表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
癒やしの札と第三の進路  作者: 孔雀丸


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/5

第1話 十五歳の誕生日

十彩獣団、第五章「癒やしの札と第三の進路」がスタートします。


第四章のラストで大きな傷を負った慎悟。今回は、彼が「守る側」から「守られる側」になったことで見えてくる焦りや葛藤を中心に、物語がゆっくりと動き出します。


穏やかな誕生日会の裏側で、静かに近づいてくる異変にもご注目ください。


それでは、第五章第1話「十五歳の誕生日」、どうぞお楽しみください。


(本作の執筆にはAIを活用しています)

 七月八日、夕方五時を過ぎた福江(ふくえ)駅構内は、夏休みを目前にした空気で満ちていた。

 制服のまま塾へ向かう中学生。

 仕事帰りのスーツ姿の会社員たちが、疲れた顔で改札を抜けていく。

 買い物袋を提げた家族連れが、閉店間際の土産物店を覗き込んでいる。

 構内の一角にあるハンバーガー店「マクドネル」は、いつも通りの喧騒だった。

 揚げたてのポテトの匂い。氷とコーラが混ざる音。

 注文を告げる店員の声。トレーが木製のテーブルに置かれる、乾いた音。

 窓の外には、まだ明るさを残した夏の空が広がっている。

 日没にはまだ早く、雲の縁だけがわずかに橙色を帯びていた。

 日中の熱気は去っていないのに、店内は冷房が効きすぎるほど涼しい。

 レジの列には、部活帰りらしい高校生たちが並んでいる。

 誰もが夏休みという言葉を、まだどこか遠い予定のように、けれど確かに近づいてきているものとして口にしていた。

 改札の向こうを見上げれば、発車標には夕方五時台の在来線と、隣県へ向かう特急の時刻が並んで表示されている。

 ホームからは、電車が滑り込む短いアナウンスが繰り返し流れていた。

 その涼しさの中、店の奥にある六人掛けのテーブルを、五人の少年少女が囲んでいた。

 北潟慎悟(きたがたしんご)北潟友紀(きたがたゆき)坪江南海(つぼえみなみ)牛山智徳(うしやまとものり)清滝聖矢(きよたきせいや)

