第1話 十五歳の誕生日
十彩獣団、第五章「癒やしの札と第三の進路」がスタートします。
第四章のラストで大きな傷を負った慎悟。今回は、彼が「守る側」から「守られる側」になったことで見えてくる焦りや葛藤を中心に、物語がゆっくりと動き出します。
穏やかな誕生日会の裏側で、静かに近づいてくる異変にもご注目ください。
それでは、第五章第1話「十五歳の誕生日」、どうぞお楽しみください。
(本作の執筆にはAIを活用しています)
七月八日、夕方五時を過ぎた福江駅構内は、夏休みを目前にした空気で満ちていた。
制服のまま塾へ向かう中学生。
仕事帰りのスーツ姿の会社員たちが、疲れた顔で改札を抜けていく。
買い物袋を提げた家族連れが、閉店間際の土産物店を覗き込んでいる。
構内の一角にあるハンバーガー店「マクドネル」は、いつも通りの喧騒だった。
揚げたてのポテトの匂い。氷とコーラが混ざる音。
注文を告げる店員の声。トレーが木製のテーブルに置かれる、乾いた音。
窓の外には、まだ明るさを残した夏の空が広がっている。
日没にはまだ早く、雲の縁だけがわずかに橙色を帯びていた。
日中の熱気は去っていないのに、店内は冷房が効きすぎるほど涼しい。
レジの列には、部活帰りらしい高校生たちが並んでいる。
誰もが夏休みという言葉を、まだどこか遠い予定のように、けれど確かに近づいてきているものとして口にしていた。
改札の向こうを見上げれば、発車標には夕方五時台の在来線と、隣県へ向かう特急の時刻が並んで表示されている。
ホームからは、電車が滑り込む短いアナウンスが繰り返し流れていた。
その涼しさの中、店の奥にある六人掛けのテーブルを、五人の少年少女が囲んでいた。
北潟慎悟。北潟友紀。坪江南海。牛山智徳。清滝聖矢。
壁際に貼られたポスターには、期間限定のフローズンドリンクの案内が躍っている。
子供連れの母親が、迷った末に一番小さいサイズを選んでいた。
そんな何気ない光景の一つ一つが、今日という日の平穏さを裏付けているようだった。
今日の主役は、十五歳になった智徳だった。
普段の智徳は、大柄な体を持て余すように隅の席へ座ろうとする。
だが今日は違った。友紀と聖矢の両側から腕を引かれ、半ば強引に中央近くの席へ押し込まれている。
「智徳、そっちじゃない。真ん中」
友紀がトレーを置きながら顎で指す。
「いや、俺、端でいいですって」
「駄目。今日の主役なんだから、真ん中に座る決まりです」
聖矢が当然のように言い切った。
智徳は仕方なく席を移る。
大きな体を縮めるようにして座ると、テーブルの向かいで南海が笑った。
「智徳くん、そんな緊張しなくていいのに」
「緊張してるわけじゃ......いや、してます」
正直に言い直した智徳に、テーブル全体から小さな笑いが起きる。
慎悟もその輪の中で笑いながら、椅子に腰を下ろした。
その瞬間、ほんの一瞬だけ、動きが止まる。
右手が無意識に椅子の背もたれを探り、腰を下ろす角度を慎重に選んだ。
傍から見れば、ただ座り方に気をつけただけに映る。実際、誰もそれ以上気にとめなかった。
慎悟自身も、何でもないという顔で会話に加わる。
誰も口には出さないが、五人ともそれを分かっていた。
ほんの少し前まで、雨の中で刃を交わし、悲鳴と怒号の記憶を抱えたまま過ごしていた日々があった。
そのことを忘れたわけではない。
ただ今だけは、揚げたてのポテトの匂いと、友人の軽口だけで満たされた時間を、素直に受け取っていたかった。
先月の戦いを終えてから、初めて訪れた五人だけの、ただの日常だった。
◇
智徳の前には、ハンバーガーとポテト、飲み物のほかに、小さな誕生日ケーキが置かれていた。
南海が用意したものだった。
牛乳をたっぷり使った白いクリームの上に、チョコレートで作られた小さな牛の飾りが載っている。
智徳はその飾りを見て、一瞬だけ目を丸くした。
「牛......」
