第3話 救えなかった命
十彩獣団 第五章「癒やしの札と第三の進路」第3話をお届けします。
前話で歩美が目撃した、恨卑同士の争い。今話はその続きから、歩美自身の選択と、その結果を描きます。
敵を助けるべきか、見捨てるべきか。答えのない問いに、歩美がどう向き合うのかを見届けていただければ幸いです。
九匹の恨卑が、植え込みの闇へ次々と吸い込まれていく。
歩美は校舎の陰から、その光景を息を殺して見つめていた。
暗緑色の小さな影が、一匹、また一匹と重なり合うように消えていく。誰も振り返らない。誰も鳴き声を上げない。ただ、濁った喉鳴りだけを残して、九つの気配は夏の緑の奥へ溶けていった。
仲間を置き去りにしたことへの躊躇は、どこにも見えなかった。
照りつける七月の午後だった。校舎の壁が熱を吸い、跳ね返す。アスファルトの照り返しと、コンクリートの照り返しに挟まれて、校舎裏の空気だけが余計に重く澱んでいる。
歩美は、その熱気の中に取り残された一匹を見ていた。
暗緑色の鱗は、九匹の仲間に引き裂かれていた。脇腹に走る深い裂傷から、黒ずんだ血が滲み出し、乾いた地面へ小さな染みを広げていく。細い前脚を突っ張り、身体を持ち上げようとするが、力が入らない。二度、三度と試み、そのたびに崩れ落ちる。
呼吸のたびに、小さな身体が弱々しく震えていた。
――敵だ。
歩美は自分にそう言い聞かせた。
あれは、これまで何人もの生徒や市民を襲ってきた恐竜の鬼だ。毒を持つ牙で人を傷つけ、群れで獲物を追い詰める。今は動けなくても、回復すればまた人を襲うかもしれない。
助けた結果、誰かが傷ついたら。
その責任は、誰が負うのか。
ここで見捨てることも、きっと必要な判断だ。市民を、仲間を守るための選択なのだと、歩美は自分の中で理屈を組み立てようとした。
だから、動かなくていい。
そう思った瞬間、恨卑が掠れた声を漏らした。
苦しみに耐えかねたような、細く裏返った鳴き声だった。
歩美の足が、勝手に一歩前へ出ていた。
自分でも遅れて気づいた。理屈はまだ終わっていないのに、身体はもう動いていた。
擦り傷を負った部員へ消毒液を差し出した放課後の匂い。熱中症で倒れた選手の首筋に氷嚢を当てたときの、痺れるような冷たさ。
捻挫した先輩の肩を支えて保健室まで歩いた、あの重み。痛いと言えずに唇を噛んでいた後輩に、自分から声をかけたこと。
そういう記憶が、説明もなく身体の奥から立ち上がってくる。
歩美は、立派な理念で動いているのではなかった。野球部マネージャーとして染みついた癖が、敵か味方かの判断より先に、足を前へ出させていた。
「……放っておけないよ」
小さく呟いた声には、決意よりも困惑のほうが多く滲んでいた。
歩美はゆっくりと恨卑へ近づき、膝をついた。
恨卑は牙を剥こうとした。しかし口をわずかに開いただけで、力尽きたように顎を地面へ落とす。黄緑色に濁った瞳が、歩美を映したまま小さく震えている。そこにあるのは敵意ではなかった。ただ、逃げ場を探すような揺らぎだけだった。
歩美は右手を胸元へ添える。
「明駆――」
黄色い光が身体を包み、ノウサギを思わせる軽装の戦闘服へと変わる。華やかさよりも、負傷者へ手を差し伸べるための装いだった。
腰の収納部から、淡い黄色の札を一枚取り出す。跳ねる野兎の紋様が浮かび、指先に柔らかな温もりが伝わってくる。これまで何度も、部員の切り傷や打撲をこの光で治してきた。
鬼へ使うのは、初めてだった。
それでも、傷口を塞ぐだけなら、相手が誰であっても変わらないはずだと歩美は思った。
「大丈夫。少しだけ我慢して」
言葉が通じるかは分からない。それでも、理解できないと決めつけて声をかけないことだけは、歩美にはできなかった。
脇腹の深い裂傷へ視線を落とす。
「治せるかもしれない……」
歩美は札を、そっと傷口へ貼った。
鱗に触れた瞬間、鮮烈な黄色い光が弾ける。傷が塞がる――そう思い、歩美は詰めていた息を吐いた。
だが血は止まらない。裂けた鱗にも変化がない。光は傷口へ集まらず、鱗の下へと潜り込んでいく。
光が沈んでいく感触に、歩美の指先が強張った。
次の瞬間、恨卑の身体が大きく跳ねた。