 壁際に貼られたポスターには、期間限定のフローズンドリンクの案内が躍っている。

 子供連れの母親が、迷った末に一番小さいサイズを選んでいた。

 そんな何気ない光景の一つ一つが、今日という日の平穏さを裏付けているようだった。

 今日の主役は、十五歳になった智徳だった。

 普段の智徳は、大柄な体を持て余すように隅の席へ座ろうとする。

 だが今日は違った。友紀と聖矢の両側から腕を引かれ、半ば強引に中央近くの席へ押し込まれている。

「智徳、そっちじゃない。真ん中」

 友紀がトレーを置きながら顎で指す。

「いや、俺、端でいいですって」

「駄目。今日の主役なんだから、真ん中に座る決まりです」

 聖矢が当然のように言い切った。

 智徳は仕方なく席を移る。

 大きな体を縮めるようにして座ると、テーブルの向かいで南海が笑った。

「智徳くん、そんな緊張しなくていいのに」

「緊張してるわけじゃ......いや、してます」

 正直に言い直した智徳に、テーブル全体から小さな笑いが起きる。

 慎悟もその輪の中で笑いながら、椅子に腰を下ろした。

 その瞬間、ほんの一瞬だけ、動きが止まる。

 右手が無意識に椅子の背もたれを探り、腰を下ろす角度を慎重に選んだ。

 傍から見れば、ただ座り方に気をつけただけに映る。実際、誰もそれ以上気にとめなかった。

 慎悟自身も、何でもないという顔で会話に加わる。

 誰も口には出さないが、五人ともそれを分かっていた。

 ほんの少し前まで、雨の中で刃を交わし、悲鳴と怒号の記憶を抱えたまま過ごしていた日々があった。

 そのことを忘れたわけではない。

 ただ今だけは、揚げたてのポテトの匂いと、友人の軽口だけで満たされた時間を、素直に受け取っていたかった。

 先月の戦いを終えてから、初めて訪れた五人だけの、ただの日常だった。

 ◇

 智徳の前には、ハンバーガーとポテト、飲み物のほかに、小さな誕生日ケーキが置かれていた。

 南海が用意したものだった。

 牛乳をたっぷり使った白いクリームの上に、チョコレートで作られた小さな牛の飾りが載っている。

 智徳はその飾りを見て、一瞬だけ目を丸くした。

「牛......」

「牛山君って言うし、やっぱり牛かなって」

 南海が悪びれもせずに笑う。

「南海、ちょっとは他の候補も考えてよ」

 友紀が呆れたように口を挟むが、その口元も笑っている。

「一番しっくりきたんだもん。仕方ないでしょ」

「友紀と一緒に選んだんだからね」

 友紀が得意げに胸を張った。

「お店に何種類か動物のケーキがあって、犬とか猫とか色々あったんだけど、南海が絶対これって」

「だって、牛山君の牛だよ。運命じゃない?」

「運命って何すか、それ」

 智徳が呆れたように呟くが、口元は緩んでいる。

「俺、十五歳にもなって牛のケーキかよ......」

 言葉とは裏腹に、耳が赤くなっているのを本人だけが気づいていない。

 首の後ろを掻きながら、目を伏せる。

 智徳は昔から、注目されることが得意ではなかった。

 褒められると居心地悪そうにするし、祝われると、どこか申し訳なさそうな顔をする。

 だが、それは祝われることを嫌っているわけではなかった。

 幼い頃、智徳は病弱だった。

 小さな体で何度も入退院を繰り返した。

 病室の窓から、外で駆け回る同い年の子供たちを見ていた記憶が、今も体のどこかに残っている。

 消毒液の匂い。点滴の管。十五歳まで生きられることを、当たり前だとは思えなかった感覚。

 そして今、目の前には百七十八センチの体がある。

 テニス部で鍛えられた肩幅。牧場の手伝いで培われた腰の強さ。

 小さかった手が、今はこの体を動かしている。

 その事実は、誰かに説明されるものではなく、智徳自身の中に静かに積み重なっているものだった。