「牛山君って言うし、やっぱり牛かなって」
南海が悪びれもせずに笑う。
「南海、ちょっとは他の候補も考えてよ」
友紀が呆れたように口を挟むが、その口元も笑っている。
「一番しっくりきたんだもん。仕方ないでしょ」
「友紀と一緒に選んだんだからね」
友紀が得意げに胸を張った。
「お店に何種類か動物のケーキがあって、犬とか猫とか色々あったんだけど、南海が絶対これって」
「だって、牛山君の牛だよ。運命じゃない?」
「運命って何すか、それ」
智徳が呆れたように呟くが、口元は緩んでいる。
「俺、十五歳にもなって牛のケーキかよ......」
言葉とは裏腹に、耳が赤くなっているのを本人だけが気づいていない。
首の後ろを掻きながら、目を伏せる。
智徳は昔から、注目されることが得意ではなかった。
褒められると居心地悪そうにするし、祝われると、どこか申し訳なさそうな顔をする。
だが、それは祝われることを嫌っているわけではなかった。
幼い頃、智徳は病弱だった。
小さな体で何度も入退院を繰り返した。
病室の窓から、外で駆け回る同い年の子供たちを見ていた記憶が、今も体のどこかに残っている。
消毒液の匂い。点滴の管。十五歳まで生きられることを、当たり前だとは思えなかった感覚。
そして今、目の前には百七十八センチの体がある。
テニス部で鍛えられた肩幅。牧場の手伝いで培われた腰の強さ。
小さかった手が、今はこの体を動かしている。
その事実は、誰かに説明されるものではなく、智徳自身の中に静かに積み重なっているものだった。
十五本の蝋燭という数字にも、智徳にとっては特別な重みがある。
かつて主治医から、成人まで生きられるかどうかは分からないと、遠回しに告げられたことがあった。
当時はまだ幼く、その言葉の意味を正しく理解してはいなかった。
だが記憶の底には、はっきりと残っている。
今、目の前にあるケーキの牛の飾りが、あの頃の自分には想像もできなかった、ただの平凡な十五歳の景色だった。
「智徳、早く食べなよ。ポテト冷めるよ」
友紀の声に、智徳は我に返る。
「あ、はい」
短く答えて、ハンバーガーへ手を伸ばした。
◇
聖矢がポテトを一本つまみながら、「今日、期末テストの結果返ってきたんですよね」と切り出した。
智徳の表情がわずかに強張る。
「今それ言う?」
「言うタイミング、今しかないじゃないですか」
友紀が興味津々といった様子で身を乗り出す。
話題はそのまま、蝋燭を立てる前のひとときへとつながっていった。
食事が進んだ頃、南海が紙袋から細い蝋燭の束を取り出した。
「はい、これ立てるよ」
「え、まさかそれ全部立てるんですか」
智徳が本数を見て困惑する。
「十五歳なんだから、十五本に決まってるじゃないですか」
聖矢が真顔で答えた。
「いや、それ誰が決めたんだよ」
「常識です」
友紀が店員から借りたライターで火をつけようとするが、冷房の風に阻まれて何度も消えてしまう。
「もう、風強いんだけど」
「俺が手で遮ります」
慎悟が身を乗り出し、片手で風を防ぐように構える。
「あたしはケーキ押さえとくね」
南海がケーキの皿をしっかり両手で支える。
聖矢は無駄に真剣な顔をして、火のついたライターと蝋燭の先を交互に見つめている。
「今です、友紀先輩」
「分かってるって」
四人がかりで、たった十五本の蝋燭に火をつけようとしている。
傍から見れば滑稽なほど本気の光景だった。
智徳は照れくさそうに目を伏せながら、それでも視線の端で四人の様子を追っていた。
ようやく十五本すべてに火が灯る。
小さな炎が、智徳の穏やかな垂れ目の中で揺れていた。
友紀が小声で誕生日の歌を歌い始める。南海と聖矢がすぐに続く。
慎悟も口を開こうとした。
だが、声を出そうと息を吸い込んだ瞬間、脇腹の筋肉がわずかに動く。
傷の奥で、鋭い痛みが一筋走った。
慎悟は一瞬だけ、息を止める。
それでも、何事もなかったかのように歌を続けた。
