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癒やしの札と第三の進路  作者: 孔雀丸


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第13話 鬼を癒やす光

前話「七つの戦線」では、慎悟不在の福江南高校で、友紀たち九人と七人の鬼による総力戦が始まりました。


友紀と鱗華、南海と麗刃、蓮と邪顎、翼と歩美が受け持つ冥顎、綾実と伊織が抑える悪路漢、健太と咬覇、翔一と牛竜。


七つの戦線がそれぞれの因縁を抱えたまま、同時に動き出しています。


今回はその続き、第13話「鬼を癒やす光」です。


冥顎の圧倒的な力に押し込まれる翼。


そして、恨卑を消滅させてしまった記憶に縛られ、動けずにいる歩美。


「治すための札」が「鬼を人間へ戻す力」だと判明したあの日から、歩美はずっと自分の力を恐れています。


それでも仲間を守るために、歩美は札を握りしめ、走り出さなければなりません。


七人の鬼に次々と札を貼っていく歩美と、それを支える九人の連携。


そして、人間だった頃の姿が一瞬だけ浮かび上がる鬼たちの姿を、どうかしっかり見届けてください。


戦闘描写と、痛みを伴う展開が続きます。


苦手な方はご注意のうえ、お進みいただければと思います。


それでは、第13話「鬼を癒やす光」、どうぞ最後までお楽しみください。

 七月の夕陽が、福江南(ふくえみなみ)高校の中庭を赤く染めていた。

 割れた窓ガラスの破片が、光を受けて無数の切れ端のように煌めいている。崩れた渡り廊下の外壁からは、白い粉塵が絶えず舞い落ちていた。

 倒れたロッカーの群れが、戦場の境界線のように転がっている。焦げたコンクリートの匂いと、鬼気特有の焼けた鉄のような臭いが混じり合い、夏の熱気の中に淀んでいた。

 地面には無数の溝が刻まれていた。武器が擦れた跡、踏み込んだ足の抉れ、大槌が落ちた衝撃の窪み。それらすべてが、この数十分間の戦いの記録だった。

 冥顎槌(めいがくつい)が振り下ろされるたび、地面が沈み、砕けたコンクリート片が散弾のように飛び散る。

「――くっ!」

 瓜生翼(うりゅうつばさ)翠輝剣(すいきけん)を斜めに構え、飛来する破片を弾きながら後退した。

 空気そのものが押し潰されるような衝撃波が肌を叩き、校舎の窓ガラスがびりびりと震える。壁の亀裂が、まるで生き物のように伸びていった。

 冥顎(めいがく)

 牛ノ谷聖(うしのやさとし)という人間だった少年の面影を、分厚い黒装甲の内側に閉じ込めた鬼。巨大な大槌を軽々と振り回すその重量級の力は、翼と歩美(あゆみ)の二人が正面から受け止められるものではなかった。

 翼はまともに受け止めようとはしなかった。力で劣ることは最初から理解している。だからこそ、冥顎そのものを止めるのではなく、冥顎が進める「場所」を制限することに徹していた。

 孔雀の羽を象った御札が、翼の指先から次々と展開される。正面には結界札。右側には視界を歪める札。左側だけを、わずかに空けておく。

 冥顎は自分の意思で左へ回り込んでいるつもりだった。だが実際には、翼によって進路そのものを選ばされていた。

「力で止める必要はない。進む場所を、こちらで決めればいい」

 翼はそう呟きながら、冥顎の性格まで計算に入れていた。

 自分の力に絶対の自信を持ち、小細工など力で押し潰せると考える冥顎は、結界を避けようとせず、最短距離で翼を潰しにかかる。その思考の癖こそが、翼の描いた盤面の一部だった。

 足元に貼った発光札が一瞬強く光る。冥顎の視線が反射的に下へ引かれた。大槌を振り上げた体勢では視界が狭まる。翼はその刹那を逃さず懐へ潜り込み、翠輝剣を低く振り抜いた。

