夏の名残のミョウガ
ここは、都市部から程よく離れただだっ広い空き地ばかりが目立つ郊外に建てられた精神病院。
専門病院だけあって、鍵のかからない開放病棟、鍵のかかる閉鎖病棟それぞれに一般的な精神疾患、依存症、認知症と細かくフロアを分けられている。
その中でも閉鎖病棟にある依存症フロアであるここは、当然入院患者も依存症ばかりで、アルコールを筆頭に薬物の依存症も多種多様に入院している。
大抵の患者さんは思い通りにならない生活にイライラしたり、ボロボロのプライドを捨てきれずに周囲に当たり散らしたり…、世の中をすねた目で見て鼻で笑おうとする人がほとんどだった。…その世の中に適応できなかった結果、ここに入院する羽目になったわけだが。
このフロアに配属となった時、最初に言われた言葉がある。
「ここでは『これくらい』『ちょっとだけなら』『あなただけ、私だけ』は禁句です。守れなかったら、この病棟全体が崩壊する可能性まであると認識してください。」
最初は理由がわからず戸惑ったが…依存症を学び、患者さんに接していくうちにだんだんと理由がわかってきた。
「ねー、ちょっとだけ糊貸して。」
これに応じたら最後、ほぼ全ての患者が「あの人には貸したのに」を口実に糊を自分で買わずにスタッフにもらおうとしてくる。
もしくは「あの人は貸してくれたのに」。
これに対する正解は「自分で買ってください。」なのだ。
依存症が依存症たる最大の病理は、「酒や薬をやめられないこと」と同じかそれ以上に「価値観の変化と行動変容」であると言われている。
悩みや辛さを忘れるために酒を飲んだり薬を使ったりしていたはずが、次第に酒や薬を得るために行動するようになってしまう。
アルコール依存症の探索行動は有名だが、それ以外にも目的と手段が入れ替わり、「飲む・使うため」に何でもするようになる。
そして、それ以外の生活行動が覚束なくなってくると今度は他責的になっていく。そうして負のスパイラルが加速していくのだが。
そのご夫婦は、他のご家族や患者さんとはほんの少し違う雰囲気をまとっていた。
患者さん本人のダンナさんは、初期のアルコール性認知症のために物忘れがしばしば見られるものの、物腰はおっとりとしていて会話も穏やか。ミーティングや作業療法にもマジメに取り組むしスタッフの話もにこにこと良く聞いていた。
週に一回の面会に来る奥さまは、やはりおっとりと穏やかで…二人で面会している様子は、まるで縁側で日向ぼっこしている老夫婦そのものだったのだ。
彼がアルコール依存症になったきっかけにも要因はあるのかもしれない。5年ほど前に胃ガンが見つかり、亜全摘手術を受けた。幸いにもステージⅠの初期ガンだったため、術後のフォローアップでも再発や転移は見られなかった。
問題は、術前より少ない量のお酒で酔いが回るようになってしまったこと、そして…通常の倍の速さで飲酒のコントロールを失ってしまったことだった。
彼にとって幸いだったのは発症した年齢が70代と比較的高齢だったこと、年金生活のため資金が尽きれば酒が手に入らず飲めなくなる時期が生じたこと、そして、奥さまの存在だった。
「いやー、かかりつけのセンセイにも飲むなって言われてたんだけどねぇ。飲み始めるとやめられなくなっちゃうんだよ。」
「そういう病気ですからねぇ。」
「カミさんもね、飲むなら自分の財布持って自分で買いに行けーって。酔っぱらってようがシラフだろうが、用意してくれたことないんですよ。」
「あら、それは素敵な奥さまですね!」
「いつもは優しいんだよ。でも酒のことになると甘やかしてくんないんだよなあ。」
「サイコーじゃないですか!」
「今となっちゃそうだねぇ。カミさんに感謝だよ。」
そんな彼が断酒会に参加を決め、退院するにあたっての家屋調査と家庭訪問を行うこととなった。
退院する先がどんな環境なのか、生活の様子や立地を把握して退院指導に盛り込むためだ。
奥さまと相談して決めた訪問当日。
伺う予定の私とソーシャルワーカー、臨床心理士が準備をしていると、ご本人が声をかけてきた。
