第11話 山吹色の狐
斬牙は逃げた。
けれど、住宅街に残されたのは静けさだけではありません。
莉奈の腕の中で、小さな命の呼吸が、今にも途切れようとしています。
守れなかった後悔。
助けたいという願い。
そして、誰かに教えられたわけでもないのに、自然と伸びる手。
今回は、これまで前線に立ってきた戦士たちとは少し違う「強さ」の物語です。
剣を振るう力ではなく、命に寄り添う力。
山吹色の光が、何を選び、何を守るのか。
どうぞ最後まで見届けてください。
斬牙が姿を消してから、住宅街には奇妙なほどの静けさが戻っていた。
さっきまで響いていた金属音も、衝突音も、獣じみた咆哮も、すべてが夏の空気の中へ吸い込まれてしまったかのようだった。
代わりに聞こえるのは、遠くで鳴き続ける蝉の声だけだ。
崩れたブロック塀。
アスファルトへ深く刻まれた三本の爪痕。
舞い上がった砂埃が、まだ薄く宙に漂っている。
開け放たれたままの民家の窓が、いくつも見えた。
けれど、そこから顔を出す住民は一人もいない。
カーテンの隙間が揺れることさえなかった。
つい数分前まで、この一角は非日常の中心だった。
灰色の鬼が咆哮を上げ、家々の壁を薙ぎ払い、路地を土埃で満たした。
それが今は、まるで何もなかったかのような、白々しいほどの日常へ戻ろうとしている。
けれど誰もそれを信じきれない。
夏の日差しだけが、何も知らないような顔で降り注いでいた。
牛山智徳と清滝聖矢は、土角と聖翔の変身を解いた。
二人とも肩で息をしていた。
智徳は土角大斧を握っていた右手の震えが止まらず、拳を握ったり開いたりを繰り返している。
聖矢は周囲の路地へ視線を走らせ、斬牙が戻ってくる気配がないか、負傷した住民がいないかを確認していた。
「……逃げられたな」
智徳が呟く。
「深追いはできない。俺たちも限界だ」
聖矢が短く答えた。
北潟慎悟は、逃げた斬牙の去った方角を睨みつけていた。
まだ追える。
そう思った瞬間、身体が勝手に一歩を踏み出していた。
だが、その一歩と同時に、脇腹の奥で何かが引き裂かれるような痛みが走った。
悪路漢の刀「松影」に斬られた傷は、まだ完全には塞がっていない。
それだけではない。
刃を通して流し込まれた鬼気が、傷の奥で脈打つように疼く。
内側から焼かれるような感覚に、慎悟は息を詰まらせ、その場へ片膝をついた。
「慎悟さん」
寿蒙が素早く歩み寄り、慎悟の肩へ手を置いた。
「今は追うべき者より、助けるべき命があります」
その一言で、全員の視線が同じ場所へ引き寄せられた。
指中莉奈の腕の中。
そこにいるチワワのガトーだ。
ガトーはぐったりと莉奈の腕へ身体を預けていた。
小さく開いた口から、浅く、途切れがちな呼吸が漏れている。
首元には、斬牙につかまれた痕が赤黒く残っていた。
わずかに身体が動くたび、か細い声が喉の奥から絞り出される。
「きゅ……ん……」
莉奈はアスファルトの上へ膝をつき、ガトーを胸元へ抱き寄せていた。
だが指先が震え、無意識のうちに腕へ力がこもり、首の周りを締めつけかけている。
「莉奈さん」
寿蒙が莉奈の腕へそっと手を添えた。
責める声ではなかった。
「首を締めないよう、胸と腰を支えてください」
莉奈は息をのんだ。
自分が何をしかけていたか、その瞬間に気づいたのだ。
慌てて腕の位置を変える。
片腕でガトーの胸を支え、もう片方の腕で腰と後ろ脚を包み込むように支えた。
首が不自然に反らないよう、ガトーの身体を自分の身体へそっと預けさせる。
そうすると、ガトーの呼吸がほんのわずかに、楽になったように見えた。
浅い息の間隔が、ほんの少しだけ長くなる。
それでも、危機が去ったわけではない。
莉奈は震える声で、何度もガトーへ謝り続けていた。
「ごめんね、ガトー……。私が守らなきゃいけなかったのに……。もっと早く、止めていれば……。ちゃんと、抱いていれば……」
言葉は次第にまとまらなくなっていった。
莉奈の中で、飼い主として失格だったのではないかという思いが、際限なく膨らんでいく。
散歩の道を選んだのは自分だった。
少し目を離した、あの一瞬さえなければ。
そんな「もしも」が、頭の中を何度も巡っては消えていく。
