第2話 不戦勝
第2話をお届けします。
第1話ラストで、慎悟たちの日常を見つめる二つの視線が示されました。
今回は視点を富津歩美へ移し、清王学園高校野球部に起きた「不戦勝」という結果と、その裏にある不祥事を描きます。
そして終盤、歩美は誰も知らない鬼の世界の一端を目撃することになります。
弱肉強食は、人間の社会だけの話ではありません。
どうぞ最後までお付き合いください。
七月九日、蒸し暑い午後だった。
清王学園高校の野球部部室には、まだ練習前の熱気だけがこもっている。富津歩美は窓を開け、うちわで空気をかき出すように何度か仰いだ。
風は生ぬるく、涼しさはほとんど届かない。それでも、何もしないよりはましだった。
「エアコン入れるね」
先輩マネージャーの二面悠が、迷いのない動きでリモコンを操作する。すぐに室温計へ目をやり、数字を確認してから小さく頷いた。
机の上には、部員の練習記録や体調管理表、対戦相手の資料が並んでいる。歩美はそれらを崩さないよう避けながら、冷蔵庫へスポーツドリンクを補充していく。
タオルの枚数、氷嚢の状態、救急箱の中身。ひとつひとつ確認するたび、今日も暑くなるという実感が肌にまとわりついた。
悠はボールの数を数え、バットのグリップを一本ずつ握って状態を確かめ、テーピング用品の残量を見て小さくメモを取る。無駄のない手つきだった。
歩美は、この積み重ねが選手の身体と試合そのものを支えていることを知っていた。
「今日はずいぶん早いですね」
歩美が言うと、悠は組み合わせ表から目を離さずに答えた。
「変更がある時ほど、準備は早く終わらせたほうがいいから」
その言い方に、歩美はふと手を止めた。まるで、これから起こることをすでに知っているような口ぶりだった。
けれど悠は、それ以上何も言おうとしない。歩美も、あえて聞き返すことはしなかった。日常の中に、小さな棘が一本だけ刺さっているような感覚だけが残った。
やがて部員たちが次々と部室へ入ってくる。夏の地区予選を控え、部室には期待と落ち着かない空気が入り混じっていく。
一回戦の相手は、県立福江南高校野球部。優勝候補と呼ばれるほどの強豪ではない。だが、嫌な相手だった。
足を絡めた攻撃、送りバントと盗塁を織り交ぜた戦い方、簡単には崩れない堅い守備。点差が開いても最後まで粘る。投手の球威で押すのではなく、配球と守備で試合をこじ開けてくるタイプだ。
「あそこの一番、足速いんだよな」
「バント警戒しすぎると、逆に振ってくるし」
部員たちが軽口を交わしながら、対戦相手の特徴を確認し合っている。歩美と悠も、これまで整理してきた資料を見せながら、投手の癖や打順の傾向を補足していく。
いつもと変わらない、試合前の日常だった。この準備のすべてが、少し後には意味を失うことになるとは、まだ誰も知らない。
グラウンドの方から掛け声とスパイクの音が聞こえ始めた頃、扉が開いて顧問の城昌孝が入ってきた。
いつもなら大きな声で挨拶をする顧問が、この日は何も言わなかった。帽子を脱ぎ、部員たちの前に立つ。
騒がしかった部室が、城の表情によって少しずつ静まっていった。
腕は組まない。両手を腰へ置いたまま、城は集まった部員全員の顔を、一人ずつ確かめるように見回した。
「練習の前に、話しておくことがある」
低く、重い声だった。
部員たちの間に沈黙が落ちる。誰かの怪我だろうか。会場の変更だろうか。日程が動いたのだろうか。それぞれが、それぞれの予想を巡らせる。
城は一度、深く息を吸った。
「我々の一回戦は、不戦勝になった」
一瞬、誰も言葉の意味を理解できなかった。部室が完全な沈黙に包まれる。
「不戦勝......?」
部員の一人が、恐る恐る聞き返した。
城は淡々と説明を始める。対戦相手である県立福江南高校が、大会出場を辞退したのだと。
理由は、野球部内で行われていた後輩へのいじめだった。
練習後の雑用を一方的に押しつける。逆らえば複数人で取り囲む。逃げづらい空気を作り、失敗を仲間内で笑いものにする。
被害を受けた部員の一人が家族と学校へ相談し、内部調査が始まったのだという。
