旅立ちⅢ
港町リンクスの波止場には、潮の香りと共に張り詰めた別れの空気が漂っていた。
係留された中型帆船の船倉には、すでに大量の樽や木箱が隙間なく積み込まれている。
わしらドワーフの技師を中心とした、技術交流使節団十一人の準備、そして長期航海に耐えうる水と食料の積載はすべて完了していた。
今回の航海は、単なる旅ではない。
レオナルド様が描く未来図に基づき、中央大陸北部――中央帝国の構成領である北方大地にほど近い、アグリアス公爵が治める港湾都市リューベルの造船場へと赴く重要な使命がある。
ここアルビオンは海に囲まれた島国だ。将来、大陸との交易を本格化させるにも、領地の守りを固めるにも、独自の造船技術は絶対に欠かせない。だが、アルビオン沿岸の浅瀬や港湾事情を鑑みれば、巨大な大型船の接岸は容易ではないのだ。求められるのは、小回りが利き、荒波を乗り越える堅牢さを備えた先進的な中型船舶の建造技術。その分野において最も進んだ技術を持つのが、大陸のリューベルだった。
相互に技を学び合い、ドワーフの鍛冶技術と大陸の造船術を融合させる。リオネルの未来を背負う重責に、わしの髭の奥の口元も自然と引き締まる。
だが、今日の桟橋がこれほどの人だかりで埋め尽くされている理由は、わしら職人の見送りだけではない。
五年の国外追放を受け入れたグレリオ家の長男、ライモンド様。そして、その婚約者であるアンソニー様が、この船に乗って大陸へと旅立たれるからだった。
見渡せば、グレリオ家の兄弟方はもちろん、家臣団の重鎮から領内の有力者まで、主だった顔ぶれが勢揃いしている。頑固な職人風情のわしからすれば、いささか気恥ずかしくなるほどの大所帯だった。
わしは石畳を踏みしめ、レオナルド様の前に進み出て頭を下げた。
「レオナルド様。技術交流使節団十一名の準備、ならびに物資と兵糧の積み込み、すべて完了いたしました」
「ご苦労さまです、ワーグナー殿」
まだ幼さの残る顔立ちの若君は、真摯な光を宿した灰色の瞳でわしを見つめ返してきた。
「この使節団の成否は、将来のリオネルの命運を左右します。どうか無事に技術を持ち帰り、リオネルに新しい船を浮かべてください。皆の航海の安全を、心から祈っていますよ」
「はっ! この頑固頭に大陸の知恵を叩き込み、必ずやリオネルの名に恥じぬ船を造ってご覧に入れます!」
その頼もしい激励に胸を熱くしている横で、ライモンド様は桟橋に並ぶ人々一人一人と向かい合っていた。
立場を失い、家を追われる身でありながら、その無骨な大きな掌で一人一人の手を固く握り、頭を下げて感謝の言葉を紡いでいる。どこまでも義理堅く誠実な人柄が滲み出ていた。
「ライモンド様、どうか道中ご無事で。グレリオの武門の魂、いずこの空の下にあろうとも忘れますな」
杖をついて進み出たバルド老が誇りを込めて声を絞り出す。ライモンド様は深く頷き、手を強く握り返した。
その隣では、普段は冷徹な法と理の番人である宰相ゲオルグ様が、珍しく目元を潤ませて深々と頭を垂れていた。
そして、少し離れた人垣の端から、静かに歩み寄ってきた青年がいた。マルチェロ殿だ。
「……ライモンド兄上」
静かな呼びかけに、ライモンド様は柔らかな笑みを浮かべ、歩み寄ってその肩に手を置いた。
「ありがとう、マルチェロ。お前はお前の信じる道を、このリオネルで真っ直ぐに歩めばいい。父上もお前を大切に思っておられた。……体を大事にしろよ」
「はい……兄上も、どうかご無事で」
多くを語らぬ二人だったが、母は違えど血を分けた兄弟としての温かな情が確かに交わされていた。
先日、新たにリオネルへ臣従した銀髪の騎士ロドリゴ様が、かつての主家筋であるアンソニー様とライモンド様の前に立った。
「ライモンド殿、アンソニー様。此度の旅路に同行できぬ不忠をお許しください。ですが、姫から預かりしこの剣、必ずやグレリオ家とこのリオネルの地を守り抜く盾として振るってみせます」