 刃は黒い装甲鱗を深くは切れない。火花が散り、翼の腕に痺れが走る。それでも、鱗と鱗のわずかな隙間――左脛の柔らかい部分に、細い傷を刻むことに成功した。

 黒い鬼気を帯びた血が、脚を伝って地面へ滴り落ちる。

「歩美さん、今なら札を貼れる!」

 翼が背後へ叫んだ。

 だが、歩美は動けなかった。

 手の中には黄色い回復札がある。指先はそれを強く握っているのに、足が地面へ縫いつけられたように動かない。

 冥顎の血が地面へ落ちる、ぽたり、という小さな音。

 それが、歩美の記憶の底に眠っていた別の音と重なった。

 ――恨卑(こんぴ)の身体から血が落ちた音。

 黄色い札の紙の感触が、あの日の指先へ戻ってくる。恨卑の身体が痙攣した時の振動。剥がそうとしても皮膚へ吸いついたように離れなかった感覚。

 鼻を刺した、焼けた霊気の臭い。喉が裂けるような絶叫。助けを求めていたのか、苦痛を訴えていたのかすら分からなかったあの声。

 そして最後に、身体が灰となり、歩美の手の間からこぼれ落ちていった感触。夏の風に、灰が舞った光景だけが残った。

 治せると思った。助けられると思った。

 なのに、自分の札で一つの命を消してしまった。

「また……消えてしまったら……」

 歩美の唇から、小さな声が漏れる。

 足元に、黄色い光をまとったノウサギの霊護獣(れいごじゅう)明駆(めいく)が現れた。

 明駆は歩美へ、使えとも使うなとも命じない。鳴き声一つ上げず、ただ静かに歩美を見上げている。決めるのは歩美自身だと、その沈黙が語っていた。

 その間にも冥顎は止まらない。左脛の傷など意に介さず、大槌を横薙ぎに振るう。翼が展開していた御札がまとめて吹き飛ばされ、破れた紙から緑の光が散った。

 翼は翠輝剣で受け止めようとするが、圧倒的な重量差に耐えられない。腕が痺れ、足の裏が地面を削り、背中が押し戻される。

 その先には、崩れかけた校舎の壁があった。

 もう退く場所がない。

 冥顎が冥顎槌を頭上へ掲げる。

「小細工は終わりだ。まとめて潰してやる」

 翼は新しい札を取り出そうとする。だが指先が震え、うまく紙を挟めない。冷静であろうとする意志と、間に合わないという確信が、同時に胸の中でせめぎ合っていた。

 歩美は、追い詰められた翼の横顔を見た。

 翼は助けを求めて叫ばない。それでも、翠輝剣を握る指先がわずかに白くなり、視線だけが泳いでいた。

 歩美の中で、二つのためらいが正面からぶつかった。回復札によって、また鬼を消してしまうかもしれない。動かなければ、翼を失うかもしれない。握った札の縁が、汗でよれていく。