 十五本の蝋燭という数字にも、智徳にとっては特別な重みがある。

 かつて主治医から、成人まで生きられるかどうかは分からないと、遠回しに告げられたことがあった。

 当時はまだ幼く、その言葉の意味を正しく理解してはいなかった。

 だが記憶の底には、はっきりと残っている。

 今、目の前にあるケーキの牛の飾りが、あの頃の自分には想像もできなかった、ただの平凡な十五歳の景色だった。

「智徳、早く食べなよ。ポテト冷めるよ」

 友紀の声に、智徳は我に返る。

「あ、はい」

 短く答えて、ハンバーガーへ手を伸ばした。

 ◇

 聖矢がポテトを一本つまみながら、「今日、期末テストの結果返ってきたんですよね」と切り出した。

 智徳の表情がわずかに強張る。

「今それ言う?」

「言うタイミング、今しかないじゃないですか」

 友紀が興味津々といった様子で身を乗り出す。

 話題はそのまま、蝋燭を立てる前のひとときへとつながっていった。

 食事が進んだ頃、南海が紙袋から細い蝋燭の束を取り出した。

「はい、これ立てるよ」

「え、まさかそれ全部立てるんですか」

 智徳が本数を見て困惑する。

「十五歳なんだから、十五本に決まってるじゃないですか」

 聖矢が真顔で答えた。

「いや、それ誰が決めたんだよ」

「常識です」

 友紀が店員から借りたライターで火をつけようとするが、冷房の風に阻まれて何度も消えてしまう。

「もう、風強いんだけど」

「俺が手で遮ります」

 慎悟が身を乗り出し、片手で風を防ぐように構える。

「あたしはケーキ押さえとくね」

 南海がケーキの皿をしっかり両手で支える。

 聖矢は無駄に真剣な顔をして、火のついたライターと蝋燭の先を交互に見つめている。

「今です、友紀先輩」

「分かってるって」

 四人がかりで、たった十五本の蝋燭に火をつけようとしている。

 傍から見れば滑稽なほど本気の光景だった。

 智徳は照れくさそうに目を伏せながら、それでも視線の端で四人の様子を追っていた。

 ようやく十五本すべてに火が灯る。

 小さな炎が、智徳の穏やかな垂れ目の中で揺れていた。

 友紀が小声で誕生日の歌を歌い始める。南海と聖矢がすぐに続く。

 慎悟も口を開こうとした。

 だが、声を出そうと息を吸い込んだ瞬間、脇腹の筋肉がわずかに動く。

 傷の奥で、鋭い痛みが一筋走った。

 慎悟は一瞬だけ、息を止める。

 それでも、何事もなかったかのように歌を続けた。

 友紀の声は少し調子外れで、南海の声はそれを包み込むように優しく、聖矢の声は妙に元気がよすぎた。

 三人の歌声が揃っているようで揃っていない。

 それでも誰も気にせず、店内の喧騒に紛れながら最後まで歌いきった。

 短い歌が終わると、智徳は一息で蝋燭を吹き消した。

「十五歳になった感想は?」

 慎悟が尋ねる。

 智徳は少し考えて、

「昨日とあんまり変わらないですね」

 と答えた。

「十五歳らしい、立派なコメントですね」

 聖矢が茶化すと、テーブルに笑い声が広がる。

 先月以来、久しぶりに訪れた、何でもない時間だった。

 ◇

 ケーキを取り分けながら、話題は期末テストへ移った。

「智徳、英語はどうだった?」

 友紀が尋ねると、智徳は露骨に顔をしかめた。

「誕生日に聞く質問じゃないですよ、友紀先輩」

「赤点だったら、夏休みは補習だぞ」

 慎悟が軽い調子で重ねる。

「赤点じゃないです。ただ、平均よりちょっと下なだけで」

「ちょっとってどれくらいですか。具体的な点数言ってくださいよ」

 聖矢が食い下がる。

 智徳が低い声で「清滝」と名前を呼ぶと、聖矢はすぐに肩をすくめて口を閉じた。

 実のところ聖矢は、智徳の点数を正確に覚えている。

 だが今日は言わないでおくことにしたらしい。

 一方、聖矢自身は社会の点数を得意げに話し始めた。

