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眠り王子

 何度も何度もこみ上げては空っぽの胃からほんの僅かな胃液を吐き出して、それでも治まらない吐き気と戦う。戦わざるを得ない。

 制吐剤も限界まで使っている。それでもなお続く吐き気に、彼の精神はどんどん削られていった。


 初回の寛解導入の時は、まだ希望があった。

 地固め療法と合わせ5クールを終えて、骨髄から白血病細胞が消えたのを確認して、ご両親と抱き合って涙を流して喜んでいたのはたった1年前だったのに。


 再発を確認してすぐ、再寛解を期待して挑んだ治療だったが、その結果は思わしくなかった。

 家族を呼んで検査結果を伝えると、彼の表情は泣きそうに歪んだ。


「もういい…!もう治療したくない…!!」

「そんな、だってまだ1クールしか…」

「だって白血球、減ってないじゃないか!!」

「!!」

「治療が効いてるなら、もう白血球はとっくに下がってるはずだろ!…最初の時より辛かったのに、効果ないならやる意味ねえじゃん!!」


 魂の奥底からの叫びだった。

 治療の辛さだけじゃない、効果がなかったという「死へのカウントダウン」を目の前に突き付けられた絶望が、血を吐くような叫びとなって私たちに突き刺さった。


「だって…それじゃどうしたら良いの…!」


 彼の母親が泣き崩れた。初めて入院してからずっと心を砕いて、彼を支えようと必死に振る舞ってきた彼女。彼を支える、それが彼女を支えていたのだと思い知る。

 だが…まだ高校生の彼にはそんな事に思い至る余裕などなかった。


「どうしようもないだろ…だって…治療効いてないんだから…俺だって泣きたいよ!」

「落ち着け、二人とも。…お前も、泣いて良いんだ。」

「お父さん…!!」


 三人で抱き寄せ合って泣いているのを、ただ、見守る。私にもドクターにもそれしか出来なかった。


 しばらくして、父親が顔を上げて尋ねた。


「…家族で、話し合ってきても良いですか?」

「そうですね…今晩から外泊しましょうか。おうちで話し合った方が、ゆっくり出来るでしょう?」

「え、良いんですか?」

「良く話し合って、今後どうしていくか考えてきてください。」

「…はい。」


 そうして、三人は自宅へと一時帰宅した。


「…お母さん、やっぱり崩れちゃいましたね。」

「もうちょっとメンタル踏ん張れるかと思ってたんだけどなぁ。むしろお父さんがここに来てしっかりしてきたね。」

「最初はどこか他人事でしたもんね。あの時でしたっけ?やっとスイッチ入ったの。」

「あの肺炎の時だろ?遅いんだよな、気付くのが。」


 鼻にシワを寄せてフン!と息を吐くドクター。


「…ほんと、残念です…。2周目の初っ端でこんなに効きが悪いなんて…!」

「これだと、もし骨髄移植が適応だったとしても難しかったかもな。叩き切れなくて再々発コース。」

「そもそも論、ドナー適合者、いませんでしたしね…。」


 ナースステーションに重苦しい空気が満ちていた。

 こういうケースは、初めてじゃない。治療後の再発も、そもそも寛解すら出来なかったのも、治療中の副作用や合併症で亡くなるケースも山程見てきた。

 だけど。それで慣れられるもんじゃない。

 その人ごとに葛藤も悩みも苦しみも違っていて。

 直面する度に、私たちもまた翻弄されるのだ。どうしようもない無力感とやり切れない悲しみに。


 1週間後、彼らは病院に戻ってきた。


「もう、治療はしません。でも…寝かせてください。」

「…え?」


 聞いていたスタッフは全員が凍りついた。

 寝かせて、ください…?