四肢を突っ張り、地面を掻きむしる。爪が土へ食い込み、何度も同じ場所を削る。
「ギィィィィッ――!」
歩美は一瞬、動けなくなった。
「えっ……?」
治っているのではない。
苦しんでいる。
その理解が、遅れて追いついてきた。
歩美は我に返り、札の端へ指をかける。だが札は、紙とは思えないほどの力で鱗へ吸着していた。力を込めても、一ミリも動かない。
「違う……! こんなことをするつもりじゃ……!」
何度も指をかけ、剥がそうとする。強烈な熱が指先へ走り、思わず手を離してしまう。それでも、もう一度手を伸ばす。
「お願い、離れて……!」
息が浅くなる。指先が震える。爪が札の端をひっかいても、びくともしない。
黄色い光が恨卑の全身へ広がっていく。鱗の下に、黒い血管のような筋が浮かび上がる。
回復の光は、傷を治しているのではなかった。恨卑の内側にある何かを、無理やり押し出そうとしている。
校舎の壁に絶叫が反響する。地面を削る爪。震える尾。息を吸えずに開閉する口。
暗緑色の鱗の隙間から、墨のような黒い霊気が噴き出し、煙となって宙へ立ち上っていく。
その煙の中に、一瞬、細い五本の指を持つ人間の手のような輪郭が浮かんだ。
続けて、苦痛に歪んだ人間の顔らしき影。年齢も性別も分からない。口を開き、何かを訴えようとしている。
しかし声になる前に、輪郭は黒い霊気へ溶けて消えた。
歩美は息を呑んだ。
「今の……人間……?」
答えを確かめる間もなく、絶叫が前触れなく途切れた。
静けさが、校舎裏に落ちた。
恨卑の表面に灰色の亀裂が走る。頭部から尾の先まで、無数の亀裂が広がっていく。暗緑色の鱗が、乾いた灰へと変わっていく。
「待って……!」
歩美が両手を伸ばしたときには、もう遅かった。
恨卑の身体は音もなく崩れ、黒灰色の灰になった。地面に残るのは、力を失った回復札だけ。その札さえも、端から静かに崩れていく。
七月の熱い風が校舎の間を吹き抜け、灰を巻き上げて植え込みの向こうへ運び去った。
歩美は灰をつかもうとした。指を閉じても、指の隙間から抜けていく。血も、遺体も、そこに命があった証拠さえ、何も残らなかった。
膝をついたまま、動けなかった。
傷を治そうとした。苦しませるつもりなんてなかった。命を奪うつもりなど、微塵もなかった。
それでも、自分が札を貼った直後に、消えた。
「私が……殺したの……?」
言葉にした途端、涙が静かにこぼれた。声を上げて泣くのではない。現実を受け止められないまま、涙だけが落ちていく。
「治す札なのに……どうして……」
背後から、砂利を踏む足音が近づいてきた。落ち着いた、乱れのない歩み。
歩美はすぐに振り返れなかった。
灰色の僧衣をまとった池口寿蒙が、静かに隣へ進み出て、恨卑が消えた場所へ膝をつく。左手首の黒檀の数珠へ指を添え、目を閉じ、夏の風に溶けるような穏やかな声で念仏を唱えた。
歩美は寿蒙の背中を見つめながら、堪えきれずに言った。
「私の札で……死んだんです」
寿蒙は念仏を止めなかった。最後まで唱え終えてから、目を開く。
「あなたは、その鬼を殺そうとしたのですか」
「違います……私は、傷を治そうと……」
「ならば、あなたは殺そうとしたのではありません。救おうとしたのです」
歩美の顔に、一瞬だけ光が差した。しかし寿蒙は、そこで言葉を止めなかった。
「ですが、善意で行ったことだから、起きた結果を見なくてよいわけでもありません」
厳しい声ではなかった。ただ、逃げ道のない言葉だった。
歩美は俯き、震える手を握りしめる。
「私は……どうすればよかったんですか」
「今は、答えを急がなくてよいでしょう」
「でも、私が何もしなければ、あの鬼はまだ生きていたかもしれません」
「反対に、何もしなければ、苦しみながら死んでいたかもしれない。今となっては、どちらも確かめられません」
寿蒙は歩美を責めなかった。だが「あなたは何も悪くない」とも言わなかった。歩美は、その沈黙を前に言葉を失った。
寿蒙は地面に残った札の欠片を拾い、二本の指で挟んで、残った霊力を確かめる。穏やかだった目に、わずかな鋭さが宿った。
「この札を、誰かから教わったのですか」