「俺、社会は自信あります。年号だけじゃなくて、先生が授業中に言ってた余談まで全部答案に書いたんで」

「書きすぎて、時間足りなくならなかったか」

 慎悟が尋ねると、聖矢は一瞬黙り、

「......最後の問題だけ、途中でした」

 と正直に答えた。

「覚えてても、全部書こうとするな」

 智徳が静かに注意する。

「はい、先輩」

 聖矢は素直に頷いた。

 そのやり取りを見ながら、慎悟は小さく目を細める。

 かつて、こうして智徳を落ち着かせていたのは自分だった。

 中学時代、試合前に浮き足立つ智徳の背中を軽く叩き、深呼吸させたのは慎悟の役目だった。

 今、その同じ役割を、智徳が聖矢の前で自然に担っている。

「智徳、いつの間にか先輩らしくなったな」

 慎悟がそう言うと、智徳は照れくさそうに首の後ろを掻いた。

「慎悟先輩の真似してるだけです」

 自分がいなくても、後輩たちは前へ進んでいる。

 喜ぶべきことのはずなのに、慎悟は胸の奥に小さな凪を感じていた。誰にも気づかれない、静かな置き去りの感触だった。

 ◇

 南海が夏休みの予定を尋ねる。

 友紀はテニス部の練習と、十彩獣団としての訓練で、まとまった休みはあまりないと答えた。

「それでも、五人で映画観に行こうよ」

「洋画のやつ? アクション系の新作あったよね」

 南海が同意する。慎悟も頷いた。

「俺は鉄道イベントの方がいいです」

 聖矢が主張する。

 福江駅から少し離れた場所で開催される鉄道イベントらしい。

「それ、みんなで行く必要ある?」

 友紀が尋ねる。

「みんなで行った方が、路線図の良さを伝えられます」

 聖矢は大真面目な顔で答えた。誰も反論できなかった。

「え、映画観てから鉄道イベント行くってことですか。一日で両方は無理でしょ」

 友紀が眉をひそめる。

「別日にすればいいだけです」

 聖矢は当然のように答えた。

「予定、詰め込みすぎじゃない?」

「せっかくの夏休みなんですから、詰め込むくらいでちょうどいいです」

「じゃあ両方行けばいいじゃん」

 南海の一言で話がまとまる。

 智徳は夏休みに、親戚の牧場を手伝う予定だと話した。

 早朝の餌やり、牛舎の掃除。

「牧場、俺も行きたいです」

 聖矢が目を輝かせる。

「遊びに来るなら、掃除も手伝えよ」

「即答で了解します」

「牛乳搾りとか、やらせてもらえるの?」

 南海が身を乗り出して尋ねる。

「搾乳は無理だけど、牛舎の掃除と餌やりならいつでも」

「それだけで十分楽しそう」

 友紀も興味を示し、話は自然と盛り上がっていく。

 慎悟もその輪に加わろうとして、

「体調が戻れば、俺も行きたいな」

 と口にした。

 その一言で、テーブルの空気がほんの少しだけ止まる。

 ◇

 慎悟は、自分が余計な言葉を口にしたと遅れて気づいた。

 福江東中学校での戦い。

 五天王(ごてんのう)筆頭・悪路漢(あくろかん)の日本刀「松影(まつかげ)」に、慎悟は脇腹を斬られている。

 傷口は塞がり始めているものの、完治には至っていない。

 皮膚の奥には、鈍い熱と痛みがまだ残っていた。

 姿勢を変えるだけで、内側から肉を引き裂かれるような感覚が走る。

 医師からは、激しい運動を避けるよう言われている。

 慎悟は仲間に心配をかけたくなかった。

 同時に、自分が「戦えない人間」になったことを、まだどこかで認められずにいる。

 守ると決めた相手から目を逸らさない。それが慎悟の生き方だった。

 だが今の自分は、守るどころか、真っ先に守られる側に回っている。

 その事実を、口にすることさえ、喉の奥に小さな石を飲み込むような重さがあった。

 空気を変えようと、慎悟は鞄から包みを取り出した。

「智徳、これ。誕生日プレゼント」

