第4話 先頭打者を失った少年
お読みいただきありがとうございます。
第四章から続く「癒やしの札と第三の進路」も、いよいよ第4話です。
今回は、福江南高校野球部の不祥事によって居場所を失った一人の少年、権世毅にスポーカスを当てています。
彼が積み重ねてきた努力は本物でした。
けれど、その努力の陰で誰かを傷つけていたこともまた、事実です。
「被害者であり、加害者でもある」という難しい立場の人間に、金津美里はどう囁きかけるのか。
ぜひ最後までお楽しみください。
池口寿蒙の背中が、校舎裏の木々の向こうへ消えていく。
富津歩美はしばらくその場に立ち尽くしたまま、右手の指先を見つめていた。
何も付いていない。
分かっている。
それでも指先をこすり合わせるたび、あの札を貼った瞬間の感触が消えない。
夏の午後五時、校舎はまだ生温かい空気に満ちている。
グラウンドから野球部の声が届く。
いや、正確には届いていない。
歩美の耳には、それらの音が分厚いガラス越しに聞こえてくるように感じられた。
蝉の声。
吹奏楽部の音階練習。
運動部の掛け声。
普段なら、その一つ一つに耳を傾ける余裕がある。
今日は違う。
灰になって崩れていった恨卑の姿が、瞬きのたびに瞼の裏へ蘇る。
歩美は大きく息を吸い、吐いた。
いつもの自分に戻らなければ。
仲間に余計な心配をかけるわけにはいかない。
一年一組の教室の前に立ち、引き戸へ右手を伸ばす。
指先が、かすかに震えていた。
戸を開けると、机がいくつか中央へ寄せられ、十人分の視線が一斉にこちらを向いた。
慎悟は脇腹をかばうように椅子へ座っている。
隣の南海が、彼が身じろぎするたび心配そうに肩へ視線を送っていた。
窓際に立っていた友紀が、真っ先に気づく。
「歩美、遅かったね。何かあったの?」
「ううん、大丈夫」
反射的に出た声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
美奈子が、静かにこちらの顔色と指先を見ていた。
健太が眉を寄せる。
翔一が何か軽口を叩こうとして、口を開きかけたまま止まる。
歩美の表情に、いつもの明るさがないことに気づいたのだろう。
慎悟は詰問することなく、空いている椅子を目で示した。
「座れよ。話はそれからでいい」
歩美は頷き、腰を下ろす。
膝の上で両手をきつく組み合わせた。
恨卑のことを話すべきか。
けれど今それを口にすれば、声が崩れてしまう気がした。
だから歩美は、先に別の話をすることにした。
「野球部の一回戦、不戦勝になったの」
声を絞り出すようにして続ける。
「対戦相手の福江南、大会出場を辞退したんだって」
理由は、部内で行われていた後輩へのいじめと、動物を虐待する動画の発覚だった。
中心となった部員は停学中に自主退学届を提出し、別の部員にも重い処分が下される見込みだという。
教室が静まり返る。
南海が最初に口を開いた。
「辞退は当然なのかもしれないけど……被害に遭った子たちは、野球そのものが嫌になってるかもしれないよね」
健太が低い声で言う。
「先輩だからって、何しても許されるわけじゃない」
友紀の眉間に、はっきりと不快の色が浮かぶ。
「嫌がっている相手を従わせて、それを指導って言い換えるのは卑怯だよ」
蓮は表情を変えず、淡々と言った。
「感情の話は分かる。でも問題が公になった以上、部が大会を続けるのは現実的に難しかっただろうな」
伊織が静かに目を伏せる。
翼が眼鏡の位置を指先で直しながら、机の一点を見つめた。
「大会辞退だけなら、学校の中で処理される問題だ。でも、停学や退学で居場所を失った人間がいるなら、話は別だ」
慎悟の表情が、わずかに険しくなる。
「美里は、追い詰められた奴の前に現れる」
短く、それだけ言った。