「いいえ。明駆と契約してから、使い方は自然に分かりました」
寿蒙はしばらく黙り込んだ。その間の長さに、歩美は何かを感じ取った。
「住職さんは、この力を知っているんですか」
寿蒙はすぐには答えなかった。札の欠片を見つめたまま言う。
「かつて、よく似た力を使った者がいました」
「その人も……鬼を殺したんですか」
寿蒙の指が、一瞬だけ止まった。
「救おうとして、救えませんでした」
それ以上は語らなかった。短い返答の奥に、長い年月を経ても消えない何かが沈んでいる気がした。
寿蒙は札の欠片を歩美の掌へ戻す。
「富津さん。この札は、傷だけを治しているのではないかもしれません」
「傷だけじゃない……?」
「人間の傷が治るのは、身体を本来あるべき状態へ戻しているからかもしれません。鬼にとって、鬼の肉体は本来あるべき姿ではないのかもしれない。この札は鬼を傷つけたのではなく、内側に残っていた何かを、呼び戻そうとした可能性があります」
歩美は、黒い煙の中に浮かんだ、あの人間の手と顔を思い出した。
「私の回復札は……鬼を殺すための武器なんですか」
「今の段階で、そう決めつけるべきではありません」
寿蒙は続けた。
「あの札が恨卑を苦しめたのか。それとも、恨卑の中に残っていた誰かを救おうとしたのか。それを知らなければなりません」
「でも、結果は同じです。消えてしまった……」
寿蒙はその言葉を否定しなかった。ただ、結果から目を逸らさずに、力の正体を確かめる必要があると静かに伝えた。
札へ伸ばしかけた歩美の指が、途中で止まった。二度と使わなければ、同じ悲劇は起きない。だが札を捨てれば、これから救える命も救えなくなる。
「私は……もう、この札を使わない方がいいんでしょうか」
寿蒙は答えを押しつけず、代わりに問い返した。
「あなたは、もう誰も救いたくありませんか」
歩美はすぐには答えられなかった。しばらくして、小さく首を横に振る。
「救いたいです。でも、また殺してしまうのが怖い……」
「その恐れを忘れないでください」
寿蒙の声は、慰めではなかった。
「恐れを知らない救命者は、いつか自分の善意を疑わなくなります。ですが恐れるだけでは、目の前の命へ手を伸ばせなくなる。大切なのは、この力が何を治し、何を壊すのかを知ること。そして、救うという行為が、相手の望む道と同じなのかを、考え続けることです」
歩美は、恨卑が消えた地面を見つめた。
血も、灰も、もう何も残っていない。存在していたという証拠すら、どこにもなかった。
ただ、掌に握りしめた小さな札の欠片だけが、確かにそこにあった。
喉の奥に、苦いものが残ったまま消えなかった。手のひらの震えも、まだ収まらない。寿蒙の言葉を聞いても、恨卑は戻ってこない。
それでも歩美は、この命を忘れないと、声に出さずに誓った。
治すための光が、一つの命を消した。
それでも、その光が本当に命を奪ったのか、それとも命を元へ戻そうとした果てに肉体が耐えられなかったのか、歩美にはまだ分からない。
掌に残ったのは、答えではなかった。
救えなかった命と、これからも向き合い続けるための、小さな疑問だけだった。
第3話「救えなかった命」、ここまでお読みいただきありがとうございました。
歩美の回復札が見せた、想定外の作用。「治す」はずの力が「消す」結果を招いてしまう展開は、今後の物語全体を貫く重要な伏線になります。
池口寿蒙の「殺そうとしたのではなく、救おうとした」という言葉、そして「善意で行ったことだから、結果を見なくてよいわけでもない」という一言は、歩美だけでなく、この先登場する人物たちにも重くのしかかっていくテーマです。
次話「先頭打者を失った少年」では、視点が福江南高校野球部の不祥事の中心人物・権世毅へ移ります。第三の進路が、どのように人の心へ入り込んでいくのか。ぜひ引き続きお読みいただければと思います。
※本作の執筆にはAIを活用しています。プロット・設定・推敲確認等に使用し、最終的な文章の調整・確認は作者自身が行っています。
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