第5話 三人の鬼候補
福江市郊外、金津邸。
権世毅、馬場翔之助、浜坂由加里。
野球部の後輩いじめ、動物虐待、そしていじめの被害者。
責任も傷の種類もまったく違う三人が、金津美里の前に集められます。
「あなたたちは皆、社会から選ばれなかった」
その一言が、加害者と被害者の境界を溶かしていきます。
進学でも就職でもない、第三の進路。
三人が選ぶのか、選ばされるのか。
第5話、どうぞご覧ください。
福江市郊外。
古い瓦屋根の載った屋敷が、夏の光の中でひっそりと佇んでいた。
権世毅は、金津美里に導かれるまま門をくぐった。
門を一歩くぐっただけで、蝉の声が、薄い膜の向こうへ押しやられた。
長い廊下。
磨き込まれた柱。
閉じられたままの障子がいくつも並び、その奥に何があるのか分からない。
古い木材と畳、そしてどこかで焚かれているらしい線香に似た匂いが、鼻の奥にまとわりつく。
夏だというのに、廊下を進むほど肌の表面がひやりとした。
汗が引いていく感覚ではない。
もっと違う何かに、皮膚の外側から触られているような冷たさだった。
毅はその感覚を認めまいと、顎を上げた。
――ビビってどうする。
自分は選ばれてここへ来た。
そう思い込むことで、足の震えを押し殺した。
美里に通されたのは、広い和室だった。
奥に、美里が静かに腰を下ろす。
その斜め後ろに、黒髪の少年が音もなく立っていた。
少年は何も言わない。
視線だけが、毅の全身を一度なぞって離れる。
毅より年下に見える。
それなのに、殴りかかったところで自分が一方的に叩き伏せられる。
そんな確信が、根拠もなく胸の奥に落ちてきた。
――ここから先へ入ったら、たぶん、元の場所へは戻れない。
そう思った瞬間には、もう畳の上に立っていた。
和室には先客がいた。
毅と同じ年頃の少年と、それより幾つか年下に見える少女。
少年の顔を見た瞬間、毅は足を止めた。
「……馬場?」
畳の上へ胡坐をかいていた馬場翔之助が、気まずさなど微塵も見せずに口元を歪める。
「お前も呼ばれたのかよ。一番打者様」
その呼び方に、毅は眉をひそめた。
馬鹿にされている。
分かっているのに、言い返す言葉がすぐには出てこない。
三遊間を守っていた頃の記憶が、断片になって差し込んでくる。
強い打球へ躊躇なく飛びつく翔之助の背中。
その送球を受け止める自分の右手。
初球から迷いなく振り抜く自分に対して、相手投手の癖を見抜いてから動く翔之助。
同じチームにいた。
けれど、友達だったことは一度もない。
毅は翔之助の野球を、心のどこかでずっと「せこい」と思っていた。
正面からぶつからず、隙を突くやり方が気に入らなかった。
翔之助の方も、毅を「力任せの単細胞」と陰で呼んでいたことを、毅は知らない。
「てめえこそ」
毅は口元だけで笑ってみせた。
「犬の動画で有名人になったらしいな」
翔之助の顔から、笑みが消えた。
一瞬だけ、畳を睨むように視線が落ちる。
再会は、旧友との懐かしい挨拶にはならなかった。
互いの傷を、探り当てて殴り合うような会話が始まっていた。
翔之助が投稿した動画のことは、毅も噂で知っていた。
知人の飼っていたチワワの首根っこを、片手でつかみ上げた映像。
犬は宙で脚をばたつかせ、苦しそうな声を上げていた。
翔之助は笑いながら、それでも手を離さず撮影を続けていた。
動画はまたたく間に拡散した。
学校名が特定され、野球部員であることも割れた。
