旅立ちⅠ
嵐のような戦後裁定が下された翌朝、リオネル城砦は嘘のような静けさを取り戻していた。
飾り気のない質素な応接室の長椅子で、私はアンソニー様の背後に控え、正面に座る少年の姿を静かに見定めていた。
グレリオ男爵家三男、レオナルド。
風の噂に聞いていた麒麟児を前にしても、外見に特段の奇矯さは見当たらない。十四歳相応の小柄な体躯に、柔らかそうな淡い栗色の髪、そして穏やかな光を湛えた灰色の瞳。まだあどけなさすら残る幼い顔立ちだ。
だが、この少年が積み上げてきた常軌を逸した実績を思えば、それがただの仮面に過ぎないことは火を見るより明らかだった。
辺境の男爵領を、公国に名を轟かすほどの富裕な領地へと生まれ変わらせ、つい数日前には、十倍を誇る我がシエル伯軍三千をたった三百余の寡兵で磨り潰してみせたのだ。常人の枠に収まる器であるはずがない。
「アンソニー姉上、此度は事前の根回しから出兵の抑制工作に至るまで、多大なご協力をいただき感謝いたします」
少年は、アンソニー様へ向けて屈託のない笑みを向け、ごく自然に『姉上』と呼んだ。
実兄ライモンド殿の婚約者である以上、義理の姉と呼ぶ筋道は通っている。だが、その婚約関係も、今や風前の灯火のはずだ。
昨日のうちにヴァイシス公都へ送致されたリオン卿が、いかなる裁きを受けるかはいまだ分からない。
だが、もし伯爵位を剥奪されることになれば、その後継問題は避けて通れまい。
リオン卿の子らに継承権はない。先代伯の血縁も、他家へ嫁いだ者か、すでに亡き者ばかり。
となれば、先代伯の嫡流に連なり、伯爵位を請求し得るアンソニー様こそ、次代のシエルを巡る中心となる。
先代伯に大恩ある私にとっても、忠誠を捧げるべき正統なる旗印は、この御方をおいて他になかった。
「……それに、ディバール卿」
不意に、少年の澄んだ灰色の瞳が私を捉えた。
「もし卿が三千の先頭に立っておられたなら、我が軍の勝利はもう少し難しいものになっていたでしょう」
アンソニー様が紅蓮の髪を揺らし、涼やかな声で応えた。
「礼には及びませんわ、レオナルド様。叔父の暴挙を止め、何より……婚約者たるライモンド様の命を救っていただいたのですから」
そこまでは、予想の範疇に収まる儀礼的なやり取りだった。
だが、姫が次に口にした言葉は、私の耳を疑わせるに十分だった。
「――ですから、私もライモンド様に付いていくことにいたしましたの」
「……は?」
喉の奥から、間抜けな声が漏れかけた。
思わず瞠目して前を睨むと、アンソニー様は「どうかいたしましたの?」とでも言いたげに、悪戯っぽく唇を弧に歪めて私を振り返った。
五年の国外追放を言い渡された婚約者に、伯爵家の嫡流たる令嬢が自ら付き従って出奔する?
あまりにも突飛で、貴族の常識をかなぐり捨てた決断だ。
「しかし姫、シエル領は――」
「シエルのことは公爵閣下がお決めになります。私が伯爵位を欲しているなどと、一度でも申し上げまして?」
言葉に詰まり、己の行き場を失って立ち尽くす私に、静かな声が掛けられた。
「ディバール卿」
レオナルド様が、改まった面持ちで私を見上げていた。
「私は卿の軍略と、兵から絶大な信望を集めるその人徳を、極めて高く評価しております。……もしよろしければ、我がグレリオ男爵家にお仕え願えませんでしょうか?」
唐突な登用の申し入れだった。
だが、私の胸中に迷いが生じたのも事実だった。
アンソニー様が伯爵位を望まず、ライモンド殿と共に大陸へ渡るというのであれば、私はどうする。
ディバール家に戻り、いつ下るとも知れぬ公爵家の裁定を待つのか。
それとも――。
逡巡する私の背中を押したのは、他ならぬ主の凛とした一言だった。
「ロドリゴ。貴方の武勇と知恵を腐らせては先代の祖父様にも顔向けができませんわ。……レオナルド様をお助けしなさい」
託されたのだ。この少年に剣を貸し、新たな主家のために働け、と。
もはや迷う理由など塵ほどもなかった。
私は深く息を吸い込むと、長身を折り、少年の前に片膝を突いた。腰から佩刀を抜き放ち、両手で捧げ持ちながら、頭を深く垂れる。
「――ディバール家の当主、ロドリゴ・ディバール。我が命とこの剣、レオナルド様の御旗の下に捧げ奉ります」
まだ見ぬ新しい時代の風が、静かな部屋の窓を小さく揺らしていた。