調査が進む中で、別の問題も明らかになった。野球部員が小型犬を乱暴に扱い、その様子を動画に撮って投稿していたのだ。
怯える犬を笑いながら持ち上げる映像は、削除された後もすでに拡散していた。動物虐待ではないかという批判が殺到し、学校名や部員の名前が特定され始めているという。
中心となった部員の一人は、自主退学届を提出した。別の部員にも、停学や退部だけでは済まない処分が検討されている。
学校側は、大会へ出場できる状態にはないと判断し、辞退を決めた。
歩美は手にしていたタオルを、無意識に机へ置いていた。誰かが小さく息を呑む音がする。悠のペンが、資料の上でぴたりと止まっていた。
冷房の作動音だけが妙にはっきりと聞こえ、グラウンドから届く掛け声が、急に遠くなったように感じられる。
説明が終わると、部室に沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、部員の一人だった。
「でも、こっちは一試合分休めるってことですよね」
別の部員が続く。
「暑い中で試合しなくて済みますし」
「投手、温存できますね」
「次に集中できるなら、運がよかったんじゃ」
そんな声が、ぽつぽつと上がっていく。歩美は、彼らを冷たい人間だとは思わなかった。負ければそれで終わる夏の大会で、戦わずに勝ち進めることを喜ぶのは、ごく自然な感情でもある。
怪我を避けられる。体力を残せる。投手を温存できる。記録の上では、確かに勝利だ。
部員たちは、そうして自分たちを納得させようとしていた。
城は怒鳴らなかった。ただ、静かな目で部員たちを一人ずつ見渡す。
「記録上は勝ちだ」
一度、そう認めた。
「だが」
続く言葉を待つ間、部室の空気がまた張り詰めた。
「胸を張って喜べる勝ちかどうかは、自分で考えろ」
笑いかけていた部員たちの表情が消えていく。
城は、福江南高校の部員たちが処分を受けるのは自分たち自身の行為に対する責任だと語った。いじめも、動物虐待も、伝統や指導、悪ふざけという言葉で済ませていいものではない。
苦しめられた後輩がいる。怯えた動物がいる。
「野球ができなくなったことを、被害者のせいにするな」
城の声が、一段低くなった。
「自分たちで壊したんだ」
厳しい言葉だった。だが城は、処分を受けた少年たちの人生そのものが終わったとは言わなかった。
「責任を取ることと、人生が終わることは違う」
一拍置いて、続ける。
「逃げずに向き合うなら、やり直す道はある」
その言葉には、どこか実感がこもっていた。歩美は、以前かすかに聞いたことがある。城が若い頃、厳しすぎる指導で部員を退部へ追い込んでしまったことがあると。城自身、過ちの後にも道を残しておく必要を、身をもって知っているのかもしれなかった。
城の言葉が終わると、部室は再び静まり返った。
悠が、手元の資料をそっと閉じる。そして、静かな声で言った。
「不戦勝は記録上の勝ちです」
少し間を置く。
「でも、相手校で何かが壊れたことまで、私たちの得点にはできません」
その台詞の後、誰も余計な言葉を重ねなかった。歩美は隣に立つ悠の横顔を見つめる。
自分も、同じように考えている。悪いことをした者は、責任を取らなければならない。被害を受けた後輩の苦しみを無視して、加害者だけを可哀想だとは言えない。動物を乱暴に扱った行為も、軽い冗談で済ませていいはずがない。
けれど、歩美の中には別の疑問も生まれていた。
責任を取らせることと、見捨てることは同じなのか。助けることと、無条件に許すことは同じなのか。
加害者が傷ついているからといって、責任は消えない。しかし加害者だからといって、その先にある未来のすべてまで奪っていいわけでもない。
その境界線が、どこにあるのか。歩美にはまだ、答えが見えなかった。
歩美の想像は、自然と処分を受ける少年たちの姿へ向かっていく。
学校を失った少年。野球を失った少年。仲間や家族から責められた少年。インターネットで名前を晒され、居場所を失った少年。自分の行為を認められず、周囲の全員を敵だと思い始めた少年。
そういう若者へ、静かに近づく少女を、歩美は知っていた。
金津美里。
進学でもない、就職でもない道を示す、鬼の首領。
第三の進路。