友紀の声は少し調子外れで、南海の声はそれを包み込むように優しく、聖矢の声は妙に元気がよすぎた。
三人の歌声が揃っているようで揃っていない。
それでも誰も気にせず、店内の喧騒に紛れながら最後まで歌いきった。
短い歌が終わると、智徳は一息で蝋燭を吹き消した。
「十五歳になった感想は?」
慎悟が尋ねる。
智徳は少し考えて、
「昨日とあんまり変わらないですね」
と答えた。
「十五歳らしい、立派なコメントですね」
聖矢が茶化すと、テーブルに笑い声が広がる。
先月以来、久しぶりに訪れた、何でもない時間だった。
◇
ケーキを取り分けながら、話題は期末テストへ移った。
「智徳、英語はどうだった?」
友紀が尋ねると、智徳は露骨に顔をしかめた。
「誕生日に聞く質問じゃないですよ、友紀先輩」
「赤点だったら、夏休みは補習だぞ」
慎悟が軽い調子で重ねる。
「赤点じゃないです。ただ、平均よりちょっと下なだけで」
「ちょっとってどれくらいですか。具体的な点数言ってくださいよ」
聖矢が食い下がる。
智徳が低い声で「清滝」と名前を呼ぶと、聖矢はすぐに肩をすくめて口を閉じた。
実のところ聖矢は、智徳の点数を正確に覚えている。
だが今日は言わないでおくことにしたらしい。
一方、聖矢自身は社会の点数を得意げに話し始めた。
「俺、社会は自信あります。年号だけじゃなくて、先生が授業中に言ってた余談まで全部答案に書いたんで」
「書きすぎて、時間足りなくならなかったか」
慎悟が尋ねると、聖矢は一瞬黙り、
「......最後の問題だけ、途中でした」
と正直に答えた。
「覚えてても、全部書こうとするな」
智徳が静かに注意する。
「はい、先輩」
聖矢は素直に頷いた。
そのやり取りを見ながら、慎悟は小さく目を細める。
かつて、こうして智徳を落ち着かせていたのは自分だった。
中学時代、試合前に浮き足立つ智徳の背中を軽く叩き、深呼吸させたのは慎悟の役目だった。
今、その同じ役割を、智徳が聖矢の前で自然に担っている。
「智徳、いつの間にか先輩らしくなったな」
慎悟がそう言うと、智徳は照れくさそうに首の後ろを掻いた。
「慎悟先輩の真似してるだけです」
自分がいなくても、後輩たちは前へ進んでいる。
喜ぶべきことのはずなのに、慎悟は胸の奥に小さな凪を感じていた。誰にも気づかれない、静かな置き去りの感触だった。
◇
南海が夏休みの予定を尋ねる。
友紀はテニス部の練習と、十彩獣団としての訓練で、まとまった休みはあまりないと答えた。
「それでも、五人で映画観に行こうよ」
「洋画のやつ? アクション系の新作あったよね」
南海が同意する。慎悟も頷いた。
「俺は鉄道イベントの方がいいです」
聖矢が主張する。
福江駅から少し離れた場所で開催される鉄道イベントらしい。
「それ、みんなで行く必要ある?」
友紀が尋ねる。
「みんなで行った方が、路線図の良さを伝えられます」
聖矢は大真面目な顔で答えた。誰も反論できなかった。
「え、映画観てから鉄道イベント行くってことですか。一日で両方は無理でしょ」
友紀が眉をひそめる。
「別日にすればいいだけです」
聖矢は当然のように答えた。
「予定、詰め込みすぎじゃない?」
「せっかくの夏休みなんですから、詰め込むくらいでちょうどいいです」
「じゃあ両方行けばいいじゃん」
南海の一言で話がまとまる。
智徳は夏休みに、親戚の牧場を手伝う予定だと話した。
早朝の餌やり、牛舎の掃除。
「牧場、俺も行きたいです」
聖矢が目を輝かせる。
「遊びに来るなら、掃除も手伝えよ」
「即答で了解します」
「牛乳搾りとか、やらせてもらえるの?」
南海が身を乗り出して尋ねる。
「搾乳は無理だけど、牛舎の掃除と餌やりならいつでも」
「それだけで十分楽しそう」
友紀も興味を示し、話は自然と盛り上がっていく。
慎悟もその輪に加わろうとして、
「体調が戻れば、俺も行きたいな」