「怖いからって、何もしなかったら……今度は翼くんを助けられない」

 声は震えていた。涙が滲んでいる。札を持つ指にも、まだ十分な力が入らない。

 それでも、歩美は走り出していた。

 明駆の力が両脚へ流れ込み、黄色い光が足元から噴き上がる。ノウサギの跳躍と加速を思わせる高速移動が、歩美の身体を大槌の軌道の内側へ運んでいく。

 振り下ろされる直前、歩美はその圏内へ飛び込んだ。

 冥顎槌の風圧が制服と髪を激しく打つ。歩美は地面を滑り、翼が刻んだ左脛の傷へたどり着く。

「ごめんなさい。でも、止まって!」

 回復札が、傷口へ吸いつくように貼りついた。

 次の瞬間、冥顎の全身が大きく跳ねた。振り下ろされるはずだった大槌が手から離れ、地面に深くめり込む。

 冥顎は両目を見開いたまま、喉の奥から人間の悲鳴とも獣の咆哮ともつかない絶叫を上げた。

「ぐああああああっ!」

 黒い装甲鱗の隙間から、黄色い光が噴き出す。傷口は塞がらない。

 むしろその光は傷から体内へと入り込み、血管、骨、筋肉、臓器へと逆流するように広がっていった。鬼気が光を押し返そうとして、黒い霧となって渦を巻く。

 冥顎の右腕の一部が、一瞬だけ人間の腕へ戻った。黒い鱗が剥がれ、その下から十五、六歳の少年の皮膚が現れる。

 指も爪も、人間のものへ。だが直後、黒い鬼気が腕へ殺到し、新しい鱗が人間の皮膚を覆い、飲み込んでいった。

 人間の腕と鬼の腕が、同じ場所を奪い合っているようだった。

 冥顎は膝から崩れ落ち、胸元を両手でかきむしる。

 歩美はその苦しみを間近で見て、思わず後ずさった。自分が何をしたのか、分からない。

「治しているんじゃない……人間に戻そうとしている……?」

 声が掠れ、喉の奥で息が詰まった。仲間を救うことには成功した。だが目の前の鬼を、別の形で傷つけている。

 冥顎の絶叫は、荒廃した中庭全体に響き渡った。

 それまで別々に進んでいた七つの戦闘が、一つの現象によって同時に止まる。

 槍を構えていた邪顎(じゃがく)――椚俊(くぬぎしゅん)は、細呂木蓮(ほそろぎれん)へ向けていた穂先をわずかに下げた。自分と同格のはずの冥顎が、傷とは思えない苦痛に倒れていく。その光景から、目を離せずにいた。

 鱗華(りんか)――鎌谷菜摘(かまだになつみ)は、北潟友紀(きたがたゆき)との間合いを外した。友紀を睨んでいたはずの目が、冥顎へ向く。何が起きたのか理解できず、目を見開いたまま動きを止める。

 麗刃(れいじん)――番堂野友美(ばんどのゆみ)は、坪江南海(つぼえみなみ)へ振り下ろそうとしていた刀を止めた。危険を察知すれば真っ先に逃げる彼女が、未知の現象を前にして判断を止めていた。

 悪路漢(あくろかん)は一瞬、顔を強張らせた。他人が竦む姿にこそ価値を感じてきた男が、松影(まつかげ)の柄を握り直す。自分にも同じことが起こり得る――その可能性が、初めて頭をよぎっていた。

 咬覇(こうは)は冥顎の絶叫を冷静に聞きながら、それが単なる痛みの声ではないと見抜いていた。黄色い光と、一瞬だけ人間へ戻った右腕を、鋭い目で観察している。

 牛竜(ぎゅうりゅう)――権世毅(ごんぜつよし)は、冥顎の腕が人間へ戻ったのを見て、無意識に自分の胸元へ手を当てた。そこには校名を削り落とし、背番号だけを残した金属プレートがある。

 鬼になった自分の奥にも、まだ人間の自分が残っているのではないか。プレートを押さえる指先に、じわりと汗が滲んだ。

 七人にとって、鬼が人間へ戻りかける現象は初めて目にするものだった。鬼は倒される。消滅することもある。だが、人間へ戻されるものではない――そう信じてきたはずだった。

 十彩獣団(じゅっさいじゅうだん)の側も、一瞬だけ息を止めていた。翼は冥顎の状態を注意深く観察している。

 蓮は、七人の鬼が全員、冥顎へ意識を向けたことに気づいた。綾実(あやみ)は、この数秒こそが戦況を変える唯一の機会だと即座に判断する。

 最初に動いたのは、友紀だった。

 友紀は朱迅剣(しゅじんけん)を構え、戦場全体へ届く声で叫んだ。

「みんな、今よ! 歩美の道を作って!」

 それは兄の代わりに発した号令ではなかった。友紀自身の判断だった。友紀は歩美を振り返らない。歩美なら必ず来ると信じて、先に鱗華へ踏み込んでいく。

 この瞬間から、九人の目的が変わった。

 それまでは各自が自分の敵を倒そうとしていた。今からは、全員が歩美を次の敵へ届かせるために動く。

 友紀が前線の号令を出す。蓮が敵の武器を受け流す。南海が退路を塞ぐ。綾実が危険を抑える。

 伊織(いおり)が遠距離から隙を作る。健太(けんた)が敵を正面から固定する。翔一(しょういち)が機動力で牛竜を崩す。翼が全体の現象を分析する。そして歩美が、仲間の作った道を走る。