それは、人間としてやり直す道ではない。鬼となり、社会そのものを攻撃する道だ。
美里は、失敗した者へ反省を促さない。傷ついた者へ助けを求める方法も教えない。ただ、相手が最も欲しがっている言葉だけを差し出す。
「あなたは悪くない」
「社会が間違っている」
「今度は、あなたが選ぶ側になればいい」
想像の中の声は、優しく、静かで、反論する力を奪うように歩美の耳の奥へ響いた。
歩美はこれまで戦ってきた鬼たちのことを思い出す。学校で居場所を失った者。家族から理解されなかった者。自分の失敗を、社会のせいにしてしまった者。
彼らの事情も、責任の重さも、それぞれまったく違うはずだった。それなのに美里は、その違いを整理しようとしない。被害者も加害者も、すべてをひとまとめに「社会から選ばれなかった者」として扱う。
苦しみの理由を見ないまま、すべてを社会への憎悪へ変換していく。
だからこそ第三の進路は、救済ではない。選び直す可能性を奪い、怒りから逃れられない鬼へと固定するための、支配の仕組みだ。
福江南高校の不祥事は、美里にとって格好の狩り場になり得る。歩美はそう直感した。
もしかしたら、すでに美里か、その配下の誰かが、処分を受けた部員たちへ接触しているかもしれない。
地区予選の不戦勝は、清王学園にとって確かな勝利だ。だが同時に、どこかで新しい鬼が生まれる入口になっているかもしれなかった。
城はミーティングの最後に、もう一度部員たちを見渡した。
「一回戦を勝ったつもりになるな」
その声に、先ほどまでの重さとは違う、鍛錬を促す響きが戻っていた。
「俺たちは、まだ一球も投げていない。一度もバットを振っていない。次の試合で、野球をする資格があるところを見せろ」
部員たちは神妙な顔で頷いた。先ほど不戦勝を喜んでいた者たちも、視線を少し伏せていた。
城が練習開始を告げ、部員たちが次々とグラウンドへ向かっていく。
悠が、練習記録用のボードを歩美へ差し出した。しかし歩美は、すぐには受け取れなかった。
「何か気になるの?」
悠が静かに尋ねる。
歩美は、慎悟たちへこの件を知らせておきたいと答えた。鬼のことや第三の進路のことは、口にできない。
「福江南高校の件で、少し確認したいことがあって」
それだけを伝える。
悠は問い詰めなかった。
「話せるようになったら話して」
そう言って、歩美の分の仕事をあっさりと引き受ける。
「十五分だけ。戻らなかったら、城先生には私から説明する」
淡々とした言い方だったが、歩美にはその配慮がちゃんと伝わっていた。
歩美は礼を言い、慎悟たちのいる一年一組の教室へ向かって部室棟を出た。
◇
外へ出た瞬間、強い日差しが目を刺す。グラウンドから、部員たちの掛け声と金属バットの音が聞こえてくる。何事もなかったかのように、清王学園の日常は続いていた。
けれど歩美の足取りは、いつもより重かった。
渡り廊下を歩いている途中、視界の端を小さな影が横切った。
最初は一匹。猫や野鳥にしては、地面を這うような姿勢が低すぎる。歩美は思わず足を止めた。
植え込みの葉が揺れる。続いて三匹。さらに五匹。影は次第に増え、最後には十匹ほどになっていた。
歩美は周囲を確かめる。一般生徒の姿はない。変身することも一瞬考えたが、影たちは人間を襲おうとしている様子を見せなかった。
歩美は変身せず、物陰から物陰へと身を移しながら、影の後を追った。中庭の植え込みへ近づくにつれ、鼻を刺すような腐った臭いが漂ってくる。葉の一部が黒く変色し、土にはぬめりのある小さな足跡が点々と残っていた。
その正体に、歩美は気づく。
恨卑。コンプソグナトゥス型の小鬼だ。全長六十センチから八十センチほど。毒を持つ針のような歯と、腐食性の霊気を持つ雑兵。通常は十匹前後の群れで行動し、弱った相手や孤立した相手を狙う。
植え込みの奥から、甲高く耳障りな鳴き声が響いた。
「ギィ......ギギッ......」
歩美は息を潜め、枝葉の隙間からそっと中を覗き込む。
そこにいたのは、十匹の恨卑だった。だが、人間や動物を囲んでいるわけではなかった。
九匹の恨卑が、残る一匹を取り囲んでいる。
