さよなら、私のうどん(それでも食べるけど)
今夜はなんせ忙しかった。
午後からのオペ患が予想外の出血で帰室予定を二時間オーバー。バイタルチェックに夕飯の配膳に検温にと走り回って、気が付いたら消灯時間となっていた。
「はーいおやすみなさーい消灯でーす!」
「早いよー、現代人はもっと夜更かしだよー?」
「原始に戻って早寝早起きしましょうねー!」
「うー、見たいテレビこれからなのに…!」
「元気になったら好きなだけ徹夜でも夜更かしでもどうぞー。」
容赦なく部屋の灯りを落としていく。
こちとらこれから本番なんじゃ。さっさと寝てくれ。
消灯しながら点滴をチェック、重症者とオペ患の様子を見ていたらあっという間に22時だ。
手早く抗生剤を人数分ミキシングし、カートに載せて巡視に出る。抗生剤をつなぎながら巡視を終えてステーションに戻ると、ようやく交代で休憩の時間だ。
「千早ちゃん、先に入る?」
「すみません、6号室の方、点滴漏れちゃってて…。」
「あちゃー。そしたら主任は?」
「先にオペ患の記録したいから行ってきて。」
「わかりましたー。そんなら先にご飯食べて来ます。千早ちゃん、もしルート取るの難しかったら呼んでね。」
「はい!いってらっしゃーい。」
深く息を吐きながら休憩室に入る。今日のお供はペットボトルの麦茶とカップのきつねうどん。空きっ腹にダイレクトアタックしてくる香りに包まれながらお湯を注ぐ。
「あー…腹減ったぁ…。」
ひとりごちながら5分待つ。いよいよお揚げとご対面、さぁ食べるぞ!と箸を構えたところで、ナースコールPHSが鳴った。
「はい、どうなさいましたか?」
『すみません、足が痛くて…。』
「はい、伺いますね。お待ちください。」
うーん、術後の痛みだから鎮痛剤使った方が良いよなぁ…何にしよう?と考えながらカップうどんに蓋をして休憩室を出た。
カルテで指示を確認、坐薬、キミに決めた!と握りしめて患者さんの部屋にすべり込む。
「足の痛みって、傷のところですよね?」
「さっきまでは痛み止めなくてもいけると思ったんですけど…。」
「今の時期は痛みは我慢しないで良いですよ。坐薬持ってきましたから。」
「すみません…お願いします。」
やれやれ、うどん伸びちゃったかな…と思いながら戻ろうとしたところにへの字眉の千早ちゃんが。
…表情がすべてを物語っているね…。
「6号室だよね…物品揃ってる?」
「22ゲージ1本しかないので、取りに行くところです…。」
「血管見ておくから持ってきてくれる?」
「お願いします!」
小走りにステーションに向かう千早ちゃんと反対側、6号室へ行こうとすると、今度は顔をしかめた主任が。
「どうしたんですか?」
「8号室の山田さん、熱発してる…。」
「うぇえ…6号室のルート取ったら採血準備しましょうか?」
「そうね、指示出たらお願い。私は報告したらルート取るわ…。多分抗生剤始まるから。」
ああ。うどんが遠のいていく。
なんだかんだで休憩室に戻れたのは30分後だった。
目に入ったのは蓋で覆われたカップうどん(と麦茶)。
おそるおそる蓋を取ると…汁はすっからかんになっていて、うどんはむっちりもっちりと膨らんでいた。嫌な予感に震えながら箸を差し込み、うどんを持ち上げたら。
ぶちぶち、とカップに戻ってしまった。
ほどなくして休憩室に入ってきた主任と千早ちゃんが目にしたのは、絶望のあまり灰になった私であった。
用語解説
オペ患
手術後の患者を指す医療スラング。
バイタル(バイタルサイン)
主に体温、脈拍、血圧、呼吸の測定値を指す「生命の兆候」。これに酸素飽和度(SpO₂)と各種所見を合わせて体調の変化を把握することが多い。
ミキシング
点滴や注射に使用する薬剤を、決められた量・順序・組み合わせで準備(混合)する作業のこと。
抗生剤や制吐剤、電解質製剤などを患者ごとの処方内容に合わせて生理食塩水やブドウ糖液に溶かして調製する。
ルート
点滴や薬剤を投与するために血管内へ留置された針やカテーテルのこと。
多くの場合は腕や手の血管に確保する「末梢静脈ルート」を指すが、治療内容によっては中心静脈カテーテル(CV)やPICCなども含めて「投与経路」全体を意味して使われる。