 差し出したのは、茶色い新しいリストバンドだった。

 かつて慎悟と智徳がダブルスを組んでいた頃、智徳が使っていたものによく似たデザインをしている。

「聖矢との試合で使え。俺との思い出に飾っておくんじゃなくてな」

 智徳は黙って受け取った。

 手のひらの中で、リストバンドの厚みを確かめるように何度か指を動かす。

 かつて慎悟と組んでいた頃、智徳はいつもこの手首の感触を頼りにコートへ立っていた。

 あの感覚が、今また新しい形で戻ってくる。

 慎悟のことを尊敬している。だが、過去の相棒へ依存するつもりはない。

「ありがとうございます。今度の大会で使います」

 真っすぐな声で、智徳はそう答えた。

 慎悟が笑おうとした、その瞬間だった。

 脇腹の奥で、焼けた針を刺されたような痛みが弾ける。

 息が止まりかけ、顔が強張った。

 右手が無意識に脇腹へ伸びる。

 慎悟は唇を噛み、声を押し殺した。

「......っ」

 わずかに漏れた息だけが、痛みの存在を告げていた。

 ◇

 友紀は、その変化を見逃さなかった。

 慎悟が笑う直前に一瞬息を止めたこと。右肩がわずかに下がったこと。脇腹をかばうように肘を寄せたこと。

 双子として十五年間を共に過ごしてきた友紀には、兄が痛みを隠す時の癖が、手に取るように分かる。

「兄ちゃん」

 低い声で呼びかけた。

 慎悟は反射的に平静を装う。

「何だよ」

「また痛んだでしょ」

「別に。座り方が悪かっただけだ」

「無理して笑わなくていいからね」

 友紀の声が、いつもより低く、硬くなる。

「誕生日会の空気、悪くしたくないだろ」

「空気を悪くしてるのは、兄ちゃんが痛がることじゃないから。黙って倒れようとすることだから」

 友紀自身も、「大丈夫」という言葉の裏で、喉の奥を強張らせて何かを飲み込むことがある。

 だからこそ、同じやり方で無理を押し通そうとする兄を、簡単には許せなかった。

 続いて、南海が慎悟の隣へそっと身を寄せた。

「慎悟くん。今日は智徳くんが主役なんだから、無理して格好つけなくていいの」

「格好つけてない」

「じゃあ、痛い時は痛いって言って」

 南海はテーブルの下で慎悟の右手をそっと握った。

 声を荒らげることは一度もない。それでも、逃げ道だけは確実に塞がれていく。

「治りかけが一番危ないって、病院でも言われたでしょう」

 南海の指先が、慎悟の手をそっと撫でる。

 責めるためではなく、確かめるための仕草だった。

「分かってる」

「分かってる人は、そんな座り方しないよ」

 友紀は一度、言葉を切った。

 それから、少しだけ声を落とす。

「兄ちゃんが我慢強いのは知ってる。ずっと見てきたから。でもさ、我慢強いのと、無理して隠すのは違うでしょ」

 慎悟は答えられなかった。

 友紀の言葉は鋭く、まっすぐだった。

 南海の言葉は柔らかく、静かで、それでいて絶対に引かない強さを持っていた。

 聖矢が心配そうに尋ねる。

「慎悟先輩、本当に大丈夫ですか」

「大丈夫」

 反射的に答えかけて、慎悟は言葉を止めた。

 友紀と南海、二人の視線が自分に向いていることに気づいたからだ。

 いつもなら、それで話を終わらせられた。

 だが今日ばかりは、二人とも引く気配がない。

 友紀は腕を組んだまま動かず、南海は握った手をわずかに強く握り直した。

 数秒の沈黙のあと、

「......少し、痛む」

 と、ようやく認めた。

 その短い一言を口にすることが、慎悟にとっては、敵に斬りかかるよりもずっと難しいことだった。

 ◇

 智徳の脳裏に、雨の中の光景が蘇る。

 松影の刃。血に濡れながら、自分たちを逃がすために前へ出た慎悟の背中。

 智徳と聖矢は、慎悟が二人を守った結果として負傷したことに、今も責任を感じている。

「慎悟先輩」