莉奈は今まで、友達が落ち込めば真っ先に声をかけ、後輩が泣いていれば背中をさすってきた。
けれど今は、誰かを励ます余裕などどこにもなかった。
ただ、腕の中の小さな重みが、少しずつ軽くなっていくような気がして、それが怖かった。
慎悟は痛みをこらえながら、壁へ手をついて立ち上がった。
しゃがみ込めば脇腹へ負担がかかる。
だから片膝だけをつき、莉奈と目線の高さを近づけた。
「莉奈、お前のせいじゃない」
莉奈は顔を上げなかった。
「斬牙が一方的にガトーを傷つけた。お前はガトーを守ろうとしていた」
慎悟の声は静かだったが、はっきりとしていた。
「守れなかったことと、傷つけたことは同じじゃない。悪いのは、お前でもガトーでもない」
その言葉は、間違ってはいなかった。
莉奈もそれを分かっていた。
「……ありがとうございます、慎悟先輩」
素直に、感謝の言葉が出た。
けれど、その言葉だけで涙が止まるわけではなかった。
腕の中では、今もガトーの呼吸が弱くなり続けている。
莉奈はガトーの鼻先へ、そっと頬を近づけた。
かすかな呼吸を確かめる。
胸の上下が、さっきよりもさらに小さくなっていた。
莉奈は涙を流したまま、慎悟を見上げた。
「でも、ガトーは苦しんでいます。私が悪いかどうかを決めるより、この子を助けなきゃいけないんです」
慎悟は、それ以上何も言えなかった。
正しさを差し出すことと、目の前の命を救うことは、同じではないのだと思い知らされたからだ。
脇出美奈子は、銀玲の霊気を通してガトーの様子を探っていた。
その顔は青ざめ、片手で胸元を押さえている。
「呼吸が……かなり弱くなっています。首だけじゃありません。身体の中の、力の流れそのものが乱れています」
智徳がすぐにスマートフォンを取り出した。
「救急車、呼びます」
聖矢が現在地の住所を確認し、救急車が入れる道を素早く見極める。
寿蒙はガトーの身体へ両手をかざした。
しかし、すぐには札を出さなかった。
「傷を抑えられる可能性はあります。ですが、鬼気が身体へ残っている以上、確実とは言えません」
先ほど斬牙へ使った札は、人間の生命力と鬼気を激しく衝突させ、斬牙自身が絶叫して逃げ出す結果になっている。
同じ現象が、この小さな身体で起きたなら。
寿蒙にはそれを断言する自信がなかった。
莉奈は寿蒙を責めなかった。
無理に使ってくれとも言わなかった。
ただ、ガトーへ視線を戻した。
ガトーが薄く目を開いた。
けれど、莉奈の顔を見上げるだけの力は残っていないようだった。
◇
その姿を見た瞬間、莉奈の中で、ガトーと初めて出会った日の記憶がよみがえった。
まだ小さかったガトーは、知らない家、知らない人間を怖がり、身体を震わせて物陰から出てこようとしなかった。
莉奈はすぐに手を伸ばして抱き上げなかった。
床へ座り、視線を低くし、ガトーの方から近づいてきてくれるのを待った。
声をかけすぎず、触ろうともせず、ただ手のひらを床の上へそっと置いた。
時間が経ってから、ガトーは莉奈の指先へ鼻を近づけた。
匂いを嗅ぎ、少し離れ、もう一度近づく。
そして最後には、小さな前脚を莉奈の膝の上へ載せた。
あれは、莉奈が選んだ瞬間ではない。
ガトーが、莉奈を信じることを、自分自身で選んだ瞬間だった。
だから莉奈は、その日からガトーを自分の所有物だとは考えていない。
指中家という同じ場所で、同じ時間を生きる、一つの家族だと思ってきた。
◇
莉奈はガトーの名を呼んだ。
「ガトー……」
そして、自分でも整理しきれていなかった気持ちを、必死に言葉へ変え始めた。
「私の犬だから大切なんじゃない」
慎悟、美奈子、寿蒙、智徳、聖矢の視線が、莉奈へ集まる。
「私が飼っているから、大事なんじゃない。この子は、私の物じゃない」
声が一度、詰まった。
それでも莉奈は続けた。
「怖い時は怖いし、痛い時は痛い。嫌なことは、嫌だって思う。私とは違う気持ちを持って、私とは違う命を、生きてる」
莉奈の涙が、ガトーのクリーム色の毛へ落ちた。
「この子が、この子だから助けたい。ガトーだから……生きていてほしい」
演説のような言葉ではなかった。
思想を語るための言葉でもなかった。
