逃げ続けたその先は
「ねぇ、佐々木さん知らない?検温に行ったら部屋にいなくて…。」
「え?朝はいたよね?」
「売店にもいなかったし、行きそうな場所は見てきたんだけど…。」
「…もしかして。」
ステーションに戻ってカルテの連絡先を開く。
本人の持っているスマホに電話をかけてみると…。
『はい、佐々木です…』
「佐々木さん、今どちらに?」
『えっ…え、これ病院の番号か!今バイト先で…』
「バイト先ぃ?!」
思わず大声で叫んでしまった。
「入院中に無断でそういうこと困るんですけど!」
『あの、バイトクビになっちゃうんで、終わったら帰りますから!』
プツ、ツーツーツー…。
「あんっ…のくっそやろう!!無断離院しやがったなぁぁ!!」
私の叫びがステーション中に響き渡った。
彼…佐々木さん(最早さんすら付けたくねぇが)が精巣腫瘍の手術のために泌尿器科に入院してきたのは手術を翌々日に控えた月曜日だった。
入院時の情報収集早々に『こいつはヤバい』と思わせる内容がてんこ盛りで。
「タバコ吸ったらダメって、どうしてもっすか?」
「ダメです。麻酔かけた後に咳と痰がえげつないことになって後悔しますよ。」
「明日は何もないんでしょ?出かけてきたいんすけど。」
「残念ながら検査と手術後の治療についての説明があるので無理です。」
「手術終わったらどのくらいで退院できるんすか?あんま長いとバイトクビになるから勘弁してほしいんすよね。」
「外来で治療の予定について話をされたはずですけど、バイト先にはお話してないんですか?」
黙り込んだ、てことは話してないのか。どうなってんだ、この人の思考回路。
「治療スケジュールも含めて連絡しておいてくださいね。それと、緊急時の連絡先をいくつか教えてください。手術の日はご家族に立ち会いをお願いしてくださいね。」
「えー…そんなんいらねえっすよ。」
「こっちが必要なんです。麻酔ひとつにしてもいざという時に連絡取れる方がいないと、不測の事態に対処できませんので。」
「…わかりました。親父の連絡先が…」
先行きがこれほどまで不安になるケースというのもなかなかないものだが。
手術前日に病院の裏手でこっそりタバコを吸ってたり、若手の看護師にナンパしてみたり、検査の時間に部屋にいない、と大凡やらかしというやらかしをしてくれた挙句の無断離院である。
おもむろに受話器をもう一度手に取ると、違う番号に電話をかけた。
「ほんっとうに息子が申し訳ありませんでした!!」
電話に出た足でバイト先に出向いて事情を説明して本人を引きずって病院へと連れ戻したのは、彼の父親だった。
机に頭がぶつかるのではないかとヒヤヒヤするほどに頭を下げる隣では、20代半ばにもなろうというのに不貞腐れるだけで謝ろうともしない(ボンクラ)息子。
(これ、本当に親子???)
同席したスタッフ全員が同じ事を考えた瞬間だった。
「佐々木さん、お父さん。外来でお話したこと、覚えてますよね?」
「え?外来で?…何でしたっけ?」
「…私は何も聞かされていないです。」
ここで再びスタッフ全員の心がひとつになった。
(ダメだこりゃ。)
「………。では改めて。この精巣腫瘍という病気は、塊を取っただけでは治りません。この時点で既に身体のあちこちに転移している可能性が非常に高いんです。ですから…」
「転移してないかもしれないっすよね?」
「その可能性が低い、と言ってるんですよ。ですからこの後は抗がん剤での治療が必要になります。」
「でも、今なんともねぇし金かかるし…。」
「先生の話を聞いてたのか?おそらく転移してるから治療しなきゃいけないって言ってるじゃないか!」
「いや、大丈夫だって!何ともないから転移してないって!」
「転移してても初期には何も症状は出ませんよ。治療しなければいずれあちこちで大きくなって症状が出た頃には手遅れになるんです。それがこの病気の恐ろしいところなんですよ。」
「えー…。」
それでもなお不満そうな表情の彼に、とうとう先生がキレた。
「わかりました。どうしても治療したくないとおっしゃるならそうしましょう。ただし、うちでは今後診察できません。入院中にこれだけ問題を起こした挙句に治療方針も理解されようとしないのでは、症状が出て手遅れになってから文句を言われる未来しか見えませんから。」
「先生、そんな…!」
「それで良いっすよ。良かったー、バイトクビにならずにすむわ!」
「お前は…!」
あまりの話の通じなさに、父親が絶句する。
私たちの諦めと絶望を知らぬまま、これで思い通りになると彼は喜んでいた。
結局、その翌日に抜糸を終えた彼は退院していった。
3年後。救急外来から電話が入った。出禁の患者が搬送されてきている、と。
病棟に上がってきても、最初は誰かわからなかった。浮腫で顔も身体も膨れていたから。
カルテを見て、ようやくあの時に治療せず出禁になった彼だとわかった。
CTでは後腹膜リンパ節がゴロゴロと腫大化して尿管を圧迫し、水腎症になっていた。肺にも多数転移していて、一部は気管支を押し潰し呼吸困難になっていた。
「…腎瘻入れて、化療出来るか…?」
それは、一か八かの賭けだった。水腎症が良くなって腎機能が残っていれば、回復は可能だったかもしれない。
全て台無しにしたのは、他でもない本人だった。
吐き気がするからと点滴を自己抜去し、邪魔だから、と腎瘻も抜いた。
説明に来た先生を怒鳴りつけ、部屋に来た看護師に手を上げた。
その日、父親に再び電話した。
3年前よりも窶れて、背の丸くなった父親は、やって来るとあの時のように深々と頭を下げた。
その夜からセデーションが開始された。
彼はもう点滴を抜くこともなく、暴れることもなく、何かを語ることもなかった。
そして1週間後。
物言わぬ彼と父親は病院を去っていった。
父親の背中は、あの日よりもさらに小さく見えた。
用語解説
精巣腫瘍
精巣(睾丸)に発生する腫瘍の総称。若年~中年男性に比較的多く、進行するとリンパ節や肺などへ転移することがある。
比較的治療成績は良いが、早期発見と適切な治療が重要となる疾患である。
水腎症
尿の通り道が何らかの原因で詰まり、腎臓に尿がたまって腫れてしまった状態。
強い痛みや腎機能低下を引き起こすため、原因の除去や尿の排出経路を確保する処置が必要となる。
後腹膜リンパ節
腹腔の奥、背骨の前方に広がる「後腹膜」と呼ばれる領域に存在するリンパ節。
精巣腫瘍などでは転移しやすい部位のひとつで、CTなどの画像検査によって腫大の有無が評価される。
腎瘻
尿路の通過障害がある場合に、皮膚から腎臓に直接チューブを挿入して体外へ尿を排出する処置。
水腎症の改善や腎機能を守る目的で行われ、一時的または長期的に留置される場合がある。