学校と野球部に抗議が殺到し、翔之助は退部処分を受け、最終的に学校を去ることになった。
一方で、翔之助の顔や名前だけでなく、家族の情報や住所らしきものまでネット上に晒された。
道を歩けば、知らない人間から指を差される。
そこまでされる理由が、翔之助のした行為に本当にあったのか。
行為への批判と、そこに群がった過剰な私刑は、本来別のものだ。
翔之助は、その境目を自分の盾にしていた。
「犬は、嫌がっていたのではないかしら」
美里が静かに尋ねる。
翔之助は即座に否定した。
「首をつかんだだけだ。落としてねえ。殺してもいねえ。あれくらいで死ぬわけねえだろ!」
言葉が早口になっていく。
「誰もやったことのない、新しい犬との接し方を試しただけだ。ネットの連中が、勝手に大げさに騒いだだけだろうが!」
自分がした行為そのものを、周囲の過剰な反応の中へ紛れ込ませ、なかったことにしようとする理屈だった。
毅はその言葉を聞きながら、どこかで自分と似ていると感じた。
自分も、騒ぎ立てた後輩や学校の方が悪いと思っている。
だが毅は、それを自己批判としては受け取らなかった。
――こいつも、運が悪かっただけだ。
そう都合よく納得して、話を終わらせた。
部屋の隅で、少女が小さく身体を縮めていた。
肩より少し長い黒髪を、左右の高い位置で結んでいる。
淡いピンク色の服の胸元に、使い古されたフェレットのぬいぐるみを抱えていた。
指先が、ぬいぐるみの耳を何度も撫でている。
毅と翔之助の荒い声に、少女の肩がびくりと震えた。
「大丈夫。由加里は、悪くない……」
声は小さく掠れていたが、それは壊れた繰り言ではなかった。指先でぬいぐるみの耳を撫でるたび、由加里は自分自身へ、そう言い聞かせていた。
毅と翔之助は、なぜこの少女が同じ部屋にいるのか分からず、顔を見合わせた。
由加里の過去は、誰かがまとめて説明してくれるわけではなかった。
震える声の合間に、断片だけがこぼれ落ちてくる。
教室で、隠された筆箱を探し回ったこと。
動物の鳴き声を出すよう命じられたこと。
泣いた顔を、スマートフォンで撮られたこと。
先生に話そうとしても、言葉がうまくまとまらず、黙り込んでしまったこと。
加害者たちが「一緒に遊んでいただけ」と笑っていたこと。
そして、大切にしていたフェレットのぬいぐるみを、水たまりへ投げ捨てられたこと。
泥と水を吸ったぬいぐるみを抱きしめ、声も出せずに立ち尽くしたこと。
「由加里が悪いから」
そう思い込んで、家を飛び出したこと。
毅は、由加里を一瞥した。
弱そうな女だ、とだけ思った。
翔之助は片眉を上げ、値踏みするように由加里を見た。
だが、途切れ途切れの言葉が積み重なっていくうちに、二人とも簡単な軽口を叩けなくなっていた。
美里が、三人をゆっくりと見渡した。
「あなたたちは皆、社会から選ばれなかった」
その一言は、毅にも翔之助にも、由加里にも、同じ重さで降りかかった。
「野球の才能があっても、学校から捨てられた者」
美里の視線が毅を捉える。
「誰にもない発想を持ちながら、世間から悪人にされた者」
視線が翔之助へ移る。
「生まれ持った違いを理由に、笑われ続けた者」
最後に、由加里へ。
三人の間にある違いに、美里は一切触れなかった。
毅は後輩を傷つけた側だった。
翔之助は動物を苦しめた側だった。
由加里は、ただ傷つけられ続けてきただけだった。