 慎悟のいない九人が、初めて完全に同じ方向を向いていた。

 友紀は鱗華刀(りんかとう)を朱迅剣で弾き上げた。南海も横から桃麗刀(とうれいとう)を差し込み、鱗華の退路を塞ぐ。二人に挟まれた鱗華は、喉を裂くように叫んだ。

「あんたたちは、いつも誰かに守ってもらえていいわね!」

 友紀は、守られている事実を否定しなかった。自分は一人で強くなったなどとは言わない。まっすぐに答える。

「守られているよ。だから今度は、私が誰かを守るの!」

 友紀が朱迅剣を押し込み、鱗華の右腕を高く跳ね上げる。南海が足元へ刀を滑らせ、踏み込みを止める。

 その隙に、歩美が邪顎へ向かっていた。邪顎は歩美の危険性に気づき、槍で狙う。蓮が蒼流槍(そうりゅうそう)で穂先を受け流し、地面へと逸らした。

「そっちを気にしている余裕はないと思うけど」

 蓮は邪顎の槍の柄を踏みつけ、動きを一瞬だけ封じる。邪顎の腕には、その戦いの中でできた小さな擦り傷が残っていた。

 歩美はその傷へ札を貼る。

 黄色い光が邪顎の身体を走った。邪顎は槍を手放し、胸を押さえて絶叫する。

「俺に……触るな!」

 邪顎の首元に下がっている古い南京錠が、激しく揺れた。その南京錠は、人間だった椚俊が誰にも見せなかった内側の象徴だった。

 青い装甲鱗の下へ、一瞬だけ椚俊の顔が浮かぶ。だがすぐに鬼気が逆流し、人間の輪郭を押し潰していった。

 歩美は邪顎から離れ、再び鱗華へ向かう。

 歩美が鱗華の肩に残る浅い傷へ札を貼ると、鱗華は息を呑み、刀を取り落とした。桃色の装甲の下に、一瞬だけ人間・鎌谷菜摘の姿が浮かび上がる。

 制服姿の少女。輪の外側に、一人だけで立っている少女。離れた席から、誰かの誕生日を祝う笑顔を睨んでいた少女。誰かと話したいのに、拒絶される前に自分から顔を背けた少女。