「ネットで調べたんです。薬でずっと眠り続ける方法があるって。」

「…セデーション、のことかな…?」

「そう、だったかな。ね、お父さん。」

「確か、そうだったな。…息子と、1週間かけて決めたんです。息子は、起きて考えること自体が辛いと…。もう死ぬしかないと、それしか考えられなくなって自分が壊れてしまいそうだと。」

「ずっと、どうして、まだ死にたくない、何で他の人は生きていられるのに俺だけ!って考え続けちゃって苦しいんだ。もう何も考えたくない。」


 ドクターと顔を見合わせる。

 不可能ではない。痛みを抑えることが出来ない患者さんを対象に、そういった方法があるのも事実だ。

 だが。


「…そうすると、ご家族ともお話し出来なくなってしまいますよ?」

「…お母さんはどうお考えなのか、伺っても…?」

「…私は…私は………、っ!」


 母親はみるみるうちに涙を溢れさせ、言葉が出なくなってしまった。

 ハンカチで顔を押さえて肩を震わせる彼女に、痛ましそうな視線を向けて父親は答えた。


「妻は、答えを出せないと。ですから、私と息子の二人の意見で決めました。どうか、お願いします。」


 二人揃って頭を下げる様子に、私たちは頷くしかできなかった。


 3日後の午後。ご両親の同席を待って鎮静剤を開始することになった。

 薬液が満たされたシリンジをポンプにセットしてCV(中心静脈カテーテル)の三方括栓につなぐ。淡々とセッティングし終えると、彼とご両親に告げた。


「では、お薬を始めますね。」

「…よろしくお願いします。」

「眠くなるまで少し時間があります。…どうか、お話しを。」

「はい…!」


 三人が手を取り合って向かい合うのを見届けて、そっと退室した。


 その後、半年の間彼の身体は持ちこたえた。栄養はCVからの高カロリー輸液のみ。褥瘡予防に体位変換は欠かさず、週に2回は機械浴も行なった。ご両親は毎日訪れては手を握り、時間いっぱい彼の傍に寄り添っていた。


 いつからか、スタッフたちは彼を「眠り王子」とあだ名するようになった。

 あどけない眠り顔が有名なおとぎ話のように見えたからかもしれない。せめて彼の眠りが穏やかでいられるように、そんな祈りが込められていたのだろう。


 最後は敗血症ショックであっという間だった。

 誰もが覚悟を決めていたのに、それでも足りなかったと感じられるほどに彼の死は突然だった。

 最後、お見送りに出た私たちにご両親は深々と頭を下げた。「長いこと、ありがとうございました。」と。


 あれからもう何年も経った。

 それでも時々思い出す。

 正解はわからないまま、それでも寄り添ったあの時間を。


用語解説


白血病

骨髄で悪性の白血病細胞が無制限に増殖する「血液のがん」。急性と慢性、それぞれに骨髄性とリンパ性があり、性質や治療法が大きく異なる。

成人に多いのは「急性骨髄性白血病(AML)」で、強力な抗がん剤治療で白血病細胞が消失した状態(寛解)を目指す。その後、再発を防ぐために「地固め療法」を数コース(現在は3〜4回が主流)行う。

白血病細胞は全身の血液中を巡るため、手術による摘出はできない。かつては抗がん剤治療が唯一の武器だったが、現在は特定の異常を狙い撃ちする「分子標的薬」や、他人の血液細胞を入れ替える「造血幹細胞移植」などの選択肢が増え、不治の病ではなくなりつつある。


セデーション(鎮静)

耐えがたい苦痛(激しい痛み、呼吸困難、精神的な不穏など)がある際、鎮静薬を用いて意識レベルを下げ、苦痛を和らげる処置。

かつては「治療の断念」と結びつけられることが多かったが、現在は「苦痛緩和の一手段」として、患者の尊厳を守るためにガイドラインに基づき適切に行われる。終末期の激しい消耗を避け、穏やかな最期を迎えるための選択肢の一つ。

※安楽死とは異なり、命を縮めることを目的とした医療行為ではない。


中心静脈カテーテル(CV)

心臓近くの太い血管に留置する点滴用の管。白血病治療では強力な抗がん剤や頻繁な輸血が必要なため、鎖骨の下や首から挿入される。

近年は腕の血管から挿入する「PICC(末梢挿入型中心静脈カテーテル)」が用いられることもある。

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