「頼もしい義弟ができたものだ」
ライモンド様が豪快に笑うと、ロドリゴの隣に立っていたレティーシャ様が、紅潮した頬を隠すこともなく兄の胸元へ飛び込んだ。
「ライモンド兄様……っ!」
「レティ、泣くな。お前は昔から泣き虫だったが、もう立派な大人の女性だ。……ディバール卿を困らせるんじゃないぞ」
「困らせるわけないでしょう! 兄様こそ、怪我をしないで……絶対に、無事に帰ってきてね!」
大粒の涙を零す妹の頭を、ライモンド様は幼い頃と同じように優しく、大きな掌で撫でて落ち着かせた。
最後に、ライモンド様は二人の弟たちの前に立った。
領主代理を務めるロメロ様が、込み上げる感情を押し殺すように口を開く。
「……ライモンド兄上。どうかご無事で。私たちは、兄上のお帰りをお待ちしております」
「ああ。……ロメロ、レオナルド。グレリオ家を頼むぞ」
三人が伸ばした手が、がっしりと固く結び合わされた。
言葉など多くはいらない。血を分けた男同士、それぞれの持ち場で己を鍛え、家を守り抜くという不変の誓いが、その熱い握手の中に交わされていた。
出航の潮の刻限が刻一刻と近づいてくる。
使節団の団長たるわしは、胸を締め付けられる思いを押し殺し、意を決して声を張り上げた。
「ライモンド様! ……潮が満ちてまいりました。出航の準備が整いましてございます!」
呼びかけに頷いたライモンド様だったが、タラップに足をかける直前、ふと立ち止まり、隣に立つ紅蓮の髪の姫君――アンソニー様へと向き直った。
その表情には、申し訳なさと戸惑いが色濃く浮かんでいる。
「アンソニー……本当に、良いのだな? 私のような追放者に付き従えば、そなたの立場も、伯爵家での未来も――」
パンッ!
小気味のいい破裂音が、潮騒の波止場に乾いて響き渡った。
アンソニー様が両手を振り抜き、ライモンド様の分厚い両頬を真っ向から挟み撃ちにしたのだ。
赤く染まった頬を押さえて目を白黒させる大男に対し、姫君は呆れたように腰に手を当て、凛とした瞳を吊り上げてみせた。
「まだそのような寝言を仰いますの? 私は貴方の妻になる女です。どこへ行こうと、地獄の果てまで付き従うに決まっておりますでしょう!」
そのあまりの気風の良さに、桟橋で見守っていた者たちから、どっと温かい笑いが漏れ広がった。
ライモンド様も観念したように苦笑いを浮かべ、
「……わかった。すまない」
と呟くと、照れ隠しのようにアンソニー様の手を取り、力強い足取りでタラップを駆け上がっていった。
やがて太いもやい綱が解かれ、中型帆船はゆっくりと桟橋を離れ始めた。
風を孕んだ白帆が膨らみ、船首が外海へと向く。
甲板の舳先に並び立つライモンド様とアンソニー様は、小さくなっていく故郷の陸地から決して視線を逸らそうとしなかった。
そして桟橋の群衆もまた、船影が水平線の向こうへ溶け込むその瞬間まで、誰も帰ろうとはせず、いつまでも、いつまでも大きく手を振り続けていた。
-----人物紹介-----
ロドリゴ・ディバール
人族・19歳
シエル伯領の有力騎士家、ディバール家の若き当主
銀色の短髪と濃いブロンズ色の瞳を持ち、身長はおよそ190センチ。長身ながら俊敏な身のこなしを得意とする
前シエル伯の時代、16歳で騎士に叙任
リオンが伯爵位を継承した後、父が当主の座を退いたため、17歳でディバール家を継いだ
公国の兵役にも複数回参加しており、個人の武勇だけでなく、戦場で兵を率いる際の冷静な判断力を前シエル伯から高く評価されていた
上級騎士の家柄にありながら身分を鼻にかけることがなく、兵卒とも気さくに言葉を交わす社交的な性格
そのため末端の兵からの人望も厚く、シエル軍内でも高い信頼を得ている
若くしてディバール家最高の騎士と評されるほどの剣腕を持ち、近隣に武名を轟かせるライモンドとも過去に幾度か剣を交えている