 人間の菜摘と、鬼の鱗華が、同じ身体の中で重なった。

 鱗華は自分の肩を抱きしめ、泣き声にも似た絶叫を上げる。

「やめて……戻したって、私には何もない!」

 その言葉に、歩美の動きが止まりかけた。

 人間へ戻れば救われると、無意識のうちに思い込んでいた。だが菜摘にとって、人間だった頃の世界は、安心できる場所ではなかったのだ。

 戻った先に居場所がない者へ、人間へ戻れと強制していいのか。

 歩美は答えを出せない。鱗華を完全に救ったとも思えなかった。それでも、今は戦いを止めなければならない。

 歩美は迷いを抱えたまま、麗刃へ向かった。

 麗刃は歩美を最大の脅威と判断し、南海を振り切ろうとする。南海は桃麗刀を逆手に持ち替え、麗刃の刀へ絡ませるように押さえ込んだ。

「歩美ちゃんには、近づかせない!」

 麗刃が刀から電撃を放とうとした瞬間、遠距離から伊織の白い矢が飛来する。矢は麗刃本人ではなく、刀の鍔へ命中した。電撃の軌道が逸れ、校舎の壁を焦がす。

 綾実が紫舞盾(しぶじゅん)を滑り込ませ、麗刃の身体を壁際へ一瞬だけ固定した。

 歩美は麗刃の脇腹に残った切り傷へ、札を貼る。黄色い光と、麗刃の雷を帯びた鬼気がぶつかり合う。

 黄色と紫電が身体の表面で弾け、麗刃の全身が激しく痙攣した。声を出そうとしても喉が動かず、声にならない悲鳴だけが漏れる。麗刃はその場に崩れ落ちた。

 歩美が次に向かうのは、悪路漢だった。

 悪路漢は綾実と伊織の連携を振り払い、日本刀「松影」を構えた。歩美の札が鬼を人間へ戻そうとしていると、すでに理解している。

 これまで悪路漢は、他人が竦む姿を見て笑ってきた男だった。慎悟を斬り、南海を奪おうとし、相手の怯えを味わうように眺め続けてきた。だが今、松影を握る手のひらに、じっとりと汗が滲んでいる。

「近づくな! その札を俺に貼るな!」

 歩美は足を止めかけた。松影は、慎悟に重傷を負わせた刀だ。歩美には悪路漢を憎む理由がある。

 だが今、歩美の胸にあるのは復讐心ではなかった。札を貼れば、悪路漢まで恨卑のように消えてしまうかもしれない。その一点が、足の裏を地面へ縫いつけていた。

 悪路漢はその迷いを見抜く。

「怖いならやめろ! お前に俺を戻す資格なんかない!」

 悪路漢は、歩美の善意そのものを攻撃していた。誰が誰を救うと決めたのか。自分が人間へ戻りたいと言ったのか。歩美が正しい側にいるというだけで、自分の姿を決めていいのか。

 綾実が紫舞盾で松影の斬撃を受け止める。火花と赤黒い鬼気が散り、綾実の身体が押し下げられ、足元のコンクリートが割れた。

 伊織が悪路漢の足元へ矢を放ち、踏み込みを止める。友紀も背後から朱迅剣を振るい、松影を横へ弾いた。

「歩美! 決めるのはあなたよ!」

 友紀は、使えとも使うなとも言わなかった。最後の判断を歩美へ返す。

 歩美は震えながら答えた。

「分かってる。だから……私が決める!」

 歩美は悪路漢の脇腹に残る古傷へ、回復札を貼った。

 札が黄色く燃え上がる。悪路漢は身体を大きく反らし、喉が裂けるほど叫んだ。

 赤い装甲鱗が一瞬だけ剥がれ、その内側から、人間・轟木栄一の姿が浮かび上がる。制服姿の十五歳の少年。剣道部員だった頃の、鬼よりも細い腕。

 松影ではなく竹刀を握っていた手。怒りと嫉妬に顔を歪める前の、まだ何も奪われていなかった少年の輪郭。

 だが悪路漢は、人間へ戻ることを拒絶した。松影を杖代わりにして、立ち上がろうとする。

「今さら……戻れるか……! 人間へ戻ったところで、俺がしたことは消えない! 南海は俺を選ばない。慎悟も消えない。何も変わらない!」

 悪路漢にとって鬼の姿は、慎悟に負けた自分から、南海に選ばれなかった自分から、人を傷つけた自分から逃げるための殻でもあった。

 人間へ戻ることは、罪が消えることではない。むしろ、罪と向き合う身体へ戻ることだった。

 悪路漢は自ら鬼気を札へ流し込み、回復の力へ抵抗する。抵抗するほど、黄色い光と赤黒い鬼気の衝突は激しさを増す。苦痛が増し、全身から赤黒い蒸気が噴き出した。

 歩美は、自分が悪路漢を救っているのか、それとも責任から逃げる場所を奪い、ただ苦しめているだけなのか、分からなくなっていた。

 悪路漢が膝をついたまま動かなくなっても、戦場は終わらなかった。

 咬覇が熊坂健太を突き飛ばし、歩美へ向かって突進する。歩美の能力が七人全員を無力化し得ると、咬覇はすでに判断していた。

「そいつを止めろ! 札を貼らせるな!」

 健太は地面へ玄牙棒(げんがぼう)を突き立て、咬覇の進路へ割り込んだ。咬覇偃月刀(こうはえんげつとう)と玄牙棒が正面衝突する。重い金属音が響き、衝撃で周囲の瓦礫が跳ねた。