 智徳が静かに呼びかけた。

 普段の穏やかな目に、真剣な色が浮かぶ。

「無理すんな。倒れたら終わりだって、俺たちには言ってたじゃないですか」

「後輩に説教されるようになったか」

 慎悟が苦笑する。だが智徳は笑わなかった。

「説教じゃないです。心配してるんです」

 聖矢も続く。

「俺、あの時のこと、全部覚えてます」

 雨の音。悪路漢の足運び。刃が光った角度。

 慎悟が倒れた位置。友紀たちの叫び声。血の色。

 聖矢の記憶力は、便利な能力であると同時に、忘れたくても忘れられない苦痛でもあった。

「慎悟先輩がまた無理したら、俺たちは今度も同じものを見ることになります」

 普段は冗談ばかりの聖矢が、この時だけは何も茶化さなかった。

 智徳も続けて言う。

「俺と聖矢が守られてばっかりだったから、今度は俺たちが守る番だって思ってました。だから先輩が、また隠れて無理するのは......ずるいです」

「ずるいって、お前」

 慎悟が思わず苦笑すると、智徳は真剣な顔のまま首を振った。

「本当にずるいですよ。俺たちにだけ心配させないでください」

 慎悟はその言葉を受け止めながら、初めて気づく。

 自分が痛みを隠す行為は、仲間を安心させているのではなく、むしろ苦しめているのだと。

 ◇

 四人が、それぞれのやり方で慎悟を支え始めた。

 友紀が飲み物のカップを慎悟の手元へそっと寄せる。

 南海が椅子の位置を直し、背中への負担を減らす。

 智徳が床に置かれていた慎悟の荷物を自分の足元へ移す。

「帰りは俺が持ちます」

 聖矢は駅まで迎えを呼ぶべきか、真剣な顔で考え込んでいる。

 誰も大げさに介抱しようとはしない。

 声を張り上げることもなければ、慎悟を腫れ物のように扱うこともない。

 ただ、小さな行動を静かに積み重ねていく。

 それが、四人なりの気遣いの形だった。

 慎悟はこれまで、常に前へ出る側だった。

 妹を守る。恋人を守る。後輩を守る。仲間の盾になる。

 今、その手が返されようとしている。

 それは敗北でも屈辱でもない。頭では分かっている。それでも感情は簡単には納得しない。

 自分が動けずにいる間にも、鬼は人を襲う。

 悪路漢は生きている。金津美里(かなづみり)も、五天王も、覇竜十傑(はりゅうじゅっけつ)も、次の動きを始めているかもしれない。

 仲間を信じていないわけではない。

 それでも、前線にいない自分に何ができるのか、その問いだけが胸の底に重く沈んでいた。

 蒼牙と契約した日、慎悟が選んだのは力ではなく「退かない覚悟」だった。

 だが今、自分にできるのは退くことだけだ。その矛盾が、静かに胸を締め付けている。

 慎悟は静かに飲み物へ口をつけ、その仕草だけで胸の内を覆い隠した。

 その時、傷の奥で小さな熱が脈打った。

 単なる刀傷の治りかけとは、どこか違う熱だった。

 慎悟はそれを、まだ完治していない痛みの一部だとしか思っていない。

 ◇

 五人のテーブルから少し離れた壁際の席に、黒い服を着た少女が座っていた。

 腰近くまで伸びた、青みがかった黒髪。淡い灰色の瞳。

 帽子を目深にかぶり、人間の姿のまま、冷たい飲み物を前に一人でいる。

 少女の名は鎌谷菜摘(かまだになつみ)。恐竜の鬼・鱗華(りんか)となった、五天王の一人だった。

 菜摘が見つめているのは、慎悟ではない。

 誕生日を祝われている智徳だった。

 大きな体を小さく縮め、照れながらケーキを食べる少年。

 友紀にからかわれ、南海に気遣われ、聖矢と笑い合い、慎悟から贈り物を受け取った少年。

 照れながら牛の飾りを見つめる智徳の横顔は、菜摘にとって見慣れない種類の表情だった。

 恥ずかしがりながらも、その場から逃げようとはしない。

 祝われることに慣れていないのに、拒みもしない。

