越境Ⅰ
リオネル領の最西方、シエル伯領との境界にほど近い村カノ。
農家の簡素な一室に、重苦しい沈黙が淀んでいた。
室内にいるのは、私をはじめとする反乱に加わった数名の騎士たち、そしてグレリオ家の嫡男たるライモンド様だ。
部屋の隅に置かれた粗末な椅子に腰掛けたライモンド様は、胸の前で両腕を固く組み、目を伏せたまま微動だにしない。先刻から置物のように押し黙り、我らの熱狂にも一切の言葉を返そうとはしなかった。
そこへ、部屋の扉を荒々しく開けて我が息子ユーゲルが戻ってきた。
地下牢から奪還し、再び甲冑をまとわせた我が愛息だが、その顔にはあからさまな苛立ちの色が滲んでいた。
「――父上、報告いたします。このカノ村の住民ですが、大半がすでに後方へと避難を終えております。村に残っているのは動けぬ老人ばかりで、残された食料もごくわずかしかございません!」
その言葉に、私の眉根が跳ね上がった。
(……レオナルドの小僧め、どこまで用意周到な真似を!)
探りを入れると、我らが蜂起の声を上げる数日前から、自衛隊の手引きによって住民の疎開と穀物の運び出しが始まっていたという。こちらの動きを完全に先読みされていたのだ。忌々しいことこの上ない。
私は顔をしかめ、ユーゲルへ冷酷に言い捨てた。
「残った村人にありったけの食料を出させろ。もし抵抗するようなら、見せしめに首を跳ねて構わん。シエル伯リオン閣下が軍勢を率いてご到着されるまでに、相応の食料を揃えておかねば我らの面目が立たんからな」
だが、その命が落ちた瞬間だった。
「――ゼノス!領民に手を出せば、私はお前を斬ってここから立ち去る」
低く、刃のように研ぎ澄まされた声が室内の空気を切り裂いた。
目を伏せたまま、ライモンド様が呟くように、だが絶対の威圧感を込めてそう言い放ったのだ。
ゆっくりと上げられた鋭い眼光が、私とユーゲルを真っ直ぐに射抜く。
「我がグレリオの領民へ刃物を向けることは、何者であろうと断じて許さん」
思わず胸の中で舌打ちした。
この期に及んで、なんと悠長なことをほざくのか。自らが主君として立つための戦であるというのに、泥にまみれた百姓どもの心配などしていられる状況か。
……とはいえ、ここで神輿であるこの男と決定的な亀裂を生むわけにもいかない。
私は内心の苛立ちを押し殺し、慇懃な礼を取って了解の意を示してみせた。
「……滅相もございません、ライモンド様。ただいまの言葉は些か口が過ぎました。ユーゲル、村長を呼び出し、しかるべき対価を約束して食料を供出させるよう丁重に頼み直せ」
「は、はっ……承知いたしました」
ユーゲルは一瞬不満げに眉をひそめたが、すぐに私の意図を察して頷いた。
これだけ言えば、我が息子とて裏でどう立ち回ればいいかくらいは心得ている。要は、この甘っちょろいライモンド様の前でだけ「良き騎士」の面皮を被っておけば事足りるのだ。
ユーゲルが部屋を出ていくのと入れ替わりに、シエル伯領との国境を見張らせていた物見の騎士が血相を変えて駆け込んできた。
「ゼノス様! シエル伯リオン閣下が自ら兵を率い、出立されたとの報が入りました! その軍勢、およそ三千――!」
三千か……! その途方もない大軍の規模に、室内へどよめきが走った。
だが、歓喜と同時に私の背筋へ冷たい汗が伝う。
(三千の大軍……となれば、近隣の村々から早急に食料を徴発せねば、数日と持ちこたえられんぞ)
レオナルドが先手を打って村々の物資を綺麗さっぱり運び出してしまったせいで、こちらの補給計画は初手から完全に狂わされてしまっていた。三千の兵の糧食を現地調達できなければ、伯爵軍の不満は瞬く間に我らへと向けられる。
「急ぎ騎士どもを集めよ! 近隣の村落を虱潰しに捜索し、食料を確保する手はずを整えるのだ!」
私は矢継ぎ早に配下の騎士たちへ命令を飛ばした。
全く、どこまでも忌々しいガキだ。あの悪魔憑きめ、戦が始まる前からこちらの喉元を締め上げにかかってくるとは。
だが、どれほど小細工を弄そうと無駄なことだ。
すでに嫡男ライモンド様はこの手の中にあり、三千という圧倒的な暴力が間もなくこの地に雪崩れ込んでくる。
誰の手を借りようと、他領の軍勢を引き入れようと、構うものか。
戦など、まずは勝てばいいのだ。
勝ってレオナルドとロメロを排除し、リオネルの真の秩序を取り戻せば、すべては後からいくらでも正当化できる。
私は背後に座すライモンド様の沈黙を意識の端に置きながら、レオナルドが立て籠もる砦を睨みつけた。