ただ、ガトーの命が消えかけていることに気づいた少女が、自分でも気づいていなかった本当の気持ちを、初めて声にしただけだった。
莉奈の言葉が響いた瞬間、周囲の空気が変わった。
真夏の日差しの下だというのに、柔らかな夕暮れのような光が、住宅街をそっと包み込んでいく。
最初に、一枚の山吹色の葉が空から舞い落ちた。
季節外れの、本物の葉ではない。
光によって形作られた葉だった。
続いて二枚、三枚と現れる。
風などなかったはずなのに、それらは莉奈とガトーの周囲だけを、ゆっくりと回り始めた。
美奈子が顔を上げる。
「霊護獣の、気配……」
崩れたブロック塀の上へ、音もなく一匹の狐が姿を現した。
山吹色の毛並みは、陽光を溶かして糸にしたように輝いている。
耳先と四本の脚には、淡い金色が宿っていた。
尾の先には白い光が灯り、呼吸するように明滅している。
光狐だった。
光狐は、慎悟たちを見なかった。
莉奈とガトーだけを、まっすぐに見つめている。
智徳と聖矢は反射的に身構えた。
だが寿蒙が片手を上げ、二人を制した。
「敵意はありません」
光狐は塀から地面へ降りた。
着地の音は聞こえなかった。
莉奈の周囲を一度、ゆっくりと回る。
その動きは、莉奈がガトーをどう支えているかを見定めているように見えた。
首だけをつかんでいないか。
苦しむ身体を、自分の都合で締めつけていないか。
胸、腹、腰、後ろ脚を、きちんと支えているか。
莉奈は、光狐の視線を感じながら、無意識にガトーを支える腕の位置を、もう一度調整した。
その仕草を、光狐は静かに見届けた。
やがて光狐は、莉奈の正面へ座った。
琥珀色の瞳が、莉奈を見上げる。
声は口から発せられたのではなかった。
莉奈の心へ、直接響いてきた。
『その命を、己の物と呼ばぬか』
優しい声だった。
だが、慰めるためだけの声ではないことを、莉奈は肌で感じた。
命を尊重すると口にしながら、実際には自分の都合を押しつけていないか。
愛情という言葉を理由に、相手の生き方を決めようとしていないか。
そう問いかけられている。
莉奈は答えた。
「はい。ガトーは、私の家族です。でも、私のためだけに、生きているわけじゃありません」
光狐は、さらに問いを重ねた。
『その命が望む道を、お前が決めることはできぬ』
莉奈はすぐに答えられなかった。
一度、言葉に詰まる。
それでも、正直に答えた。
「全部分かっているとは、言えません。この子が、本当はどう感じているのか……言葉で聞くことは、できないから」
それでも莉奈は、ガトーの苦しみから目を逸らさなかった。
「だから、見ます。呼吸も、目も、身体の震えも……この子が伝えてくれることを、ちゃんと見ます。私の都合で決めてしまわないように、何度でも考えます」
光狐の瞳が、穏やかに細められた。
『ならば、手を伸ばせ。慈しみを願いで終わらせず、命へ届く形とせよ』
光狐は、莉奈が優しいから選んだのではなかった。
相手の気持ちをすべて理解できるわけではないと認め、それでも観察し、考え、支え続けようとする覚悟を、認めたのだった。
光狐の身体が、山吹色の光へと変わっていく。
その光は、まっすぐに莉奈の胸元へ吸い込まれた。
莉奈の背後に、巨大な狐の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
足元には、山吹色の霊紋が円を描いて広がった。
光の葉が、渦を巻いて舞い上がる。
制服が光に包まれ、白と山吹色を基調とした軽装の戦闘装束へと変わっていった。
それは、慎悟の纏う重厚な戦闘服とは違う。
前線で敵の攻撃を受け止めるための、重い装甲ではなかった。
負傷者のもとへ走るため。
狭い場所へしゃがみ込むため。
相手の身体を支えるため。
札を素早く取り出すため。
避難を補助するため。
そのための軽さと、動きやすさを持った装束だった。
肩と胸元には、狐の毛並みを思わせる柔らかな意匠が現れている。
腰には白い帯が巻かれ、中央で琥珀色の霊石が淡く輝いていた。
髪の両側には、狐の耳を模した山吹色の髪飾りが浮かび上がる。
本物の獣の耳ではない。
光狐との契約を示す、装飾だった。
背後には、光狐の尾を思わせる細い光の帯が揺れている。
腰には、山吹色の鞘へ収められた短い護身刀――光狐刀が現れた。