教室の空気が一段階、冷たくなる。
美里が相手の罪を問わないこと。
罪悪感を薄れさせ、責任を社会や周囲へ向けさせること。
進学でも就職でもない、第三の進路という名で鬼になる道を示すこと。
誰もがそれを知っている。
南海が呟くように言う。
「本当に追い詰められた時、あなたは悪くないって言われたら……信じたくなる人も、いると思う」
「苦しかったからって、何をしても悪くないことにはならない」
友紀が強く返す。
蓮が指先で机を軽く叩いた。
「処分された生徒の現在地が分からないなら、もう接触されている可能性もある」
翼が続けた。
「退学届を出した人物の氏名と、部内での立場、成績。調べる必要がある」
その時、翔一が何かを思い出したように顔を上げた。
「……福江南に、権世毅って先輩がいた」
翔一の声には、いつもの軽さがなかった。
中学時代、同じ学校に通っていた一学年上の生徒。
一番打者、三塁手。
右投げ両打ち。
俊足、強肩、長打力を兼ね備えていた。
初球から積極的に振り、試合開始直後から相手投手へ圧力をかける。
内野安打だけでなく、外野の間を破る長打も打てる選手だった。
「野球だけ見れば、本当に上手かった」
翔一はそう言ってから、少し間を置いた。
その言葉の裏に、重いものが横たわっているのが分かった。
毅は自分の実力に絶対的な自信を持ち、後輩は先輩に従うものだと信じ込んでいた。
荷物を持たせる。
失敗すれば大勢の前で怒鳴る。
逆らう者を「根性がない」「和を乱す」と決めつけ、周囲から孤立させる。
翔一自身、廊下で毅とすれ違った際、複数のバッグを持たされた後輩と、手ぶらで歩く毅を見たことがあった。
「あの人にとって、後輩は仲間じゃなかったんだと思う。自分の言うことを聞かせるための、下の人間だった」
友紀が奥歯を噛むように、口元を固くした。
健太が低く言った。
「力や実力を持つ人間ほど、慎重にならなきゃいけないのに」
美奈子が静かな声で尋ねる。
「その人は、自分が傷つけた相手の顔を覚えているのでしょうか」
翔一は少し考え、首を振った。
「覚えてても、自分が悪いとは思ってないだろうな」
慎悟が呟く。
「だからこそ、美里にとって利用しやすい」
「自分は悪くない。周りが才能を潰した。そう思っているなら、美里の言葉は簡単に入り込む」
歩美はその言葉を聞きながら、指先を強く握りしめていた。
助けようとして一つの命を消してしまった自分。
自分の非を認めず、新しい力を求めようとしているかもしれない少年。
見えない線でつながっているような気がした。
口を開こうとする。
けれど、恨卑のことは、まだ言葉にならなかった。
◇
夕暮れの福江市、繁華街。
権世毅は一人、人通りの多い歩道を歩いていた。
坊主頭は中途半端に伸び、野球部時代のように整えられてはいない。
制服ではなく、黒いTシャツとジャージ。
片手に提げたスポーツバッグの中には、使い込まれたバッティンググローブとリストバンドが入っている。
毅は停学処分中に退学届を提出していた。
だが学校が正式に受理するのを待たず、家にも学校にも戻らず、行き先も告げずに姿を消していた。
街頭の大型画面に、高校野球地区予選のニュースが流れる。
福江南高校の出場辞退。
校門、無人のグラウンド、誰も座っていないベンチが順に映し出される。
通行人が足を止め、ニュースを見ながら勝手な言葉を口にしていた。
「いじめってひどいよね」
「動物虐待って、頭おかしいでしょ」
毅は奥歯を噛みしめる。
俺が、どれだけ練習したかも知らねえくせに。
心の中でそう吐き捨てた。
誰より早くグラウンドへ出た朝。
雨の日にも屋根の下で振り続けたバット。
足を速くするため、夜遅くまで走った坂道。
手の皮が破れ、テープを巻いてまで振ったバット。