と口にした。
その一言で、テーブルの空気がほんの少しだけ止まる。
◇
慎悟は、自分が余計な言葉を口にしたと遅れて気づいた。
福江東中学校での戦い。
五天王筆頭・悪路漢の日本刀「松影」に、慎悟は脇腹を斬られている。
傷口は塞がり始めているものの、完治には至っていない。
皮膚の奥には、鈍い熱と痛みがまだ残っていた。
姿勢を変えるだけで、内側から肉を引き裂かれるような感覚が走る。
医師からは、激しい運動を避けるよう言われている。
慎悟は仲間に心配をかけたくなかった。
同時に、自分が「戦えない人間」になったことを、まだどこかで認められずにいる。
守ると決めた相手から目を逸らさない。それが慎悟の生き方だった。
だが今の自分は、守るどころか、真っ先に守られる側に回っている。
その事実を、口にすることさえ、喉の奥に小さな石を飲み込むような重さがあった。
空気を変えようと、慎悟は鞄から包みを取り出した。
「智徳、これ。誕生日プレゼント」
差し出したのは、茶色い新しいリストバンドだった。
かつて慎悟と智徳がダブルスを組んでいた頃、智徳が使っていたものによく似たデザインをしている。
「聖矢との試合で使え。俺との思い出に飾っておくんじゃなくてな」
智徳は黙って受け取った。
手のひらの中で、リストバンドの厚みを確かめるように何度か指を動かす。
かつて慎悟と組んでいた頃、智徳はいつもこの手首の感触を頼りにコートへ立っていた。
あの感覚が、今また新しい形で戻ってくる。
慎悟のことを尊敬している。だが、過去の相棒へ依存するつもりはない。
「ありがとうございます。今度の大会で使います」
真っすぐな声で、智徳はそう答えた。
慎悟が笑おうとした、その瞬間だった。
脇腹の奥で、焼けた針を刺されたような痛みが弾ける。
息が止まりかけ、顔が強張った。
右手が無意識に脇腹へ伸びる。
慎悟は唇を噛み、声を押し殺した。
「......っ」
わずかに漏れた息だけが、痛みの存在を告げていた。
◇
友紀は、その変化を見逃さなかった。
慎悟が笑う直前に一瞬息を止めたこと。右肩がわずかに下がったこと。脇腹をかばうように肘を寄せたこと。
双子として十五年間を共に過ごしてきた友紀には、兄が痛みを隠す時の癖が、手に取るように分かる。
「兄ちゃん」
低い声で呼びかけた。
慎悟は反射的に平静を装う。
「何だよ」
「また痛んだでしょ」
「別に。座り方が悪かっただけだ」
「無理して笑わなくていいからね」
友紀の声が、いつもより低く、硬くなる。
「誕生日会の空気、悪くしたくないだろ」
「空気を悪くしてるのは、兄ちゃんが痛がることじゃないから。黙って倒れようとすることだから」
友紀自身も、「大丈夫」という言葉の裏で、喉の奥を強張らせて何かを飲み込むことがある。
だからこそ、同じやり方で無理を押し通そうとする兄を、簡単には許せなかった。
続いて、南海が慎悟の隣へそっと身を寄せた。
「慎悟くん。今日は智徳くんが主役なんだから、無理して格好つけなくていいの」
「格好つけてない」
「じゃあ、痛い時は痛いって言って」
南海はテーブルの下で慎悟の右手をそっと握った。
声を荒らげることは一度もない。それでも、逃げ道だけは確実に塞がれていく。
「治りかけが一番危ないって、病院でも言われたでしょう」
南海の指先が、慎悟の手をそっと撫でる。
責めるためではなく、確かめるための仕草だった。
「分かってる」
「分かってる人は、そんな座り方しないよ」
友紀は一度、言葉を切った。
それから、少しだけ声を落とす。
「兄ちゃんが我慢強いのは知ってる。ずっと見てきたから。でもさ、我慢強いのと、無理して隠すのは違うでしょ」
慎悟は答えられなかった。
友紀の言葉は鋭く、まっすぐだった。
南海の言葉は柔らかく、静かで、それでいて絶対に引かない強さを持っていた。
聖矢が心配そうに尋ねる。
「慎悟先輩、本当に大丈夫ですか」