敵を薙ぎ倒すための大型武器ではない。
負傷者へ迫る危険を払い、避難経路を切り開き、自分と治療対象を最低限守るための刃だった。
両手の手甲には、複数の回復札を収める細い札入れが形成されている。
莉奈は、自分の姿を見下ろした。
けれど、鏡のように装備を確かめている余裕はなかった。
力を得たことを喜ぶ余裕もない。
すぐに、視線をガトーへ戻した。
誰かに教えられたわけではない。
それでも光狐との契約を通じて、今、自分が何をすべきかが分かった。
右手が、自然と札入れへ伸びる。
一枚の山吹色の札を取り出した。
札には、狐の尾と灯火を組み合わせたような紋様が浮かんでいる。
寿蒙は、その札から感じる力が、自分や歩美の札とは明らかに異なることに気づいた。
だが、今はそれを詳しく説明している時ではない。
まず、ガトーの命を救うことが先だった。
莉奈は、すぐには札を貼らなかった。
まず、ガトーへ静かに声をかけた。
「大丈夫。ゆっくりでいいから。怖かったよね。痛かったよね。もう、無理に動かなくていいから」
自分が安心するために言う言葉ではなかった。
ガトーが呼吸を続けるための速さを尊重し、急かさないための言葉だった。
莉奈は、ガトーの胸元へ、そっと山吹色の札を貼った。
「光狐――この子を助けて」
札から、山吹色の光が広がっていく。
激しい爆発ではなかった。
薄い毛布をそっと掛けるように、ガトーの身体を包んでいく。
無数の小さな狐火が現れた。
狐火は、首、胸、腹、四本の脚へ、一つずつ静かに触れていく。
首元には、灰色の鬼気が細い糸のように絡みついていた。
光狐の霊力は、それを強引に焼き尽くしはしなかった。
ガトーの生命力と、鬼気の境目へそっと入り込み、二つを慎重に切り離していく。
灰色の鬼気は、首元から細い煙となって抜け出した。
山吹色の狐火がそれを包み込み、空中で静かに消していく。
慎悟はその光景を、息を止めて見つめていた。
これまで見てきた鬼との戦いの光とは、まるで違う光だった。
敵を焼き払うための光でも、傷口を無理やり塞ぐための光でもない。
ただ、小さな命の呼吸に、静かに寄り添っているだけの光だった。
一瞬で全てが元へ戻ったわけではなかった。
生命の反応は、一つずつ戻っていった。
最初に、首元の腫れが少しずつ引いていく。
次に、途切れがちだった呼吸の間隔が整い始めた。
浅かった息が、少しずつ深くなっていく。
閉じかけていた瞳が、ゆっくりと開いた。
莉奈が、震える声で名を呼んだ。
「ガトー……?」
最初に、耳がかすかに動いた。
続いて、尻尾が一度だけ揺れる。
そして、弱々しくはあったが、はっきりとした鳴き声が上がった。
「きゅん……」
莉奈の表情が、崩れた。
「ガトー!」
ガトーは、すぐに元気よく飛び跳ねたりはしなかった。
莉奈の腕の中でゆっくりと身を起こし、小さな前脚を彼女の胸元へ載せる。
そして、莉奈の頬を何度も舐めた。
莉奈は泣きながら笑った。
ガトーを抱きしめる。
けれど今度は、興奮のあまり強く締めつけたりはしなかった。
片腕で胸を支え、もう片方で腰と後ろ脚を支える。
首へ負担をかけないよう、慎重に抱き上げた。
ガトーの呼吸と表情を確かめながら、腕の力を細かく調節する。
ガトーは莉奈の胸へ身体を預け、安心したように目を細めた。
慎悟は、張り詰めていた肩の力をようやく抜いた。
智徳が、大きく息を吐く。
聖矢が笑みを浮かべた。
美奈子は涙ぐみながら、「よかった……」と呟いた。
寿蒙は、長く息を吐いた。
同時に、莉奈の札が起こした現象を、注意深く見つめ続けていた。
ガトーの呼吸が落ち着いたのを確かめると、莉奈は慎悟がまだ脇腹を押さえていることに気づいた。
「慎悟先輩、座ってください」
慎悟は首を横へ振った。
「俺は大丈夫だ。美奈子の方が――」
莉奈は、慎悟の顔色と呼吸と姿勢を見ただけで、大丈夫ではないと判断した。
「大丈夫な人は、そんな顔をしません」
穏やかな口調だったが、莉奈は一歩も譲らなかった。
慎悟は言葉を失った。
寿蒙が小さく笑う。
「慎悟さんには、止める人がまた一人増えたようですね」
莉奈は、ガトーを誰かへ雑に手渡したりはしなかった。
