気高き少女Ⅰ
夜風がテラスのビロードの帳をかすかに揺らしていた。
春の夜。空はどこまでも高く澄み渡り、冷ややかな星々が漆黒の天蓋に散らばっている。
見渡せば、ノルデン城の大広間は目も眩むような光と熱気に満ち満ちていた。壁を彩る金糸のタペストリー、煌びやかなシャンデリアの光を浴びて輝く貴婦人たちの宝石、そしてグラスを交わす諸侯の笑い声。
近年、これほど大規模で贅を尽くした夜会が開かれた覚えはない。
本来であれば、私のような武骨者が好んで長居するような場所ではなかった。
香水の匂いと腹の探り合いが渦巻く社交界など、硝煙と泥にまみれた辺境の軍営に比べれば息が詰まるだけだ。だが、公爵家から「是非に」と直々の招待状を叩きつけられては、大貴族として愛想笑いのひとつも浮かべに顔を出すのが宮仕えの責務というものだ。
もっとも――仮に公爵家からの誘いなどなくとも、私は単身この場へ足を運んでいただろう。
若い頃にともに苦渋を舐め、北辺の荒野を泥にまみれて駆け抜けた男――アントニウスの跡を継いだ息子の顔を、この目で直に見届けるためだ。
私はかつて、その長男であったライモンドを高く買っていた。
嘘のつけないまっすぐな男だった。あの剛腕から繰り出される太刀筋は天晴れなもので、我がレムノ辺境伯家が誇る歴戦の騎士たちを以てしても、一騎打ちで彼をねじ伏せられる猛者は一人としていまい。
だが、その豪傑は二年前、リオネル領内で起きた政争に敗れ、国外追放の身となった。
あの無骨で純粋な兄を謀略の果てに領外へ追いやったという「弟」。一体どのような面構えをした小僧なのか、一度骨の髄まで検分してやろうと腹を括っていたのだ。
正確に言えば、会ったことがないわけではない。
かつて社交の末席で、父アントニウスの背後に隠れるように付き従っていた少年時代の姿を、遠目に数度見かけたことはある。だが、膝を突き合わせて言葉を交わしたことなど一度としてなかった。
少年から青年へと脱皮したレオナルドが、いかなる肚を抱えてこの伏魔殿に乗り込んできたのか。それを確かめるのが今宵の私の目的だった。
壇上での儀礼的なお披露目が終わり、新任家令を取り囲んでいた有象無象の貴族たちが波のように引いた隙を見計らい、私は重い足取りで歩み寄った。
「アントニウスの息子よ。……久しいではないか」
低く声をかけると、少年は静かにグラスを留め、すっとこちらへ振り返った。
一切の乱れがない完璧な角度で頭を垂れる。
「これはオズワルド辺境伯閣下。ご無沙汰しております」
私から見れば、まだ背丈も伸びきらぬほんの子供に過ぎない。
だが、その顔を見据えた瞬間、胸の奥に奇妙な違和感が走った。
幼い頃から変わらない。この男は、まるで陶器でできた仮面を張り付けたような、異様に隙のない外面を保っているのだ。
グレリオ家らしい引き締まった精悍な顔立ちの中には、まだ十六歳という年齢相応のあどけなさが確かに残っている。光の加減で柔らかく透ける髪は亡き母カタリナ殿の面影を強く宿し、切れ長の瞳の奥に宿る光は間違いなくあの頑固なアントニウスのものだ。
確かにグレリオの血を引く若者である。
「父上のことは……実に残念に思うよ」
「温かいお言葉、恐れ入ります」
社交辞令の悔やみに対し、少年は寸分の澱みもなく会釈を返した。
感情の波ひとつ立たないその涼やかな声音に、私は持っていたグラスの酒を喉へと流し込み、探るように眉を寄せる。
「しかし、いきなりの家令就任には驚いたぞ。まだ前髪も生え揃わぬ男爵家の若造が、いきなり公国の中枢へ引っ張り上げられるとはな」
わざと無遠慮に、年長者の威圧を込めて問い詰めてみる。
だが、レオナルドは怯むどころか、ふっと困ったような、しかし完璧に計算された苦笑を浮かべてみせた。
「滅相もございません。身の丈に合わぬ大抜擢に、私自身、戸惑うばかりにございます」
その口調はどこまでも謙虚だ。だが、浮かべた笑みの奥にある光は、本心を何ひとつ漏らしてはくれない。
