蜂起Ⅱ
男爵執務室の窓辺に立ち、私はかすかに冷たさを増した秋の風を肌に受けていた。
二日前、シエル伯領において長兄ライモンドの結婚祝賀が執り行われたはずだ。
正式な婚姻そのものは、シエル伯の姪であるアンソニー嬢が十六歳を迎える年明けの春に予定されている。だが、それに先んじる形で、シエル領主リオン・ベルトレは近隣の貴族や有力者を大々的に招き、盛大な祝賀の宴を催していた。
リオネル領からは当然ながら当事者であるライモンド兄上が出席している。
しかし、領主代理である次兄ロメロも、そして領政の中枢を担う私自身も、その場には参加していなかった。
そもそも、私たち二人は最初から招待客の名簿にすら入っていなかったのだ。
その代わりに招かれたのは、上級騎士ゼノスをはじめとする「ライモンド派」を標榜する多くの騎士たち、そして領内の有力者たちであった。
執務机に向かうロメロ兄上へ、私は静かに視線を向けた。
この部屋へ足を運ぶ直前、シエル伯領内に潜ませていた協力者から、極めて重大な最新の連絡がもたらされていた。
「ロメロ兄上。……今日からはマナーハウスを離れ、リオネル城砦に移って領政を行ってください」
私の唐突な進言に、兄上は持っていた羽ペンを止め、一瞬だけ視線を鋭くした。
だが、余計な詮索や反論を挟むことはなかった。長きにわたる改革の中で培われた直感で、事態がもはや次の段階へ進んでしまったことを察したのだろう。
「……わかった。すぐに移ろう」
素直に頷いた兄上を見届け、私は部屋の外で控えていた護衛の兵へ扉越しに声を掛けた。
「館のメイドに、ロメロ兄上の着替えと必要な身の回り品をまとめて城砦へ運ぶよう伝えてくれ」
「はっ!」
護衛は短く敬礼を返し、早足で連絡へと向かっていった。
静まり返った室内で、ロメロ兄上がぽつりと呟いた。
「何事もなければいいが……」
(何事もないと、こちらとしては困るのだがな……)
内心でそう毒づいたが、無論それを口に出すほど私も野暮ではない。
これまで数々の罠を張り、法と制度を整え、相手が痺れを切らして一線を越えるのをじっと待っていたのだ。今さら何事もなく引き返されては、これまでの布石が無駄になってしまう。
「まあ……それは無理でしょうね」
当たり障りのない返答を口にしながら、私は再び窓の外へと視線を向けた。
秋の夕日が、城砦の防壁の向こう側へと赤黒く沈もうとしていた。まるで、これからこの領地を飲み込もうとしている血の嵐を予感させるかのように。
私とロメロ兄上は、マナーハウスの料理人たちへ「今夜の夕食は城で取る」と言い残し、護衛を伴ってマナーハウスを後にした。
堅牢な石造りのリオネル城砦へ足を踏み入れた頃には、外を照らしていた日の光はすでに完全に失われ、夜の帳が領都を覆っていた。
城内の執務室に入り、防衛体制の確認を始めようとした――その時だった。
城の跳ね橋を激しく叩く、慌ただしい蹄の音が夜気を切り裂いた。
ドタドタと荒々しい足音が廊下を駆け抜け、息を乱した伝令の騎士が、扉を突き破るような勢いで執務室へと転がり込んできた。
「も、申し上げますッ! 騎士ゼノスがライモンド様を擁立し、シエル伯領にほど近い村々を次々と占拠しておりますッ!」
ついに来たか。
外面は完璧なまでに冷徹さを保ち、眉一つ動かさずに報告を受け止めた。
だが――その平然とした仮面の裏側で、私の胸の奥では心臓が早鐘のように大きく打ち鳴らされていた。
ドクン、ドクン、と耳の奥に響く自分の激しい鼓動。
とてもではないが、内心まで冷静でなどいられるはずがなかった。
当たり前だ。前世において、組織内の陰湿な足の引っ張り合いや、権謀術数が渦巻く政争ならば嫌というほど経験してきた。だが――互いの命と領土を奪い合う『本物の戦争』など、生まれてこの方一度たりとも経験したことがないのだ。
いくら事前に防衛計画を練り上げ、自衛隊という常備軍を鍛え上げてきたとはいえ、生身の人間同士が殺し合う戦いなど、そう簡単に腹が据わるものではない。
(……だが、ここで私が揺らいでどうする)
奥歯を強く噛み締め、無理やりにでも冷静さを装う。
恐怖を気力で押し殺し、私は隣に立つロメロ兄上へと向き直った。
「兄上ッ!」
号令を促す。
この緊急事態に際し、領主代理であるロメロ兄上が自衛隊へ出撃命令を下す手筈は、あらかじめ綿密に示し合わせてあった。
だが、私の強い呼びかけに対し、ロメロ兄上は痛ましげに眉を寄せ、躊躇うように問いかけてきた。
「……本当にお前も、砦へ向かうのかい? レオナルド」
(この期に及んで、まだ私の心配をするのか、この兄は……)
思わず目頭が熱くなりかけるのを堪えた。
領地の存亡を分ける内乱が勃発したというのに、目の前にいる優しい次兄は、何よりもまず十四歳である私の身の安全を案じているのだ。その底知れぬ甘さと優しさには、心から敬服するしかなかった。
だが――私が出向かなければ、絶対に駄目なのだ。
ゼノスら旧態依然とした騎士たちの傲慢を打ち砕き、父アントニウスの死から始まったグレリオ家の長い混乱に終止符を打つ。その決着をつける責任は、この改革を主導してきた私自身にある。
私は迷いを断ち切り、無言のまま強く兄上を見つめて深く頷いた。
私の決意の固さを悟ったのだろう。ロメロ兄上はギュッと唇を噛み締め、意を決したように領主代理の顔つきへと引き締めた。
「――自衛隊後詰二個中隊に命ずる。騎士パウロを総大将とし、即刻、国境の簡易砦へ急行せよ!」
厳かに下されたその命令を合図に、私の初陣となる戦いの火蓋が、ついに切って落とされた。