「大丈夫」
反射的に答えかけて、慎悟は言葉を止めた。
友紀と南海、二人の視線が自分に向いていることに気づいたからだ。
いつもなら、それで話を終わらせられた。
だが今日ばかりは、二人とも引く気配がない。
友紀は腕を組んだまま動かず、南海は握った手をわずかに強く握り直した。
数秒の沈黙のあと、
「......少し、痛む」
と、ようやく認めた。
その短い一言を口にすることが、慎悟にとっては、敵に斬りかかるよりもずっと難しいことだった。
◇
智徳の脳裏に、雨の中の光景が蘇る。
松影の刃。血に濡れながら、自分たちを逃がすために前へ出た慎悟の背中。
智徳と聖矢は、慎悟が二人を守った結果として負傷したことに、今も責任を感じている。
「慎悟先輩」
智徳が静かに呼びかけた。
普段の穏やかな目に、真剣な色が浮かぶ。
「無理すんな。倒れたら終わりだって、俺たちには言ってたじゃないですか」
「後輩に説教されるようになったか」
慎悟が苦笑する。だが智徳は笑わなかった。
「説教じゃないです。心配してるんです」
聖矢も続く。
「俺、あの時のこと、全部覚えてます」
雨の音。悪路漢の足運び。刃が光った角度。
慎悟が倒れた位置。友紀たちの叫び声。血の色。
聖矢の記憶力は、便利な能力であると同時に、忘れたくても忘れられない苦痛でもあった。
「慎悟先輩がまた無理したら、俺たちは今度も同じものを見ることになります」
普段は冗談ばかりの聖矢が、この時だけは何も茶化さなかった。
智徳も続けて言う。
「俺と聖矢が守られてばっかりだったから、今度は俺たちが守る番だって思ってました。だから先輩が、また隠れて無理するのは......ずるいです」
「ずるいって、お前」
慎悟が思わず苦笑すると、智徳は真剣な顔のまま首を振った。
「本当にずるいですよ。俺たちにだけ心配させないでください」
慎悟はその言葉を受け止めながら、初めて気づく。
自分が痛みを隠す行為は、仲間を安心させているのではなく、むしろ苦しめているのだと。
◇
四人が、それぞれのやり方で慎悟を支え始めた。
友紀が飲み物のカップを慎悟の手元へそっと寄せる。
南海が椅子の位置を直し、背中への負担を減らす。
智徳が床に置かれていた慎悟の荷物を自分の足元へ移す。
「帰りは俺が持ちます」
聖矢は駅まで迎えを呼ぶべきか、真剣な顔で考え込んでいる。
誰も大げさに介抱しようとはしない。
声を張り上げることもなければ、慎悟を腫れ物のように扱うこともない。
ただ、小さな行動を静かに積み重ねていく。
それが、四人なりの気遣いの形だった。
慎悟はこれまで、常に前へ出る側だった。
妹を守る。恋人を守る。後輩を守る。仲間の盾になる。
今、その手が返されようとしている。
それは敗北でも屈辱でもない。頭では分かっている。それでも感情は簡単には納得しない。
自分が動けずにいる間にも、鬼は人を襲う。
悪路漢は生きている。金津美里も、五天王も、覇竜十傑も、次の動きを始めているかもしれない。
仲間を信じていないわけではない。
それでも、前線にいない自分に何ができるのか、その問いだけが胸の底に重く沈んでいた。
蒼牙と契約した日、慎悟が選んだのは力ではなく「退かない覚悟」だった。
だが今、自分にできるのは退くことだけだ。その矛盾が、静かに胸を締め付けている。
慎悟は静かに飲み物へ口をつけ、その仕草だけで胸の内を覆い隠した。
その時、傷の奥で小さな熱が脈打った。
単なる刀傷の治りかけとは、どこか違う熱だった。
慎悟はそれを、まだ完治していない痛みの一部だとしか思っていない。
◇
五人のテーブルから少し離れた壁際の席に、黒い服を着た少女が座っていた。
腰近くまで伸びた、青みがかった黒髪。淡い灰色の瞳。
帽子を目深にかぶり、人間の姿のまま、冷たい飲み物を前に一人でいる。
少女の名は鎌谷菜摘。恐竜の鬼・鱗華となった、五天王の一人だった。
