西方砦の戦いⅡ
指先を離れた一本の矢は、放物線という物理の理をあざ笑うかのように直線を描いて風を切り裂き、リオンの兜の羽飾りを寸断して、はるか後方の軍旗の芯を穿ち抜いていた。
(……え?)
射抜いた私の背筋に、冷たいものが一気に駆け抜ける。
(無理だ。もう一度やれと言われても絶対にできない……!)
こめかみを伝う汗は、決意の滲みではなく明らかな動揺の産物だった。
威嚇のために撃ち込んだだけの矢が、奇跡的な武技の発動の悪戯によって、まるで神話の弓聖じみた精密射撃になってしまったのだ。
(出来すぎ……出来すぎだよぉ……!)
心の中で情けなく悲鳴を上げながらも、傲然たる冷笑の仮面を貼り付ける。
ここまできたら、ハッタリでも演じ切るしかない。
「――次はその額に当てて御覧に入れようか?」
魔道兵のルーン魔法で増幅された声量で吐き出した宣告は、麓の敵陣を根底から揺さぶった。
リオン卿の馬上での硬直はほんの一瞬。直後、屈辱と激昂に塗れたサーベルが振り下ろされ、怒号とともに三千の軍勢が堰を切った水となって勾配を駆け上がってくる。
地を揺るがす軍靴の響きに呑まれそうになる櫓の上で、傍らに立つルーカスが振り返る。
「レオナルド様、ここ危険です! 指揮棟の奥へお下がりを!」
「……いや、ここにいるよ。この戦を始めたのは私だ。最後まで見届ける責任がある」
震えを噛み殺した声で告げると、ルーカスは唇を引き結び、深く頭を下げた。
彼は身を翻し、砦の内庭に整列する射手たちを見下ろして右腕を天へと掲げた。
「――全射手、弓構え! 射角三番!」
張りつめた一呼吸を置き、振り下ろされる手。
「放てッ!」
弦が一斉に空を打つ低い重低音が響いた。
数十本の矢が丸太の防壁を越えて舞い上がる。だが、実戦の重圧ゆえか、最初の着弾は狙いの区画からやや散漫にばらけた。
「力んでいるぞ! 練習通り引く力を一定に保て!」
ルーカスの叱咤が兵の呼吸を整えさせる。
「構え! 射角二番――放てッ!」
修正された次弾は、黒々とした一つの塊となって斜面へ降り注いだ。
狙いは突進の先頭集団ではない。それに続く第二陣の頭上だった。
ここから、自衛隊がこれまで積み上げてきた防衛計画が、残酷なまでの正確さで機能し始めた。
兵器の規格化、地形の徹底的な測定、進入路を一本の細い筋へと強制する木柵の配置。そして、ルーカスが考案した、射角の番号だけで特定の区画を面として制圧する一斉射撃。
数ヶ月にわたり、机上演習と反復訓練で突き詰めてきた防衛システムだ。
対するシエル軍は、挑発の一撃に動揺し、何ら統制もないまま怒りに任せて急斜面を駆け上がってくる旧態依然とした軍勢に過ぎない。
十倍という圧倒的な戦力比。
本来ならば小勢を飲み込むはずのその「数の暴力」が、ここでは味方同士の首を絞める最悪の足枷へと反転していた。
「構え! 射角二番、放てッ!」
「続けて射角三番、放てッ!」
機械仕掛けの歯車のように、無機質な号令が斜面を刻み続ける。
死地を恐れず前に出ようとする勇猛な兵ほど先頭へ孤立し、後方で矢の雨に竦んで足を止めた兵は、さらに後ろから押し寄せる味方の突進と衝突して肉の壁を作った。
登ることも引くこともできず、斜面の中腹で押し合いへし合いの塊となった兵たちの頭上へ、寸分の狂いもなく矢の束が吸い込まれていく。
防壁の麓、辛うじて空堀を這い上がってきた先頭の敵兵に対しても、一切の慈悲はなかった。
空堀の側道から、グラーフ率いるドワーフ守備分隊が飛び出す。その後方から、待機していた防衛中隊の兵が続いた。
全身を分厚い鉄板で覆ったドワーフたちが大盾で進路を塞ぎ、重厚なハルバートを一閃させる。支援を断たれ、息を切らして辿り着いた敵兵は、まるで作業のように淡々と、各個撃破されて堀底へと転がり落ちていった。
勝負にすらなっていなかった。
戦術の優劣や勇気の多寡ではない。
高度に設計された「迎撃機構」という巨大なシステムに、怒れる人間の群れが自ら飛び込んで潰されている――それだけの、一方的な光景だった。
……宣戦布告の矢を放った際の一瞬の昂揚など、木っ端微塵に消え失せていた。
眼下に広がる地獄絵図を前に、私の胃の底から熱く苦いものが逆流しかける。
櫓の手すりを握る両手の指先が白く強張り、膝がガチガチと情けなく鳴った。
これが、私が作り上げた「合理的な戦争」の現実。
叫喚、破砕音、肉を断つ鈍い響き。
顔も知らぬ誰かの息子であり、父親である男たちが、泥と血にまみれて折り重なっていく。
自衛隊員の前で吐瀉物を晒すまいと必死に奥歯を噛み締めるが、風に乗って登ってくる生々しい血の臭気が、私の人間性を容赦なく殴りつけてくる。
(もういい……もういいだろ……!)
心の中で、血を吐くような悲鳴が渦巻いた。
退却の銅鑼を鳴らしてくれ。早く軍を引いてくれ。
頭では分かっている。これは自衛のための戦であり、こちらの手を緩めれば三百の仲間が皆殺しにされるのだと。
だが、勝敗はすでに決しているのだ。これ以上の流血に、一体何の意味があるというのか。
敵であれ味方であれ、命がモノのように損耗していく現実に、私の倫理は耐えきれそうになかった。
それでも、麓の敵将が狂乱して前進を命じ続ける限り、ルーカスの射撃号令が止まることはない。
耳鳴りが甲高く響き、眼下の惨劇が歪んでいく。
冷たい脂汗が両目を濡らし、視界が白くぼやけていった。
指先から感覚が抜け落ち、手すりにすがりつくことすらできなくなった私の意識は、凄惨な喚声が渦巻く闇の底へと、静かに沈み込んでいった。




