿は……彼ならば、必ずやどんな嵐の中でも君を幸せに守り抜いてくれる。そしてベア、君もまた、妻として彼を幸せにしてあげてほしい。そうすれば、ボナもきっと安心して前を向けるようになる」
どうして私の結婚に、まだ六歳にしかならない弟のボナが出てくるのか、私には分かりませんでした。
それでも、お父様がそう仰るのなら信じようと決めました。陰で涙を浮かべるメイドたちにも、背筋を伸ばして「私は平気よ。何も心配はいらないわ」と、気丈に微笑んでみせるようにしたのです。
そして、公都ノルデン城で盛大な夜会が催されることになった、その前日のこと。 私は、お父様の手引きによって、初めてその婚約者様と顔を合わせることになりました。
以前にも社交の場で一度お見かけしたことがあると聞かされましたが、私にはまったく記憶がありませんでした。
目の前に立ったその人は――なんだか、とても不思議な方でした。
悪く言ってしまえば、少し気味が悪いような。
いいえ、心の奥底が冷たく粟立つような、「底知れぬ怖さ」を感じてしまったのです。
さらりと流れる淡い栗色の髪と、深く澄んだ灰色の瞳。
決して容姿が恐ろしいわけではありません。背筋は凛と伸びて立ち居振る舞いは洗練されており、メイドたちに言わせれば、むしろ文句のつけようのない美形の部類に入るのだと思います。
では、一体何が、私の小さな胸をこれほどまでにざわめかせるのでしょうか。
……そうだ。 あの、笑顔です。
私に向き直り、恭しく腰を折ったグレリオ卿は、とても穏やかで優しい笑みを湛えていました。
けれど、その笑顔は、私を慈しんでくれるお父様やお母様の笑顔とは、何かが決定的に、根本から違っていたのです。 感情の温度がまるで感じられない、冷たい水底のような笑み。
その笑顔の裏に何が隠されているのかが分からないからこそ、私は本能的な恐怖を覚えてしまったのだと気付きました。
そして、迎えた今夜。
ノルデン城の大広間を埋め尽くした諸侯の前で、お父様から私とグレリオ卿の婚約が正式に発表されました。
その瞬間、広間を埋め尽くしていた貴族様方が浮かべた顔は――おそらく、私のこれまでの人生でも、そしてこれからの生涯を通しても、決して忘れられそうにありません。
これまでのどんな華やかな夜会でも、あんなにも驚愕に歪み、血の気を失って凍りついた大人たちの顔など、見たことがありませんでした。
まるで、大広間全体が冷たい氷の棺に閉じ込められてしまったかのような、息の詰まる静寂。
その凍りついた世界の中で、グレリオ卿が音もなく私の前に膝を突きました。
差し出した私の震えそうな右手を、そっとその引き締まった指先で包み込みます。
落とされる、誓いの口づけ。
顔を上げたグレリオ卿は、やはりあの時と同じ、柔らかくも底の知れない完璧な笑顔を浮かべていました。
肌に触れた唇の感触に、ぞくりと冷たい戦慄が背筋を駆け上がっていきます。
――やっぱり、この人は怖い。
けれど、私は決して視線を逸らさず、小さく唇を震わせることもありませんでした。
広間中の貴族たちが息を呑んで見つめる中、私は誇り高く顎を引き、毅然とした淑女の笑みを浮かべてみせました。
どんなに胸が震えても、決して怯えた顔など見せてはいけない。
私は、気高きルガーノ公爵家の長女なのですから。
-----人物紹介-----
ベアトリーチェ・ルガーノ
11歳
ノルテン公爵ヴァイシス・ルガーノの長女。
金色の長い髪と青い瞳を持つ、公爵家の令嬢
幼い頃より公爵家の娘として厳格な教育を受け、家と領民のために己の責務を果たすことを当然のものとして育った
父ヴァイシスを深く敬愛し、六歳になる弟ボナペントゥーラを大切にしている
十一歳となった現在、父の意向によりリオネル男爵レオナルド・グレリオとの婚約が決定
公爵令嬢と男爵という異例の婚約は、公国の貴族社会に大きな波紋を広げることとなった
初めて間近で言葉を交わした婚約者については、その穏やかな笑顔の奥に何を考えているのか読み取れず、本能的な警戒心を抱いている
それでも父の決定から逃げることなく、ルガーノ公爵家の娘として与えられた役目を果たそうとしている