「しかし、公爵閣下より直々に拝命した以上は、我が身命を賭して公国のために尽くす所存です。オズワルド様におかれましても、未熟な若輩ゆえ、何卒厳しきご鞭撻を賜りたく存じます」
すらすらと紡ぎ出される隙のない言葉を前にして、私は手元のグラスを指先で弄びながら、内心で苦い息を吐き捨てた。
父親のアントニウスは、私と同じ生粋の武骨者だった。
直情径行で、駆け引きなど反吐が出るほど嫌い、政治の席に座らせれば舌打ちばかりしていたような不器用な男だ。あいつと私が親友だったかと問われれば、決して頷けはしない。顔を合わせれば、胸ぐらを掴み合わんばかりに激論を交わしたものだ。
何よりあの男は、一介の辺境男爵の身でありながら、公国軍を預かる大貴族たる我が家の言い分に対しても、一歩も引かずに真っ向から異を唱えてきた。愚直なまでの、生粋の「公爵派閥」の忠臣だったのだ。
だが――目の前に立つこの息子は、根本から人種が違う。
こいつは武人などではない。骨の髄まで冷え切った「政治屋」だ。
私のような武骨な武辺者がいくら腹を割り、熱をぶつけようとしたところで、この男がその仮面を剥ぎ取って真意を晒すことなどあるまい。
(……やれやれ、少し感傷が過ぎたか)
亡き旧友の面影を無意識に重ね、どこかで昔日の熱量を期待していた己の甘さが気恥ずかしくなった。
私が沈黙したのを見て取ると、レオナルドはふと柔らかな眼差しを崩さぬまま、実に自然な所作で小さく身を寄せてきた。
「……時に、辺境伯閣下。不躾な伺いとは存じますが、我が姉、マティルダは息災にしておりますでしょうか? 実弟のマルチェロが、文でしか言葉を交わせぬ境遇を近頃ひどく寂しがっておりまして」
少年の口から滑り出たその名に、私はわずかに視線を宙へ泳がせた。
「ああ……そういえばアントニウスの娘は、我が分家の……あれの妻だったな」
所領が離れていることもあり、私自身、分家の奥向きのことまで細かく把握しているわけではない。
「便りの限りでは、特に大病を患ったというような不穏な話は聞かんな」
「左様ですか。それを伺い安心いたしました」
レオナルドは胸を撫で下ろすように息を吐いたが、その瞳は決して笑ってはいなかった。
「嫁いでからすでに五年が経ちます。いまだ子宝に恵まれたというめでたい報せも届かず、親族の身といたしましては少々案じておりまして……。もし叶いますなら、近いうちに実弟のマルチェロを一度、そちらの分家へ挨拶に伺わせてもよろしいでしょうか?」
(ほう……?)
私は髭を撫でながら、改めてこの少年の横顔を見つめ直した。
嫁いだ姉の身の上を案じる、家族思いの健気な弟の情か。
あるいは、レムノ辺境伯の分家という血縁の結び目を梃子にして、我が家との間に独自の太いパイプを築こうとする老獪な打算か。
その声音にも、その澄んだ瞳の底にも、作為の影ひとつ見当たらない。それがかえって、この少年の底知れなさを際立たせていた。
「うむ。血を分けた姉弟だ、積もる話もあるだろう。分家の当主には、私の方から文を一筆入れておく」
「寛大なお取り計らい、心より感謝申し上げます」
レオナルドは深々と、非の打ち所のない礼法で腰を折った。
そして、周囲で機を窺っていた他の貴族たちの気配を背中で敏感に察知すると、音もなく滑らかな足取りで半歩身を引く。
「それでは閣下、あまり長話でお引き止めしてはご迷惑でしょう。また後ほど、ご挨拶に伺わせていただきます」
流れるような身のこなしで、少年は次の来賓へと向き直り、再びあの完璧な外面の笑みを浮かべて見せた。
残された私は、空になったグラスの底を指先で揺らしながら、遠ざかる若き家令の背中をじっと睨み据えた。
十六歳。この若さで、すでに老練な外交官のような肚芸を身につけている。
公爵家の飼い犬か、それとも己の野心を隠した手負いの虎か。
少なくとも、あのアントニウスの愚直さだけを受け継いだような甘っちょろい青二才ではないことだけは、嫌というほど思い知らされた。
私は給仕が差し出した新しい赤ワインの杯へと、静かに手を伸ばした。