責任の重さも、必要な対応も、まったく違う三人が、「社会に傷つけられた者」という同じ言葉の中へ収められていく。
美里は責めない。
否定もしない。
だからこそ三人は、初めて自分を理解してくれる人間に出会ったように感じ始めていた。
「人間としてやり直す?」
美里の声が、静かに部屋を満たす。
学校へは戻れない。
頭を下げなければならない。
自分を切り捨てた者たちから、これからも値踏みされ続ける。
美里が語る「人間として生きる道」は、そうした屈辱だけで塗り固められていた。
謝罪する道も、責任を取ったうえで立て直す道も、支援を受ける道も、由加里の速度に合わせて学び直せる場所があることも、美里は一言も口にしなかった。
「それとも、鬼となって、あなたたちを傷つけた社会を攻撃する?」
問いは、最初から答えを一つしか用意していなかった。
毅が真っ先に反応した。
「俺は悪くねえ」
畳へ拳を突き立てる。
「後輩を少し強く指導しただけだ。野球部なら、上下関係があるのは当たり前だろうが!」
美里は声を荒らげず、ただ確認するように問いを重ねていく。
「倉庫で正座させたことも?」
「根性をつけさせるためだ」
「私物を隠したことも?」
「緊張感を持たせるためだ」
「逃げようとした後輩へ、わざとボールを投げたことも?」
毅の言葉が、一瞬だけ止まった。
投げたボールが背中に当たった鈍い音。
崩れ落ちた後輩の背中。
その周りで上がった笑い声。
短い記憶が、脳の裏側を掠めていく。
それでも毅は認めなかった。
「避けられねえ方が悪い」
拳に力がこもる。
「俺たちは、遊びで野球をやってたんじゃねえ!」
美里は微笑んだだけだった。
毅を反省させようとしているのではない。
どこまで責任を認めずにいられるか、その底を確かめている。
その小さな笑みの裏側に、烈王だけが静かに視線を落としていた。
翔之助が、抑えていたものを一気に吐き出した。
「俺の顔も名前も、学校も家族も、全部晒されたんだぞ!」
「動画を出したのは」
烈王が淡々と口を挟んだ。
「あなた自身でしょう」
翔之助が烈王を睨む。
「だからって、何を言ってもいいのかよ!」
知らない番号からの電話が鳴り止まなかったこと。
学校の前に、取材らしき人間が集まっていたこと。
家族まで責められたこと。
道を歩くだけで、指を差されるようになったこと。
何をしても「犬を虐待した奴」としか見られない恐怖。
「もう耐えられねえんだよ」
声が震える。
「どこへ行っても、指を差される。何をしても、犬を虐待した奴だって言われるんだ!」
美里の答えは短かった。
「ならば、言わせなければいい」
翔之助が顔を上げる。
「あなたを裁く社会そのものを、黙らせればいいのよ」
それは許しではなかった。
自分の行為と向き合うことから逃げるための、都合のいい出口だった。
翔之助の目に浮かんでいたものが、恐怖から、どこか期待に近いものへ変わっていく。
由加里が小さく嗚咽を漏らした。
言葉を途切れさせながら、それでも自分の中にあるものを絞り出す。
「由加里、頭が悪いから……。みんなと同じに、できないから。お話も勉強も遅いし、うまく言えない。だから、由加里が悪いんだって、ずっと思ってた。ぬいぐるみを捨てられたのも、由加里のせいなんだって」
声が震え、そこで言葉が途切れる。
けれど胸の奥には、誰にも打ち明けたことのない問いが、ずっとくすぶっていた。
――本当に、由加里が悪いの?