寿蒙が脱いで地面へ敷いた上着の上へ、ガトーをそっと座らせる。
不安そうに見上げるガトーへ、莉奈は何度も名前を呼びかけ、すぐ近くにいると伝えた。
そして、慎悟の脇腹へそっと手をかざす。
変身した莉奈の目には、傷口へ灰色の鬼気が糸のように絡んでいるのが見えた。
表面の刀傷だけではない。
悪路漢の刀「松影」に宿った鬼気が、慎悟の身体の内側へ残り続けている。
慎悟自身の霊力と蒼牙とのつながりを乱し、呼吸や動作のたびに痛みを増幅させていた。
莉奈は山吹色の札を一枚取り出した。
「完全には治せないと思います。でも、痛みを少し軽くすることはできます」
万能感を持ってはいけない。
自分に見える範囲と、分からない範囲を区別する。
慎悟は莉奈の判断を信じ、小さく頷いた。
莉奈は、服の上から適当に札を貼ったりはしなかった。
傷の位置を慎重に確かめ、必要な場面では寿蒙へ確認を求めながら、傷口そのものを刺激しない位置へ札を貼る。
山吹色の光が、慎悟の身体へ染み込んでいった。
鬼気を無理に引き剥がすのではない。
鬼気によって乱された慎悟自身の霊力を、静かに落ち着かせていく。
焼けた針を刺されるようだった痛みが、少しずつ鈍い重さへと変わっていった。
慎悟は思わず脇腹へ手を当てた。
「痛みが……引いてる」
傷そのものは、まだそこに残っている。
鬼気も完全には消えていない。
けれど、呼吸するだけで走っていた激痛が和らぎ、慎悟は背筋を伸ばせるようになった。
莉奈は、治療が完全ではないことをはっきりと伝えた。
「動けるようになったからって、戦えるわけじゃありません。絶対に、無理をしないでください」
慎悟は反射的に「分かってる」と答えた。
莉奈は、まるで信用していないような目を向けた。
友紀や南海に何度も同じ台詞を投げつけられてきた慎悟は、少しだけ居心地悪そうに視線をそらした。
続いて莉奈は、美奈子の指先が細かく震えていることに気づいた。
美奈子はガトーを安心させようと微笑んでいたが、頬は青ざめたままだった。
莉奈は美奈子の前へ膝をつく。
「美奈子先輩も、手を見せてください」
美奈子は、これ以上迷惑をかけたくなかった。
「私は、大丈夫です」
莉奈は静かに首を横へ振った。
「大丈夫じゃない時に、大丈夫と言わなくていいんです」
その言葉は、美奈子だけでなく、隣にいる慎悟の胸にも静かに刺さった。
美奈子は目を伏せた。
少し迷ってから、素直に手を差し出す。
莉奈がその手を握ると、美奈子の霊気が不規則に波打っているのが分かった。
銀玲を通して複数の鬼の感情を受け取ったこと。
斬牙の濃い鬼気を、間近で浴びたこと。
恐怖や痛みを、無理に抑え込んできたこと。
それらが重なり、精神と霊力の均衡が崩れかけている。
莉奈は美奈子の手の甲へ、小さな回復札を貼った。
山吹色の狐火が、美奈子の身体の周りをゆっくりと回っていく。
乱れていた銀色の霊気が、少しずつ一定の流れへ戻っていった。
美奈子の呼吸が落ち着き、頬にわずかな血色が戻る。
銀玲の気配も、美奈子の背後で静かに安定した。
「身体が……軽くなりました」
美奈子は、自分の胸元へそっと手を当てた。
寿蒙は、ガトー、慎悟、美奈子へ使われた札の作用を、順に思い返していた。
ガトーには、肉体の損傷、呼吸、そして生命力と鬼気の分離。
慎悟には、痛みと霊力の乱れの緩和。
美奈子には、疲労と銀玲の霊気の調整。
同じ山吹色の札でありながら、対象ごとに作用が細かく変化している。
寿蒙が静かに言った。
「これは、私の札とは違いますね」
慎悟が違いを尋ねる。
寿蒙は簡潔に答えた。
自分の札は、敵味方を区別せず、生命を救おうとする理念に基づいている。
だが実際の作用としては、対象を本来の生命の状態へ戻そうとする力を持っている。
歩美の札も同様に、傷口だけでなく、鬼となった存在を人間へ戻そうとする性質を帯びていた。
だからこそ、鬼気と人間の生命力が激しく衝突する。
一方、莉奈の札は違っていた。
治療する側が「これが正しい状態だ」と決めて押し戻す力ではない。
傷ついた命が、自ら戻ろうとする方向を探り、その流れへ静かに寄り添っている。
美奈子は、銀玲を通して感じた印象を言葉にした。