 菜摘の目には、智徳が自分の幸福に気づいていないように映る。

 菜摘にも、誕生日はあった。双子の姉と同じ、八月八日。

 二人分のはずのケーキなのに、話題はいつも姉の水泳大会の成績だった。

 欲しいものを尋ねられても、先に通るのは姉の希望だった。

 親戚からは、姉の名前で呼び間違えられたことすらある。

 学校では「水泳部の鎌谷の双子の妹」としか紹介されなかった。

 ――姉が差し出した手を、自分から振り払った日のことも。

 菜摘は目の前のテーブルへ視線を戻す。

 友紀が智徳の頭を軽く小突き、南海が笑いながらそれを止める。ただそれだけの、何でもないやり取り。

 だが菜摘の胸の奥では、その光景一つ一つが刃のように刺さっていく。

 自分にも、こんな時間があり得たのだろうか。姉の手を振り払わなければ、自分にも。

 その記憶は、菜摘の中で長い間封じられている。

 認めてしまえば、自分が家族を手にかけた理由も、鬼になった理由も、根底から崩れてしまうから。

 だから菜摘は、目の前の幸福な光景を偽善だと決めつける。

 智徳へ湧き上がる感情を、嫉妬だと自分に言い聞かせる。

 慎悟を気遣う友紀と南海の姿には、喉の奥が締まるような硬さを覚えた。

 兄妹が互いを守り合う様は、菜摘が最も見たくないものだった。

「選ばれた人間は、自分が何を持っているかにも気づかない」

 菜摘は小さく呟いた。

 声は誰にも届かない大きさで、それでいて、自分自身にははっきりと聞こえていた。

 グラスの水滴へ指先を触れさせる。

 漏れ出した鬼気に反応し、水滴が一瞬だけ、細い刃の形へと伸びた。

 菜摘はすぐにその力を収める。

 今、この場で襲うつもりはない。

 ――幸福というものが、どれほど簡単に壊れてしまうものか。ただ、それを確かめたいだけだと、自分に言い聞かせながら。

 ◇

 さらに別の席で、五十代前半の僧侶が、静かにコーヒーを口に運んでいた。

 きれいに剃り上げた坊主頭。端正な顔立ちには、実年齢より若さが残る。

 白い襟付きシャツに黒いスラックス、その上に薄い灰色の羽織を重ねている。

 左手首には黒檀の数珠。

 実年齢は五十一歳。だが背筋は真っすぐ伸び、初対面では四十歳前後に見られることも多い。

 右肩から背中にかけて、かつて恐竜の鬼と戦った際に負った古い爪痕が残っているが、本人はそれを隠そうとも、積極的に語ろうともしなかった。

 名は池口寿蒙(いけぐちじゅもう)寿満寺(じゅまんじ)の住職であり、かつて人知れず恐竜の鬼と戦った経験を持つ僧侶だった。

 寿蒙は、菜摘の存在にすでに気づいている。

 人間の姿を保っていても、鱗華の冷たい鬼気は完全には隠しきれていない。

 だが今は、あえて刺激しない。

 寿蒙が注視しているのは、慎悟だった。

 笑うたびに呼吸を止めること。脇腹をかばっていること。

 そして――傷の位置から、黒く濁った鬼気がわずかに漏れ出していること。

 慎悟の傷は、ただの日本刀による負傷ではない。

 悪路漢の鬼気が松影を通じ、肉体の奥深くまで入り込んでいる。

 傷が塞がろうとしても、残留した鬼気がその治癒を内側から妨げているのだ。

 放っておけば、慎悟の霊力や、蒼牙との契約そのものへ影響が及びかねない。

 寿蒙の数珠の一粒が、かすかに熱を帯びた。

 脳裏に、十五年前の記憶が過ぎる。

 恐竜の鬼から、赤ん坊だった北潟友紀を救い出した日。

 腕の中で泣き続けていた小さな命。

 その傍らで、姉の無事だけを必死に確かめようとしていた、幼い双子の兄の顔。

 あの赤ん坊と少年が、今は戦士として並んでいる。

 寿蒙にとっては感慨深いはずのその事実が、今は不安の種にしかならなかった。

 慎悟の傷はまだ浅い段階だ。今なら、まだ間に合う。

 だが放置すれば、鬼気は必ず深く根を張る。