菜摘が見つめているのは、慎悟ではない。
誕生日を祝われている智徳だった。
大きな体を小さく縮め、照れながらケーキを食べる少年。
友紀にからかわれ、南海に気遣われ、聖矢と笑い合い、慎悟から贈り物を受け取った少年。
照れながら牛の飾りを見つめる智徳の横顔は、菜摘にとって見慣れない種類の表情だった。
恥ずかしがりながらも、その場から逃げようとはしない。
祝われることに慣れていないのに、拒みもしない。
菜摘の目には、智徳が自分の幸福に気づいていないように映る。
菜摘にも、誕生日はあった。双子の姉と同じ、八月八日。
二人分のはずのケーキなのに、話題はいつも姉の水泳大会の成績だった。
欲しいものを尋ねられても、先に通るのは姉の希望だった。
親戚からは、姉の名前で呼び間違えられたことすらある。
学校では「水泳部の鎌谷の双子の妹」としか紹介されなかった。
――姉が差し出した手を、自分から振り払った日のことも。
菜摘は目の前のテーブルへ視線を戻す。
友紀が智徳の頭を軽く小突き、南海が笑いながらそれを止める。ただそれだけの、何でもないやり取り。
だが菜摘の胸の奥では、その光景一つ一つが刃のように刺さっていく。
自分にも、こんな時間があり得たのだろうか。姉の手を振り払わなければ、自分にも。
その記憶は、菜摘の中で長い間封じられている。
認めてしまえば、自分が家族を手にかけた理由も、鬼になった理由も、根底から崩れてしまうから。
だから菜摘は、目の前の幸福な光景を偽善だと決めつける。
智徳へ湧き上がる感情を、嫉妬だと自分に言い聞かせる。
慎悟を気遣う友紀と南海の姿には、喉の奥が締まるような硬さを覚えた。
兄妹が互いを守り合う様は、菜摘が最も見たくないものだった。
「選ばれた人間は、自分が何を持っているかにも気づかない」
菜摘は小さく呟いた。
声は誰にも届かない大きさで、それでいて、自分自身にははっきりと聞こえていた。
グラスの水滴へ指先を触れさせる。
漏れ出した鬼気に反応し、水滴が一瞬だけ、細い刃の形へと伸びた。
菜摘はすぐにその力を収める。
今、この場で襲うつもりはない。
――幸福というものが、どれほど簡単に壊れてしまうものか。ただ、それを確かめたいだけだと、自分に言い聞かせながら。
◇
さらに別の席で、五十代前半の僧侶が、静かにコーヒーを口に運んでいた。
きれいに剃り上げた坊主頭。端正な顔立ちには、実年齢より若さが残る。
白い襟付きシャツに黒いスラックス、その上に薄い灰色の羽織を重ねている。
左手首には黒檀の数珠。
実年齢は五十一歳。だが背筋は真っすぐ伸び、初対面では四十歳前後に見られることも多い。
右肩から背中にかけて、かつて恐竜の鬼と戦った際に負った古い爪痕が残っているが、本人はそれを隠そうとも、積極的に語ろうともしなかった。
名は池口寿蒙。寿満寺の住職であり、かつて人知れず恐竜の鬼と戦った経験を持つ僧侶だった。
寿蒙は、菜摘の存在にすでに気づいている。
人間の姿を保っていても、鱗華の冷たい鬼気は完全には隠しきれていない。
だが今は、あえて刺激しない。
寿蒙が注視しているのは、慎悟だった。
笑うたびに呼吸を止めること。脇腹をかばっていること。
そして――傷の位置から、黒く濁った鬼気がわずかに漏れ出していること。
慎悟の傷は、ただの日本刀による負傷ではない。
悪路漢の鬼気が松影を通じ、肉体の奥深くまで入り込んでいる。
傷が塞がろうとしても、残留した鬼気がその治癒を内側から妨げているのだ。
放っておけば、慎悟の霊力や、蒼牙との契約そのものへ影響が及びかねない。
寿蒙の数珠の一粒が、かすかに熱を帯びた。
脳裏に、十五年前の記憶が過ぎる。
恐竜の鬼から、赤ん坊だった北潟友紀を救い出した日。
腕の中で泣き続けていた小さな命。
その傍らで、姉の無事だけを必死に確かめようとしていた、幼い双子の兄の顔。
あの赤ん坊と少年が、今は戦士として並んでいる。