「命令する光じゃありません。そばにいて、一緒に呼吸を合わせるような……そんな力です」
莉奈は、自分に特別な力があると言われて戸惑った。
「私は何も知りません。札の使い方も、戦い方も……」
寿蒙は、その不安を否定しなかった。
「知らないことを恐れるのは、正しいことです。力を得た直後に、すべて理解したと思う方が、危うい」
寿蒙は、莉奈の札であれば、鬼を消滅させずに人間性だけを穏やかに呼び戻せる可能性があると考えていた。
けれど、それを断定はしなかった。
あくまで、仮説にすぎない。
「可能性はあります。ですが、まだ何も分かっていません。助けたいという理由だけで、鬼へ試してよい力ではありません」
莉奈は、深く頷いた。
「助けたいからって、勝手に使っていいわけじゃないんですね」
「その通りです」
寿蒙は、その言葉を口にした莉奈の横顔を、少しの間だけ見つめていた。
力を得た喜びよりも、力の重さを先に理解しようとする者は、決して多くない。
だからこそ寿蒙は、この少女へ多くを説明しすぎないよう、自分自身へ言い聞かせた。
答えを急いで与えることは、莉奈自身が考える機会を奪うことにもなりかねない。
寿満寺で調べるべきことが、また一つ増えたと、寿蒙は静かに思った。
慎悟のスマートフォンが鳴った。
着信は、北潟友紀からだった。
慎悟が応答すると、友紀の声よりも先に、金属音と怒号、割れる窓、遠くで爆発するような音が耳に飛び込んできた。
福江南高校では、友紀たち九人と七人の鬼による戦闘が、すでに始まっていた。
友紀は息を切らしながら、短く状況を伝えてくる。
校内には、負傷した生徒や教師が多数残されているという。
敵は七人。
連携こそ取れていないが、一人一人の戦闘能力は高く、七つの戦線へ分かれて戦況は混乱している。
受話口からは、女子生徒とおぼしき悲鳴と、誰かを呼ぶ怒鳴り声が交互に響いてくる。
慎悟は電話を握る手に、無意識に力を込めた。
友紀は慎悟へ、絶対に現場へ来ないよう念を押した。
「兄ちゃんは来ないで。そっちは、寿蒙さんと美奈子を守って」
通信の向こうで、ひときわ大きな爆発音が響く。
友紀が誰かの名を叫び、通話が唐突に途切れた。
慎悟は立ち上がった。
莉奈の治療で痛みが和らいだせいで、一瞬、自分も戦えると思ってしまった。
しかし、莉奈が慎悟の前へ立ちふさがった。
「今の治療は、戦える身体に戻したんじゃありません。これ以上悪くならないように、痛みを抑えただけです」
慎悟は反論しようとした。
けれど、さっきまで立つことすら難しかった事実を、否定できなかった。
沈黙が落ちる。
その後、莉奈が言った。
「私も、福江南高校へ行きます」
慎悟は即座に首を横へ振った。
「駄目だ。契約したばかりで、戦闘経験もない。今度の敵は斬牙一人じゃない。七人いるんだぞ」
莉奈は、慎悟が自分を軽視しているのではなく、守ろうとしているのだと分かっていた。
だから、感情的に言い返しはしなかった。
慎悟の目をまっすぐ見て答える。
「戦うために行くんじゃありません。傷ついた人を助けるために、行きます」
慎悟は、戦場へ行けば戦闘へ巻き込まれると警告した。
莉奈は取り繕わなかった。
「怖いです。さっきまで、私は何もできませんでした。ガトーが苦しんでいるのに、泣くことしかできなかった」
莉奈は、腕の中で寿蒙の上着の上に座っているガトーへ視線を落とした。
「でも今は、助けられるかもしれない力があります。学校で誰かが、さっきのガトーみたいに苦しんでいるなら……。ここに残って、安全だったって安心することは、できません」
その決意は、自分を罰するためのものではなかった。
ガトーを守れなかった後悔を、消し去るためのものでもなかった。
今、傷ついている命へ、手を伸ばすための判断だった。
それでも慎悟は、簡単には頷けなかった。
契約したばかりの中学生を、危険な戦場へ連れていく責任の重さを考えていた。
以前の慎悟であれば、自分一人の判断で「駄目だ」と決めていただろう。
だが今の慎悟は、前線へ出られない自分がすべてを独断で決めることの危うさを、少しずつ学び始めている。
慎悟は、美奈子と寿蒙へ視線を向けた。
「二人は、どう思いますか」
美奈子は、莉奈の霊気が安定していることを確かめてから答えた。