 寿蒙はまだ、北潟兄妹へ過去を明かしていない。

 だが、もう見守るだけでは済まされないと、静かに悟っていた。

「人間の身体へ、鬼の刃が深く食い込んでいる」

 小さな呟きは、店内の雑音にすぐ紛れて消えた。

 ◇

 窓の外の空は、いつの間にか橙色を濃くしていた。

 店内の照明が、それと呼応するように暖かみを増していく。

 やがて、智徳が最後のケーキを食べ終える。

 友紀がスマートフォンを取り出した。

「せっかくだし、五人で写真撮ろうよ」

「え、恥ずかしいですって」

 智徳が慌てる。

「十五歳は一回しかないんですよ、いいから撮りましょう」

 聖矢が押し切る。南海が近くの店員に撮影を頼んだ。

 慎悟を中央へ座らせようとする流れになったが、慎悟はそれを断った。

「今日の主役は智徳だろ」

 智徳を中央へ、右に聖矢、左に慎悟、その後ろに友紀と南海が並ぶ。

 撮影の直前、智徳は慎悟の傷を気遣ってか、わずかに距離を取ろうとした。

 慎悟はその気遣いに気づき、自分から智徳の肩へ軽く腕を回す。

 傷に鈍い痛みが走った。慎悟の表情がわずかに歪む。

 今回は、その痛みを完全には隠さなかった。

「一枚だけだからね」

 友紀が念を押す。

「撮ったら、すぐ座り直そう」

 南海も付け加える。

 店員がシャッターを切った。

 画面の中で、五人全員が笑っている。

 智徳にとっては、十五歳の始まりを刻んだ一枚。

 慎悟にとっては、守るべきだと思い込んでいた者たちから、自分もまた守られているのだと知った一枚だった。

 だが、その光景を見つめる視線は、店の中に二つ存在していた。

 一つは、幸福を憎み、いつかそれを壊そうとしている鱗華・鎌谷菜摘。

 もう一つは、慎悟の身体に残る異質な鬼気を見抜き、彼を救う方法を静かに探ろうとしている池口寿蒙。

 菜摘はやがて席を立ち、五人へ背を向けて店を出て行った。

 振り返ることは、最後まで一度もなかった。

 寿蒙は数珠へそっと指を添えたまま、慎悟たちが店を出るのを、動かずに待ち続けている。

 焦る必要はない。だが、油断できる猶予も、もう長くはないと感じていた。

 寿満寺へ戻れば、まず調べなければならないことがある。

 松影に宿っていた鬼気の性質と、それが人の身体に食い込んだ場合の進行速度。

 過去の記録の中に、手がかりが残されているはずだった。

 誕生日会の明るさ。写真に残った五人の笑顔。

 去っていく破壊者の背中。動かずに待つ救済者の視線。

 そして、慎悟の傷の奥で、まだ静かに脈打っている異質な熱――。

 窓の外では、夏の夕空が、少しずつ色を失いかけていた。

 五人はやがて席を立ち、トレーを片付け、笑い声とともに店を出ていく。

 誰もまだ、その背中を見つめる二つの視線には気づいていない。

 賑わう駅の喧騒の底で、まだ誰にも気づかれないまま、次の戦いは、すでに動き始めていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第四章を乗り越えた慎悟たちの、ほんの束の間の日常回でした。傷を抱えながらも笑おうとする慎悟と、それを見逃さない友紀・南海。この何気ないやり取りが、これから先の展開でより重い意味を持ってきます。


そして、離れた席から二人の人物がこの光景を見つめていました。一人は鬱屈を抱えた少女。もう一人は、慎悟の傷に何かを感じ取った僧侶。


次話「不戦勝」では、富津歩美の視点に移ります。彼女が直面する福江南高校野球部の不祥事、そしてその裏で蠢く鬼たちの姿が描かれます。


引き続き、お付き合いいただければ幸いです。


お好みに応じて、絵文字や区切り線の有無、文体の硬さなど調整できます。必要であれば言ってください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