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異世界の政 ~持続可能な異世界で、元総理が気づけばまた政治をしているわけですが~  作者: 五号戦車


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西方砦の戦いⅢ

(まさかこれほどとは……)

斜面を埋め尽くしていた喚声と絶叫が、急速に湿った濁流のような音へと変わっていく。

敵の登攀の勢いは完全にへし折れていた。


総大将たるリオンが激昂のあまり退却の銅鑼すら鳴らさぬため、前線で浮足立った兵と、後方から押し上げられる兵が木柵の合間で軋みを上げ、ただ立ち往生している。自ら死地へ歩みを進める者はもういない。前にも進めず、後ろにも退けぬまま、逃げ場を失った兵たちが押し出されるように惰性で右往左往しているだけだった。

軍としての統制は完全に崩壊し、ただの生きた的の群れと化している。


(……勝負あったな)


冷徹な盤面を眺めつつ、私は指揮棟から砦の内庭に立つ観測士官へ腕を振り下ろした。

射撃停止の赤旗が翻る。

その瞬間、砦内を一定の周期で支配していた弦鳴りの重低音が、まるで機械のスイッチを切ったかのようにぴたりと途絶えた。


ここからの隊員たちの挙動には、いささかの動揺も熱狂も混ざらない。

防壁沿いに並ぶ射手たちは、手にしていた長弓を足元へ整然と置き、帯革から抜き放った長槍や片手剣といった第一兵装へと機械的に握り替えていく。


「第一分隊、換装完了!」「第二分隊、よし!」


乾いた確認の声が内庭を駆け巡り、分隊から小隊、小隊から中隊へと、まるで水路に注がれる水のように整然と点呼が繋がれていく。この素早さ、この規律。これこそがレオナルド様と机上で幾度となく練り上げ、我ら武官が泥を啜りながら叩き込んできた「自衛隊」の真骨頂だった。


物見櫓に陣取っていた次男ルーカスの小隊だけ、合図の伝達が一瞬もたついたようだったが、すぐに機転を利かせた副官が駆け下り、準備完了の報告を上げてきた。

改めて眼下の斜面を見渡す。

三千を誇ったシエル軍は、我が軍の進入路制限によって縦に長く伸びきり、無秩序を晒していた。後方では軍令を待たずに隊列を破り、我先にと逃げ出す兵が続出している。先頭の混乱と後尾の潰走、もはや破綻の極みにあった。


「追撃戦へ移行する!」


私は指揮棟の階段を駆け降り、砦の正門脇に組まれた立ち台へと身を躍らせた。

集結した各中隊長へ向け、無駄のない手振りで展開を指示する。


「深追いは禁ずる。各中隊、指定の境界線まで敵を圧迫し、追い落とせ!」


ギギギ……と太い蝶番が軋みを上げ、砦の重い門扉が押し開かれた。

規律を保った穂先の列が、まるで一つの巨大な生き物のように門をくぐり、背中を見せて雪崩を打つ敵兵へと襲いかかる。

それと入れ替わるように、空堀の側道で先頭集団を血祭りに上げていたグラーフ率いるドワーフ守備分隊をはじめとした防衛中隊の隊員が、鉄と血の匂いを撒き散らしながら砦内へと引き揚げてきた。黒く染まった武器を肩に担ぎ、鎧の隙間から荒い息を吐き出す兵たち。


「よく踏み止まってくれた。負傷者を衛生班へ回せ」


短く労いの言葉をかけ、後続の負傷兵の手当てを指示する。

防衛から追撃、そして救護へ。 すべてが歯車の噛み合う音を立てて冷徹に進行していく。圧倒的な寡兵が十倍の大軍を一方的に蹂躙し、勝つべくして勝った戦場。だが、その完璧すぎる機械じみた光景の片隅で、奇妙な違和感が私の足を止めた。


物見櫓の階段下、兵舎の板壁の陰から、ルーカスがこちらへ向けて必死に手招きをしているのだ。


(……何をもたついている?)