「前線へ出るのは危険です。でも、負傷者が多いなら、莉奈さんの力は必要になると思います」
美奈子は、銀玲を通じて莉奈の状態を監視すると申し出た。
寿蒙は、莉奈を戦闘員としてではなく、後方救護担当として同行させる案を出した。
そして、条件を一つずつ示していく。
「敵を追わないこと。単独で行動しないこと。負傷者を一人で運ぼうとしないこと。私たちの指示を無視して、前線へ出ないこと。そして、救えない可能性からも、目を逸らさないこと」
最後の一言は、静かに重かった。
莉奈の回復札は、万能ではない。
間に合わない命がある。
治せない傷がある。
本人の生命力そのものが、戻ってこない場合もある。
莉奈は、一つ一つの条件を聞いた。
軽々しく「絶対に全員助けます」とは言わなかった。
深く頷く。
「守ります」
慎悟は、それでもまだ迷っていた。
その足元へ、ガトーが歩み寄る。
ガトーは慎悟を見上げ、短く一度、吠えた。
慎悟は、しばらく黙り込んでいた。
やがて、大きく息を吐いた。
「分かった。ただし、戦うためじゃない。後方救護担当として、俺たちと一緒に行く」
莉奈は、力強く答えた。
「はい」
寿蒙は智徳と聖矢へ、北潟家周辺の警戒と、ガトーの保護を頼んだ。
ガトーは莉奈から離れようとせず、足元へ寄り添っている。
莉奈は、ガトーを危険な福江南高校へ連れていくつもりはなかった。
そばにいたいという気持ちより、ガトーの安全を優先する。
智徳が、ガトーを預かると申し出た。
最初、頭上から伸びてくる智徳の手を見て、ガトーは身体を硬くした。
斬牙につかまれた記憶が、まだ消えていない。
智徳は無理に抱き上げようとはしなかった。
その場へしゃがみ込み、視線を低くする。
手をガトーの正面へ突き出すのではなく、少し離れた地面へそっと置いた。
ガトーが自分から近づき、匂いを嗅ぐまで待つ。
聖矢も急かさず、黙って見守った。
やがてガトーは、智徳の指先へ鼻を触れさせ、自分から一歩、近づいた。
それを確かめてから、智徳は片腕を胸の下へ、もう片方を腰と後ろ脚の下へ差し入れた。
首には触れず、身体全体を支えて抱き上げる。
それは、先ほど斬牙がガトーを扱った時とは、まったく違う抱き方だった。
斬牙は、自分の考えを証明するために、ガトーをつかみ上げた。
智徳は、ガトー自身が受け入れるまで待ち、恐怖を増やさないように支えた。
莉奈は智徳へ頼んだ。
「首元には触れないでください。呼吸がおかしくなったら、すぐに連絡してください。水も、無理に飲ませないでください」
智徳は真剣な表情で頷いた。
「任せてください」
聖矢も、智徳とともに守ると約束した。
「先輩たちの分も、ちゃんと働きますから」
普段はどこか飄々としている聖矢の声に、いつもより強い芯があった。
智徳も、腕の中のガトーの重みを確かめるように、そっと抱き直した。
小さな命を預かるということが、剣を振るうこととは違う緊張を伴うのだと、智徳は初めて実感していた。
莉奈はガトーの額を、そっと撫でた。
「すぐ戻るからね」
ガトーは不安そうに一度鳴いた。
そして最後に、莉奈の指先を一度だけ舐めた。
莉奈はもう一度だけガトーの頭を撫でると、後ろ髪を引かれるように、それでも立ち上がった。
莉奈は光狐刀の位置を確かめ、手甲の札入れをもう一度確認した。
戦うための構えではない。
負傷者へ駆け寄るため。
状態を確認するため。
治療するため。
安全な場所へ誘導するための、準備だった。
慎悟、美奈子、寿蒙、莉奈の四人が、福江南高校へ向かって歩き出した。
移動中、慎悟は痛みが軽くなったことに引きずられ、無意識に先頭へ出ようとした。
歩幅も、少しずつ速くなっていく。
莉奈はすぐに気づいた。
「慎悟先輩、速いです」
「この速さなら、大丈夫だ」
「大丈夫じゃない人が使う言葉です」
慎悟は渋々、歩調を落とした。
美奈子はそのやり取りを見て、疲れた表情のまま、小さく微笑んだ。
寿蒙は、莉奈の背後にそっと寄り添う光狐の気配を感じながら、静かに考えていた。
歩美の札は、人間へ戻そうとする力。
自分の札は、敵味方を選別せず、命を救おうとする力。
莉奈の札は、命が自ら戻ろうとする方向を、静かに支える力。