「今日、うちでカミさんと話してくるんだろう?よろしく頼みますよ。」
「こちらこそ。」
「そんでね、多分うちで漬けた漬物出せてくれると思うんで、ぜひ食べてやってください。カミさんの漬物、ホントに美味いんです。」
「わ、ご自分で漬物なさるんですね!楽しみにしてます!」
「そいじゃ、よろしくお願いします。」
三人で病院を出てからワーカーさんが運転する道中、漬物の話で盛り上がった。
「漬物って、種類もたくさんあるけど何作ってらっしゃるんだろう…?」
「定番なら白菜とか、大根とか?浅漬けもあるし塩漬けも糠漬けもあり得るよね。」
「あれ、同じ作り方でも違う味になるって不思議だよねぇ。」
そしてたどり着いたご自宅は、昭和の香りが漂う、二間に台所と風呂、トイレという簡素でレトロな…古びたアパートの二階だった。
チャイムを鳴らすと、程なく奥さまが出迎えてくださった。靴を脱いだら持ってきたスリッパに履き替えて中にお邪魔する。
奥さまのマメな手入れで保っていられるのであろう年季物のちゃぶ台には、お茶の用意がされていた。湯飲みに注がれた緑茶に菓子鉢のせんべい、そして。
「これ、ダンナさんから伺いました。手作りのお漬物って…。」
「あらやだ、お父さんったら。お恥ずかしいけど、糠漬けなんですよ。ダイコンとキュウリと小茄子と、あとこれね、ミョウガなの。あんまり他の人はやらないみたいなんだけど、夏はどうしてもこれが食べたくなっちゃって。よかったら皆さんどうぞ。」
深皿に丁寧に切って盛られた糠漬けたちはそりゃもうツヤツヤで。香りも素晴らしく、すぐにでもいただきたかったが。
ここには仕事に来たのだ。頑張れ私。誘惑には負けない。
「ご用意くださってありがとうございます。でも、お話しながらだとしっかり味わえないと思うので、先に用事を済ませてしまいませんか?」
「あらまぁ!ごめんなさい、お仕事の邪魔になっちゃうわね。じゃ、お話からお願いします。」
そして、生活の様子やご自宅での本人の過ごし方、近隣のお店の情報や良く行く場所などを伺って共有した。今後の治療や生活を方向付けるだけの内容は充分に把握できた。
そして待ちに待った糠漬けである。ダイコンもキュウリも小茄子も実に美味しそうなのだが、少しだけ私が警戒したのが、ミョウガだった。
元々ミョウガは得意ではなく、避けられれば避けたい食材だったのだが…。
「うわ…!ダイコンうんま!え、キュウリもちょっとシナシナなのに歯ごたえちゃんとある…!」
「ナス、ジュワって旨味ヤバい…!こんな美味しい糠漬け初めてかも…!」
「良かったら、ミョウガも食べてみて?夏しか漬けられないから…。」
ここまで言われては食べないわけにはいかないだろう、と勇気を出して縦半分に切られたミョウガを口にすると…!
「え。何この味!こんな美味しいミョウガの食べ方知らなかった!!」
「お口にあって良かった。今の糠床、二十年も継ぎ足しながら漬けてきたからそのおかげかもしれないわね。」
「「「二十年?!」」」
「年寄りだから他にやることないのよ〜。」
「いや二十年前は年寄りじゃないですって…!」
思わず心理士さんがこぼしたツッコミに全力で頷いた。
このご夫婦の過ごしてきた年月をずっと傍らで見てきたのだろう糠床。だからこそ出せた味なのだと、何故か強くそう思った。
そして、その日から私たち三人は大のミョウガ好きになってしまった。
退院したあと、時々医療従事者として参加する断酒会ではご夫婦揃っていらしているのをたびたび目にした。いつも仲良く連れ添っておられて元気そうにしていた彼を、数年後の夏に、今度は熱中症で再び救急車で受け入れる羽目になるのはまた別の話。
用語解説
断酒会:
アルコール依存症の当事者とその家族が集まる自助グループ。体験談の共有や相互支援を通じて、断酒の継続を目指す。医療従事者も参加して支援することがある。
共依存:
依存症患者の家族が、過度に世話を焼いたり問題を肩代わりすることで、かえって依存症を悪化させてしまう関係性。本作の奥さまのような「突き放しつつ見捨てない」という理想的な距離感を保つのは意外と難しい。