一年生の早い時期からベンチ入りし、上級生を押しのけてレギュラーを奪った日々。
才能も、努力も、本物だった。
それは事実だ。
だが毅は、自分の行為をいじめだとは、一度も認めていない。
正座をさせたのは根性をつけるためだ。
私物を隠したのは周囲を見る力を鍛える冗談だ。
孤立させたのは和を乱した本人の責任だ。
無理な行為を強いたのは、野球部では当たり前の指導だ。
告発した後輩を、恩知らずだと思っている。
学校が弱い人間の言い分に迎合したと思っている。
大会辞退で仲間の夏を奪ったと責められたことにも、腹を立てている。
毅の中では、傷つけられた後輩よりも、野球を失った自分の方が、はるかに大きな被害者だった。
ショーウインドーに映る自分の姿を、毅は見た。
数日前まで白球を追っていた球児ではない。
行き先を失い、ジャージ姿で街をさまよう少年が、そこにいた。
視線を逸らす。
見たくなかった。
「権世毅」
名前を呼ばれた。
正確に、迷いなく。
毅は足を止め、鋭く振り返る。
そこに、ダークレッドのワンピースを着た少女が立っていた。
肩甲骨まで伸びた黒髪が、夕風に揺れている。
夕暮れの雑踏の中で、明らかに浮いた出で立ちだった。
なのに、周囲の誰も彼女へ視線を向けない。
少女は静かな足取りで距離を詰めてくる。
「誰だ、お前」
毅の声が、掠れて低くなった。視線だけが、油断なく少女を捉えている。
少女はすぐには答えず、毅の右手へ目を落とした。
長年バットを握り続けた掌に残る、硬いまめ。
「右投げ両打ち。一番打者で三塁手。五十メートル走は六秒前半。肩も強くて、一年生の早い時期からベンチ入り。初球から振れる度胸があって、足も長打も使える。守る側には、かなり嫌な選手だったそうね」
毅の背筋を、冷たいものが走った。
なぜ知っている。
停学のことも、退学届のことも、大会辞退のことも、告発した後輩のことも、少女はすべて知っているようだった。
「説教なら聞かねえぞ」
毅は肩を怒らせる。
「俺は少し厳しくしただけだ。弱い奴が勝手に騒いだんだ」
少女は、その言葉を否定しなかった。
いじめだったとも、反省すべきだとも言わなかった。
代わりに、毅が最も失いたくなかったものへ、そっと触れた。
「あなたは、野球が好きだったのね」
不意を突かれ、毅は言葉を失う。
少女は続ける。
朝早くから走り込んだこと。
手の皮が破れてもバットを振り続けたこと。
自分の名前を、結果で覚えさせようとしたこと。
上級生や、比較される誰かの影の中で、野球だけは誰にも渡すまいとしたこと。
慰めではなかった。
失われた自尊心だけを、少女は丁寧に、慎重に撫でていく。
「あなたは野球を奪われたのではないわ」
毅は睨みつけながらも、続きを待ってしまう自分に気づいていた。
「あなたを使いこなせない連中から、捨てられただけ」
その一言が、胸の奥深くへ入り込んでいく感覚があった。
嘘ではない。
努力したことは事実だ。
才能があったことも事実だ。
野球が好きだったことも、事実だ。
少女はただ、後輩へ与えた被害だけを、静かに切り落としていた。
責任という部分だけを外せば、毅は才能を理解されなかった悲劇の選手になる。
自分が何度も自分自身へ繰り返してきた言い訳が、より美しく、信じやすい言葉に変わって返ってきた。
初めてだった。
自分の被害者意識を、まるごと肯定してくれる相手に出会ったのは。
肩の強張りは、まだ解けていない。
それでも毅は、その場を立ち去ろうとしなかった。
少女は毅を改めて見つめる。
「一番打者は、最初に相手の流れを壊す役目なのでしょう?」
反射的に答えていた。
「最初に塁へ出る。相手投手を揺さぶって、後ろへ流れを渡す」
少女は満足そうに微笑んだ。
「なら、あなたにはまだ役目があるわ」