三つの札がそろった時、鬼を消滅させずに、人間として救える可能性がある。
だが、今はまだ、その答えを出す時ではなかった。
遠くに、福江南高校の方角から立ち上る煙が見えた。
救急車や消防車のサイレンも、かすかに風へ乗って聞こえてくる。
莉奈の足が、一瞬止まりかけた。
そのとき、光狐の気配が、背中を押すのではなく、隣に並ぶようにそっと寄り添った。
莉奈は、前へ進んだ。
ガトーを守れなかった後悔を消すためではない。
特別な戦士として認められるためでもない。
自分の優しさを証明するためでもない。
今、傷ついている誰かへ、手を伸ばすためだった。
山吹色の光が、莉奈の足元へ淡く灯る。
その光は狐の足跡のように、進んだ道へ一つ、また一つと残っていった。
隣を歩く慎悟が、ふと莉奈を見た。
数時間前まで、ただの後輩だった少女が、今は自分たちと並んで危険な場所へ向かっている。
守ってやらなければならない存在だと、ずっとそう思っていた。
けれど今の莉奈の横顔には、守られるだけの弱さはどこにもなかった。
煙の立ち上る方角へ、莉奈はまっすぐ視線を据えていた。
怖くないわけではない。
すべてを救える自信があるわけでもない。
それでも、目の前で消えかけていた小さな命を取り戻したあの手が、今度は見知らぬ誰かのために伸ばされようとしていた。
守られるだけだった後輩は、傷ついた命を生かして帰す救護者として、初めて戦場へ向かって歩き出した。
第11話「山吹色の狐」、お読みいただきありがとうございました。
今回は、指中莉奈というキャラクターにとって、大きな転換点となる話でした。
莉奈はこれまで、慎悟の中学時代の後輩として登場するだけの、いわば「戦いの外側」にいる存在でした。
けれど今回、彼女はガトーという小さな命を目の前にして、自分でも気づいていなかった本音と向き合うことになります。
「私の犬だから大切なんじゃない。この子が、この子だから助けたい」
この台詞は、実はこの章全体を貫くテーマそのものでもあります。
富津歩美の回復札は、鬼を人間へ戻そうとする力。
池口寿蒙の理念は、敵味方を区別せず命を救うという姿勢。
そして今回覚醒した莉奈の力は、命が自ら戻ろうとする方向に、そっと寄り添う力でした。
同じ「回復」という言葉を背負いながら、三者三様の性質を持つ札が、これから物語にどう作用していくのか。
ここは今後の伏線として、ぜひ覚えておいていただけると嬉しいです。
また、光狐が莉奈を選んだ理由にも注目してください。
強さでも、才能でもなく、「相手の気持ちをすべて理解できるわけではないと認めた上で、それでも見続けようとする姿勢」を、光狐は評価しました。
これは、十彩獣団という物語全体を通して繰り返し描かれている「選ばれること」への一つの答えでもあります。
選ばれるために戦う者ではなく、目の前の命のために動いた者が、結果として力を託される。
そういう構造を、この章では何度も描いていきたいと思っています。
そして忘れてはならないのが、北潟慎悟の変化です。
前線に立てない苛立ちを抱えながらも、莉奈の同行を自分一人の判断で拒まず、美奈子と寿蒙に委ねる場面がありました。
これは、第五章全体を通して慎悟が学びつつある「守るリーダー」から「選択を共有するリーダー」への一歩です。
まだ完全に吹っ切れたわけではありませんが、少しずつ、彼自身も変わり始めています。
智徳と聖矢の、ガトーへの接し方にも小さな伏線を仕込みました。
斬牙がガトーを「物」として扱ったのに対し、二人はガトー自身が近づいてくるのを待ちました。
この対比は、莉奈のテーマである「所有する愛」と「命を尊重する愛」を、脇の場面からも補強しています。
さて、次回はいよいよ福江南高校での大規模戦闘、第12話「七つの戦線」です。
友紀たち九人と、七人の鬼が入り乱れる総力戦。
慎悟不在のまま、十彩獣団が自分たちだけの判断で戦場を作り上げていく話になります。
そして、莉奈も後方救護担当として初めての実戦に足を踏み入れます。
彼女の力が、傷ついた誰かをどれだけ救えるのか。
あるいは、救いきれない現実と、どう向き合うことになるのか。
次話もどうぞよろしくお願いいたします。