その問いに、由加里自身、まだ答えを持てずにいた。
毅も翔之助も、何も言えなくなっていた。
由加里の苦しみは、二人が語った自己正当化とは、明らかに種類が違っていた。
美里が立ち上がり、由加里の前へゆっくりと歩み寄る。
膝をつき、由加里と同じ目の高さまで身体を落とした。
涙で濡れた頬へ、そっと手を添える。
「あなたは頭が悪いのではないわ」
由加里の瞳が、初めて真っ直ぐ美里へ向いた。
「あなたを馬鹿にした人間たちが、醜いのよ」
由加里は、その意味をすぐには受け取れなかった。
時間をかけて、確かめるように尋ねる。
「由加里、悪くない……?」
「ええ。何も悪くない」
「頭、悪くない……?」
「あなたを理解できなかった人間たちの方が、愚かなの」
その言葉自体は、間違ってなどいなかった。
由加里に、いじめられた責任などない。
由加里は生まれて初めて、自分の存在を丸ごと肯定されたと感じていた。
新しい涙が、頬を伝う。
今度は、堰を切ったように止まらなかった。
けれど美里は、その傷を治そうとはしなかった。
安全な居場所も、支援も、学び直す時間も、由加里には示さなかった。
代わりに囁いたのは、復讐だけだった。
「あなたを笑った人間たちを、許す必要はない。あなたが泣いた分だけ、今度はあの人たちを泣かせればいい。由加里を捨てた世界を、由加里が選び直すのよ」
由加里の指先が、ぬいぐるみの耳を撫でる速度を変えた。
ゆっくりと、何かを握りしめるように。
烈王は、そのやり取りを黙って見ていた。
由加里を追いかけていた不良たちの姿。
しゃがみ込んで震えていた由加里。
間へ割って入り、少年たちを追い払った自分。
ぬいぐるみを抱えたまま、無言でついてきた由加里の足音。
あの時、間違ったことをしたとは思っていない。
だが、連れてきた先で、美里は由加里の傷を利用している。
塞ぐのではなく、開いたままの傷口へ、鬼気を流し込んでいる。
毅には、責任から逃れるための力を。
翔之助には、批判を黙らせるための力を。
由加里には、支援の代わりに復讐を。
三人は同じ道へ導かれようとしている。
だが、その傷も、必要だった救い方も、本来はまったく違うものだった。
烈王はそれを分かっている。
それでも、止める言葉は出てこなかった。
自分もかつて、同じ言葉によって鬼となり、人間だった頃の苦痛から解放されたと信じているからだ。
拳が、わずかに握られる。
由加里とは視線を合わせられない。
呼吸が一度だけ、乱れて戻った。
烈王は、静かに目を伏せた。
美里が由加里の頬から手を離し、部屋の中央へ戻る。
腰の脇差、国影へ手をかけた。
「進学でもない」
鞘が、わずかに開く。
「就職でもない」
刃に、部屋の灯りではない暗赤色の光が走る。
「あなたたちを捨てた社会へ、戻る必要もない」
毅は刃を見ても、退かなかった。
新しい力への期待に、口元が歪む。
翔之助は喉を小さく鳴らし、それから笑った。
「……面白そうじゃん」
由加里は、美里だけを見つめていた。
その目に浮かんでいたのは、疑いではなかった。物心ついてから、誰にも向けられたことのなかった優しさへの、ひたむきな信頼だった。
けれど、ぬいぐるみを抱く指先だけが、微かに震えていた。
美里が刃先を三人へ向け、優雅に微笑む。
「選ばれなかったあなたたちが、今度は選ぶ側になる」
その言葉は、自由を約束しているように響いた。
だがそれは、三人を美里の兵士へ作り替える、新しい選別の始まりに過ぎなかった。
「第三の進路へ、ようこそ」
国影の脇差から、炎のような暗赤色の鬼気が立ちのぼる。
畳を這い、天井へと広がり、和室そのものを塗り替えていく。
畳に伸びた三人の影が、ゆっくりと形を変え始める。
毅の影に、二本の角を持つ獣の輪郭が浮かぶ。
翔之助の影に、長大な爪を広げた影が重なる。
由加里の影に、額から一本の角が伸びていく。
まだ、三人の肉体は変わっていない。
けれど鬼気は、確実に三人へ近づいていた。
美里の背後で、烈王だけが静かに目を伏せていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
毅と翔之助は、自分の行為と向き合わず、被害者の立場へ逃げ込みました。
由加里だけは、最初から何も悪くありませんでした。
それでも美里は、三人をまとめて「傷ついた者」と呼び、同じ刃を向けます。
救いに見えた言葉の正体は、次話で牙を剥きます。
次回「選別される鬼」
三人は鬼として目覚めますが、そこに待っているのは平等な扱いではありません。
美里による、新たな選別です。
ブックマーク・評価をいただけると、次話を書く励みになります。
どうぞよろしくお願いいたします。