囲まれた一匹は、他より明らかに身体が小さかった。片脚を引きずり、暗緑色の体表には古い傷と新しい傷が入り混じっている。
弱った一匹が逃げようとする。だが一匹が前へ回り込み、頭を地面へ押し倒した。別の一匹が尾へ噛みつく。二匹が背中へ飛び乗り、爪で引っかく。
周囲を囲む恨卑たちは、甲高い鳴き声を上げながら逃げ道を塞いでいた。
一匹が攻撃をやめると、すぐに次の一匹が交代する。
数で囲む。逃げ場を塞ぐ。抵抗できない相手だけを狙う。周囲は興奮して見ているだけで、誰も止めない。
弱った恨卑が反撃しようと口を開いた瞬間、横から頭を蹴られ、倒れる。倒れるたびに、周囲がまた鳴き声を上げた。
歩美は、先ほど聞いたばかりの福江南高校野球部のいじめと、目の前の光景を重ねずにいられなかった。
姿は違っても、群れの中で弱い一人を選び、全員で排除していく構造は、まったく同じだった。
歩美の頭に、鬼の世界にも序列があるという考えがよぎる。強い鬼は幹部へ選ばれる。弱い鬼は雑兵として使われる。そしてその雑兵の中でも、さらに弱い個体が排除されていく。
第三の進路を選べば、社会の選別から自由になれる。金津美里は、そう語っていたはずだった。
しかし現実には、人間社会から逃げて鬼になっても、別の選別が待っている。選ばれなかった者の集まりを名乗りながら、鬼の世界でも弱い者は選ばれない。
その矛盾を、歩美は理屈ではなく、目の前の暴力として理解した。
九匹の恨卑は、最後に傷ついた一匹を植え込みの奥へ蹴り飛ばした。小さな身体が石にぶつかり、鈍い音を立てる。九匹は満足したような鳴き声を上げると、校舎裏の方へ消えていった。
九匹が去った後、植え込みには静けさだけが残った。
取り残された一匹だけが、地面の上で弱々しく震えている。
歩美はすぐには物陰から出られなかった。
相手は鬼だ。人間を襲い、毒を与える敵。仲間を呼び、倒すべき存在。放っておけばいい。敵を助ける必要なんてない。
そう自分へ言い聞かせようとする。
けれど歩美の目には、目の前で震えている恨卑が、ただ傷つけられた小さな命にしか見えなかった。
野球部マネージャーとして、傷ついた選手へ何度も駆け寄ってきた。明駆の契約者として、倒れた仲間を何度も救ってきた。傷ついている誰かを見た瞬間、身体が先に動いてしまう。それが歩美の優しさであり、同時に弱さでもあった。
腰に下げた小型のポーチには、回復用の札が入っている。人間の傷を癒やし、仲間の命をつないできた札だった。
傷ついた恨卑が、かすかに顔を上げる。濁った黄緑色の目が、まっすぐに歩美を捉えた。
恨卑は威嚇するように口を開こうとする。しかし声すら出せず、そのまま力尽きたように地面へ倒れ込んだ。
歩美の中で、答えの出ない問いがいくつも渦を巻く。
敵だから助けないのか。助ければ、また人間を襲うようになるかもしれない。仲間を呼んで、始末すべきなのか。それとも、今、目の前で消えかけている命だけを見るべきなのか。
答えは出ない。
それでも歩美の手は、無意識のうちにポーチへ伸びていた。指先が、回復札の端に触れる。
「敵でも......傷ついているなら......」
その呟きが、静かな中庭の熱気に溶けて消えていく。
歩美の指は、まだ震えたまま、札から離れなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
不戦勝という「記録上の勝利」の裏にあったのは、後輩へのいじめと動物虐待という、野球部内で静かに壊れていた何かでした。
顧問・城の言葉にもあるように、責任を取ることと人生が終わることは違います。
けれど、処分を受けた少年たちの心の隙間に、金津美里が忍び寄る危険は現実のものです。
そして歩美が目撃した、恨卑の群れによる同族排除の光景。
鬼の世界にも「選ばれない者」が存在するという事実は、「第三の進路」が語る"自由"の欺瞞を静かに裏付けています。
傷ついた一匹の恨卑を前に、歩美の指は札から離れませんでした。
敵を助けることは、正しいのか。
次話「救えなかった命」では、歩美が下したその選択の結末が描かれます。
治すはずの札が、何をもたらすのか。
どうぞ次話もお楽しみに。