寿蒙にとっては感慨深いはずのその事実が、今は不安の種にしかならなかった。
慎悟の傷はまだ浅い段階だ。今なら、まだ間に合う。
だが放置すれば、鬼気は必ず深く根を張る。
寿蒙はまだ、北潟兄妹へ過去を明かしていない。
だが、もう見守るだけでは済まされないと、静かに悟っていた。
「人間の身体へ、鬼の刃が深く食い込んでいる」
小さな呟きは、店内の雑音にすぐ紛れて消えた。
◇
窓の外の空は、いつの間にか橙色を濃くしていた。
店内の照明が、それと呼応するように暖かみを増していく。
やがて、智徳が最後のケーキを食べ終える。
友紀がスマートフォンを取り出した。
「せっかくだし、五人で写真撮ろうよ」
「え、恥ずかしいですって」
智徳が慌てる。
「十五歳は一回しかないんですよ、いいから撮りましょう」
聖矢が押し切る。南海が近くの店員に撮影を頼んだ。
慎悟を中央へ座らせようとする流れになったが、慎悟はそれを断った。
「今日の主役は智徳だろ」
智徳を中央へ、右に聖矢、左に慎悟、その後ろに友紀と南海が並ぶ。
撮影の直前、智徳は慎悟の傷を気遣ってか、わずかに距離を取ろうとした。
慎悟はその気遣いに気づき、自分から智徳の肩へ軽く腕を回す。
傷に鈍い痛みが走った。慎悟の表情がわずかに歪む。
今回は、その痛みを完全には隠さなかった。
「一枚だけだからね」
友紀が念を押す。
「撮ったら、すぐ座り直そう」
南海も付け加える。
店員がシャッターを切った。
画面の中で、五人全員が笑っている。
智徳にとっては、十五歳の始まりを刻んだ一枚。
慎悟にとっては、守るべきだと思い込んでいた者たちから、自分もまた守られているのだと知った一枚だった。
だが、その光景を見つめる視線は、店の中に二つ存在していた。
一つは、幸福を憎み、いつかそれを壊そうとしている鱗華・鎌谷菜摘。
もう一つは、慎悟の身体に残る異質な鬼気を見抜き、彼を救う方法を静かに探ろうとしている池口寿蒙。
菜摘はやがて席を立ち、五人へ背を向けて店を出て行った。
振り返ることは、最後まで一度もなかった。
寿蒙は数珠へそっと指を添えたまま、慎悟たちが店を出るのを、動かずに待ち続けている。
焦る必要はない。だが、油断できる猶予も、もう長くはないと感じていた。
寿満寺へ戻れば、まず調べなければならないことがある。
松影に宿っていた鬼気の性質と、それが人の身体に食い込んだ場合の進行速度。
過去の記録の中に、手がかりが残されているはずだった。
誕生日会の明るさ。写真に残った五人の笑顔。
去っていく破壊者の背中。動かずに待つ救済者の視線。
そして、慎悟の傷の奥で、まだ静かに脈打っている異質な熱――。
窓の外では、夏の夕空が、少しずつ色を失いかけていた。
五人はやがて席を立ち、トレーを片付け、笑い声とともに店を出ていく。
誰もまだ、その背中を見つめる二つの視線には気づいていない。
賑わう駅の喧騒の底で、まだ誰にも気づかれないまま、次の戦いは、すでに動き始めていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第四章を乗り越えた慎悟たちの、ほんの束の間の日常回でした。傷を抱えながらも笑おうとする慎悟と、それを見逃さない友紀・南海。この何気ないやり取りが、これから先の展開でより重い意味を持ってきます。
そして、離れた席から二人の人物がこの光景を見つめていました。一人は鬱屈を抱えた少女。もう一人は、慎悟の傷に何かを感じ取った僧侶。
次話「不戦勝」では、富津歩美の視点に移ります。彼女が直面する福江南高校野球部の不祥事、そしてその裏で蠢く鬼たちの姿が描かれます。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。
お好みに応じて、絵文字や区切り線の有無、文体の硬さなど調整できます。必要であれば言ってください。