「お前の相手は俺だ」

 咬覇は健太への憎悪を露わにし、歩美から視線を外す。

「また俺を見下ろす気か、熊坂(くまさか)!」

 健太は感情的に怒鳴り返さなかった。静かに、事実だけを口にする。

「見下ろしてない。お前が勝手に下を向いてるだけだ」

 その言葉に、咬覇の顔つきが変わった。喉の奥から低い唸りが漏れる。

 健太は咬覇を侮辱したのではない。咬覇が自分自身を低い場所へ置き、周囲の視線をすべて侮蔑として受け取っていることを、ただ指摘しただけだった。だからこそ、咬覇には耐えられなかった。

 咬覇は健太へ全力で斬りかかる。健太は攻撃を受け止めながら、完全には避けず、わざと肩口へ浅い傷を受け入れた。

 咬覇が攻撃を振り切った瞬間、健太はその腕をつかみ、巨体を正面から押さえ込んだ。

「歩美、今だ!」

 歩美は咬覇の背後へ回り込み、肩に残る古傷へ回復札を貼った。咬覇の巨体が大きく震える。

 だが咬覇は、他の鬼のようにすぐには倒れなかった。怒鳴りながら背中へ手を伸ばし、札を剥がそうとする。

「こんな紙切れで、俺を止められると思うな!」

 咬覇が札へ触れた瞬間、その指先から黄色い炎のような光が広がった。指を覆っていた鱗が剥がれ、一瞬だけ人間の皮膚と爪が現れる。咬覇は焼けるような痛みに耐えきれず、手を離した。