ルーカス小隊はすでに副官に率いられ、門外へ打って出ているはずだ。小隊長たる男が持ち場を離れるなど軍律違反も甚だしい。

私は額に青筋を立てながら、大股で兵舎の陰へと踏み込んだ。


「何を遊んでいる、ルーカス! 貴様の持ち場は外だろうが!」


低い怒声で詰め寄る私を、人差し指を唇に当て押し止める。


「父上、お静かに……! こちらです」


引きずられるようにして薄暗い兵舎の奥へと足を踏み入れる。

粗末な木製寝台の上で、一人の少年が横たわっていた。

甲冑を身につけたままのレオナルド様だった。

その小さな顔には、固く絞られた濡れ手拭いが無造作に乗せられている。手拭いの下から覗く唇は血の気が完全に引いて白く乾き、胸元が小刻みに、頼りなく上下していた。


「……レオナルド様!? お怪我をされたのか!?」


思わず駆け寄ろうとする私に、ルーカスが押し殺した囁き声で告げる。


「いえ……外傷はどこにもありません。……ただ、新兵によくある症状です。櫓の上で敵が肉片になるのを見下ろしているうちに、顔色を失くされ、手すりから崩れ落ちるように気を失われました」


……新兵の、拒絶反応。

ルーカスの言葉が、私の胸を鋭く貫いた。

周囲の隊員たちに動揺悟られぬよう、混乱の最中に人目を避けてここまで運び込んだのだろう。ルーカスの機転は指揮官として上出来であり、主君の威信を守る意味でも完璧な判断だった。


寝台に近づき、荒い息を繰り返すレオナルド様の枕元に膝をつく。

冷たい手拭いを少しだけ持ち上げると、十四歳の青白い横顔が露わになった。苦しげに眉間を寄せ、悪夢にうなされるように微かに奥歯を鳴らしている。

これほど精密で、無駄がなく、恐ろしいまでに敵を効率的に磨り潰す防衛システムを組み上げた張本人。

大軍の襲来を前に微動だにせず、神がかり的な一矢で敵総大将の度肝を抜いてみせた希代の知謀家。

だが――その怪物じみた知謀の奥には、殺戮を目の当たりにして傷つく、生身の少年がいた。


自分が設計した「圧勝の歯車」が、いざ回り始めて敵を潰す様を目の当たりにした時、この方の倫理と精神は許容量を超えて焼き切れてしまったのだろう。

冷徹な怪物として振る舞いながら、その実、誰よりも流血と死を恐れ、拒んでいた。


(……これほどの地獄を真上から見下ろして、平然としていられる方が狂人というものだ)


無敵の知者ではなく、傷つき、震え、耐えきれずに昏倒してしまう生身の人間。

そのあまりにも痛々しく、年相応の脆さを目の当たりにした瞬間、私の胸の奥深くに、張り詰めていた戦の空気を溶かすような温かい感情が込み上げてきた。


「よくやった、ルーカス。お前はすぐに隊へ戻れ。小隊長が不在では示しがつかん」

「……はい。レオナルド様を、お頼みします」


息子の肩を叩いて戦場へ送り出し、私は再び寝台の主君へと向き直った。

砦の外からは、敗残兵を追い立てる自衛隊の怒号と、逃げ惑うシエル兵の喚声が地鳴りのように響いてくる。

一年前までただの農民だった者たちが、この少年の知恵によって、従来の騎士団すら凌駕する冷酷な戦闘集団へと変貌を遂げた。

その創造主が、自らの生み出した怪物の爪痕に打ちのめされて眠っている。


私は溜息を一つ吐き出し、少年の額から滑り落ちかけた冷たい手拭いを、そっと優しく直してやった。


「……恐ろしいお方だ。だが、若様が冷血漢でなくて、本当に安心しました」


誰にも届かぬ独り言を落とし、私は腰の剣の柄を握り直す。


「若様を頼む。目を覚まされたらすぐに知らせろ」


救護兵に伝えると、私は自分の持ち場へと向かった。


-----人物紹介-----

ルーカス・ペルノー

グレリオ男爵家に仕える騎士パウロ・ペルノーの次男

父や兄ザウロとは異なり、既存のやり方に囚われない発想を得意とする天才肌の武官

リオネル自衛隊では小隊長を務める一方、弓の扱いに習熟していない隊員や義勇兵でも集団射撃を行えるよう、射角を番号で指定し、一定の力で弓を引くことで特定の区画へ矢を集中させる射撃法を考案した

西方砦の戦いでは自ら射撃指揮を担当し、実戦でその有効性を証明する

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