「野球は、もうできねえ」
「野球である必要はないの」
少女は雑踏の向こうへ視線を移す。
学校、会社、家庭、警察、行政。
人間社会を形作るものすべてを、まるで古びた試合会場のように語った。
「あなたを退場させた人間社会そのものを、試合相手にすればいい。なら今度は、人間社会を崩す先頭打者になりなさい」
毅の心臓が、大きく跳ねた。
少女は、進学でも就職でもない道があると告げる。
学校の評価に従わない道。
世間の正義に従わない道。
他人から許されるのを待たず、力によって自分の価値を証明する道。
選ばれなかった者が、今度は選ぶ側に回る道。
それを、少女は静かに「鬼になる道」と明かした。
普通なら信じない話だ。
それなのに、少女の周囲には人間離れした気配が漂っていた。
暗い瞳の奥で、ダークレッドの炎に似た光が揺れている。
少女が右手を差し出す。
「あなたの野球人生は終わっていない。打つ相手が、白い球から人間社会へ変わるだけよ」
毅の脳裏に、いくつもの顔がよぎった。
告発した後輩。
退学届を受け取った教師。
自分を責めた部員たち。
好き勝手にニュースを見て話す通行人。
同時に、もう一つの道もほんの一瞬、頭をかすめた。
謝る道。
処分を受け入れる道。
自分が後輩を傷つけたことを認め、人間としてやり直す道。
その道は、完全に閉ざされているわけではなかった。
だが、その道を選ぶには、自分が被害者だけではなかったと認めなければならない。
加害者だったと、自分自身に突きつけなければならない。
その道を思い描いただけで、毅の喉の奥が渇いた。
差し出された手を取れば、自分は被害者のままでいられる。
責任を認めなくていい。
奪われた側として、怒り続けていられる。
一瞬の迷いは、良心の呼び戻しにはならなかった。
責任を認める恐怖と、復讐へ進む誘惑。
そのどちらが自分を楽にするか、毅はもう分かっていた。
毅は、右手を差し出した。
バットを握り続けて硬くなった掌が、少女の白い手に重なる。
少女の唇の端が、静かに持ち上がった。
その笑みは、誰かを救う者のものではなかった。
新しい駒を手に入れた者の、静かな笑みだった。
毅はその違いに気づかなかった。
あるいは、気づいていても、見ないことを選んだ。
二人は雑踏を離れ、人通りの少ない路地へと消えていく。
大型画面には、相変わらず福江南高校の出場辞退のニュースが繰り返されていた。
無人のグラウンド。
誰もいない一番打者の打席。
がらんとした三塁の守備位置。
夏風に揺れる、破れかけた防球ネット。
通行人はほんの数秒その映像を見て、すぐに別の話へ移っていく。
毅という少年が積み重ねてきた練習の日々も、後輩に与えた恐怖も、街を行き交う人々にとっては、通り過ぎていく一つのニュースにすぎなかった。
けれどその外側で、次の何かが、すでに動き出していた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
権世毅は、ついに金津美里の手を取ってしまいました。
自分の非を認めるより、被害者のままでいる方が楽だった。
その心の弱さにつけ込む美里の手口は、今後も形を変えて繰り返されていきます。
次話「三人の鬼候補」では、毅と同じように「第三の進路」へ導かれる、もう二人の少年少女が登場します。
一人は加害者側、もう一人は紛れもない被害者。
立場の異なる三人が、美里によって同じ檻へ押し込まれていく様子を描きます。
「傷ついたことと、他人を傷つけてよいことは別問題」というこの物語の核心に、次話で触れることになります。
ぜひ引き続きお付き合いください。
必要であれば、前書き・後ろ書きの文字数調整や、絵文字を使った軽いトーンへの変更なども対応できます。お気軽にどうぞ。