 札は外側から身体へ貼りついているのではない。鬼気の奥に残った、人間の生命力へ根を張るように作用していた。

 咬覇は膝をつきながら、他の鬼たちの変化を見た。冥顎。邪顎。鱗華。麗刃。悪路漢。全員に、人間だった頃の姿が一瞬ずつ浮かんでいる。

 咬覇は歩美を睨んだ。荒い息を吐きながら、能力の正体を言葉にする。

「治す力じゃねえ……」

 一度言葉を切り、痛みと観察の末に確信へたどり着く。

「こいつは鬼を、人間へ戻そうとしてやがる」

 その言葉は、単なる説明ではなかった。咬覇自身の奥にも前谷耕士(まえだにこうじ)という人間が残っている――その事実を、自らの口で突きつけてしまった言葉だった。

 十彩獣団の側も、その言葉によって歩美の札が攻撃技ではないと理解した。

 最後に残るのは、牛竜だった。

 牛竜は柿原翔一(かきばらしょういち)と激しく打ち合っていた。二挺の手斧を振るい、左右から烈翔棍を挟み込む。

「俺は止まらねえ! 先頭打者は最後まで走るんだよ!」

 牛竜は野球を捨てたと言いながら、言葉にも動きにも野球が残っていた。踏み込みは走塁。相手の癖を読む目は打者のもの。斧を振る軌道はバットスイングそのものだった。

 翔一は押されながらも、牛竜の背後に広がる野球部グラウンドへ目をやる。校舎や部室は壊されている。フェンスも歪んでいる。

 だが、内野の土やバッターボックス付近だけは、大きく荒らされていなかった。

 牛竜は無意識にグラウンドを避けて戦っている。

「だったらさ、なんでグラウンドを踏まないように戦ってるんだ?」

 翔一の言葉に、牛竜の動きが一瞬止まった。本人も気づいていなかったことを突かれていた。

 牛竜は母校を憎んでいる。野球を奪われたと考えている。グラウンドなど壊して当然のはずだった。

 それでも、自分が一番打者として立った打席を踏み潰すことができない。過去を捨てたと言いながら、野球への未練を捨てきれていなかった。

 翔一はその迷いを見逃さない。烈翔棍(れっしょうこん)で牛竜の右手の斧を弾き飛ばす。続けて上空へ跳び、翼状の光を広げながら牛竜の肩へ蹴りを叩き込んだ。

 牛竜が片膝をつく。

 歩美が走り込む。牛竜は歩美へ左手の斧を振るうが、翔一が烈翔棍を差し込み、その軌道を上へ逸らした。

「行け、歩美!」

 歩美は牛竜の胸元にある金属製の背番号プレートを見た。校名は削り取られている。

 しかし背番号だけは、そのまま残されていた。学校は憎んでも、一番打者だった自分までは捨てられなかった証だった。

 プレートの下には、戦闘でできた浅い傷がある。歩美は最後の回復札を貼った。

 牛竜の身体から、爆発するような黄色い光が噴き出す。カルノタウルスの角が一瞬薄れ、鬼の顔へ、坊主頭の少年・権世毅(ごんぜつよし)の顔が浮かび上がった。

 そこには怒りだけでなく、もう一度グラウンドへ立ちたいという未練があった。試合へ出たい。打席へ立ちたい。一番打者として名前を呼ばれたい。

 だが牛竜は、その人間の顔を自分で否定するように吠える。

「俺は捨てられたんだ! 今さら人間へ戻ったって、誰も俺を試合に出さねえ!」

 牛竜は立ち上がろうとする。だが鬼気と人間の生命力の衝突に耐えきれなかった。胸元のプレートを強く握りしめたまま、その場へ倒れた。

 七人全員が地面へ倒れていた。

 冥顎は左脛を押さえている。邪顎は槍へ手を伸ばせない。鱗華と麗刃は荒い呼吸を繰り返している。

 悪路漢は松影を握ったまま動かない。咬覇はなお歩美を睨んでいるが、身体が言うことを聞かなかった。牛竜は背番号のプレートを握りしめ、苦痛に呻いていた。

 武器がぶつかる音が止んだ。先ほどまで続いていた怒号も消えている。

 残るのは、七人の荒い呼吸だけだった。砕けた壁から小石が落ちる乾いた音。

 遠くの体育館から漏れ聞こえる、負傷者を助ける生徒たちの声。焦げた霊気とコンクリートの粉の臭い。夕方の風が、汗ばんだ肌を撫でていく。

 友紀は朱迅剣を下ろさなかった。倒れているとはいえ、敵への警戒を解かない。

 蓮は七人の呼吸と鬼気の流れを、静かに観察していた。翼は、黄色い光が鬼気を弱める一方で、人間の生命反応を強めていることに気づく。

「倒したわけじゃない。二つの身体が、主導権を奪い合っているんだ」

 翼が呟いた。

 歩美は七人を見回した。自分の札によって、戦いは止まった。仲間を救うことはできた。しかし目の前では、自分の力によって七人が苦しんでいる。

「私は、この人たちを助けているの……?」

 少し間を置き、続ける。

「それとも、ただ苦しめているだけなの……?」

 明駆は答えなかった。歩美の足元へ、静かに寄り添うだけだった。その沈黙は、答えがないことを示すのではなく、歩美自身が考え続けなければならないことを示していた。

 友紀が歩美へ近づこうとする。友紀もまた、安易に「正しいことをした」とは言わなかった。慰める言葉を探しながら、一歩踏み出す。

 その時、別の音が響いた。

 最初に聞こえたのは足音だった。一つや二つではない。硬い爪がアスファルトを叩く、細かく無数の音。次に、地面がわずかに震える。

 校門の向こうに、小さな影が並んでいた。夕陽を背にしているせいで、最初は輪郭しか見えない。

 何十もの恐竜型小鬼――恨卑。俊敏な疾牙(しつが)。頭部に長い棘を持つ怒突(どとつ)。群れは騒がず、何かを待つように校門付近へ整然と並んでいる。

 やがて群れの中央から、一体の鬼が歩いてきた。

 黒と鮮やかなピンクの装甲鱗。ケラトサウルスを思わせる一本角。道化師を思わせる市松模様の装飾。細身で、他の鬼とは明らかに異なる軽やかな足取り。

 覇竜十傑の一人、角羅(かくら)――浜坂由加里(はまさかゆかり)

 角羅は倒れている七人を見た。次に、その傍らで回復札を握る歩美へ目を移す。

 戦場の惨状には似合わない、子供のような無邪気な笑みが、角羅の口元に浮かんだ。

 脅すための笑みではない。本人は本当に、少し面白い光景を見つけたように笑っていた。その無邪気さが、かえって不気味だった。

「あれあれ? みんな、ずいぶん痛そうだね」

 角羅は指の間へ複数の札を広げる。それは歩美の黄色い札とは、まったく異質なものだった。黒と桃色の光が、紙の表面から漏れている。

 歩美はその札を見た瞬間、直感した。あれは自分たちを助けるための札ではない。倒れた七人を、もう一度鬼として立たせ、戦わせるための札だ。

 歩美の札が、人間の生命力を呼び戻す光だとするなら。

 角羅の札から漏れる光は、鬼気そのものを育てる光だった。

 角羅の背後で、小型鬼たちが一斉に低い唸り声を上げる。戦いが終わったと思われた中庭へ、新しい軍勢の咆哮が響き渡った。

 友紀たちは、再び武器を構え直す。歩美はすでに、最後の札を使い切っていた。倒れている七人は、消滅してはいない。ただ、行動できないだけだ。

 角羅は黒と桃色の札を一枚選び取り、それを顔の横へ、静かに掲げた。

 夕陽が、その紙の輪郭を黒く遮る。

 黒と桃色の光が、じわりと滲むように、倒れている七人へ向かって伸びようとしていた。

第13話「鬼を癒やす光」、お読みいただきありがとうございました。


今回は、歩美というキャラクターにとって一つの分岐点になる話でした。


恨卑を消してしまった過去に足がすくみ、それでも「怖いからって何もしなかったら、今度は翼くんを助けられない」と言い聞かせて走り出す。


その一歩は、勇気というよりも、恐怖を抱えたまま前へ進む選択だったのではないかと思います。


回復札は敵を倒す武器ではありません。


鬼を人間へ引き戻そうとする力です。


しかし人間へ戻ることが、必ずしも救いになるとは限らない。


「戻したって、私には何もない」と叫んだ鱗華。


「今さら戻れるか」と抵抗した悪路漢。


「誰も俺を試合に出さねえ」と吠えた牛竜。


七人それぞれが抱えていた事情が、一瞬だけ人間の顔となって浮かび上がる場面を、丁寧に書きたいと思いながら執筆しました。


そして咬覇が口にした「治す力じゃねえ……こいつは鬼を、人間へ戻そうとしてやがる」という言葉は、これから物語全体に影を落としていくことになります。


九人が慎悟不在のまま、初めて完全に同じ方向を向いて戦った回でもあります。


「歩美の道を作る」という一点に全員の目的が揃った瞬間は、個人的にも思い入れの強いシーンでした。


そして最後、戦いが終わったかに見えた中庭へ、角羅こと浜坂由加里が現れます。


歩美の札とは正反対の力を持つ、もう一つの回復札。


次回、第14話「反転する癒やし」では、その力の正体が明らかになります。


歩美が積み上げてきた選択が、まったく別の意味で試される展開になりますので、どうぞ楽しみにお待ちください。


なお本作の執筆にあたっては、プロット整理・推敲補助等の一部工程でAIを活用しています。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


次話「反転する癒やし」でまたお会いできれば幸いです。

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