21.若き領主フリューゲル……④
ミューラーは握手を解き、白い中折れ帽を被り直した。汚れたスーツのままでも、その仕草だけは、妙に絵になっていた。
直後、緊張を打ち破るかのように、扉が控えめに叩かれた。
「お支度が整いました」
侍女の声に続いて、扉が開くと、入ってきたのは1人の麗しい令嬢だった。
淡い若草色のドレスが、歩く度に柔らかく揺れる。泥と油に汚れていた頬は白く洗われ、淡い薔薇色の髪は、きれいに結い上げられていた。首元には、小さな宝石が赤く煌めいている。
鉱山惑星の公示に添付されていた、あの肖像。それが、そのまま絵から抜け出してきたようだった。
ミューラーは、口を開けたまま固まった。
「……えっと、閣下……この方はどちら様で?」
最初に出てきた言葉がこれだった。
直後、令嬢の眉がぴくりと跳ねた。
「はぁ!? テメェ何ほざいてやがる! さっきまで一緒にいただろうが! 目ぇ腐ってんのか、コルァッ!」
ドレスの裾を蹴り上げるように一歩踏み出し、ミューラーの胸倉に手を伸ばしかけたその瞬間。
視界の端に、執務机の前に立つ青年の姿が映った。
ジークリットの手が、空中で止まった。
「……っ!?……」
ゆっくりと、手が下り、背筋が伸びる。裾を整える。顎を引き、目を伏せる。
数秒前までの山猫は、どこにもいなかった。
「……大変、失礼いたしましたわ。長旅の疲れで、少々取り乱してしまいましたの」
声が、わずかに上ずっていた。耳まで真っ赤だった。
エーリッヒは、ほんの少しだけ目を細めた。
「ここまでの長旅でしたが、お元気そうで何よりです、ジークリット嬢」
咎める響きは、どこにもなかった。
呆れているのでも、笑いをこらえているのでもない。ただ、目の前の少女が無事に……極めて元気に……そこにいることを、そのまま受け容れている声だった。
「ドレスも、よくお似合いです……もっとも、先ほどの作業着も、貴女らしくて私は嫌いではありませんでしたが」
「エーリッヒ様……」
ジークリットは、それ以上何も言えずに、もう一度深く膝を折った。
ミューラーは、笑顔を浮かべて言葉を交わす婚約者達を少し離れたところから眺めていた。
山猫の地金が剥き出しになった瞬間を見ても、眉一つ動かさない。取り繕った令嬢の顔も、作業着の顔も、どちらも丸ごと受け止める。
――そりゃ、そうだよな……
帽子のつばを少し降ろして、ミューラーは小さく呟いた。
「……絶対、こっちの方がいいじゃねぇか……」
『こっち』とは、もちろん自分のことではない。
この少女の隣に立つ男として、という意味だった。
根無し草の自由商人と、星をまるごと背負う若き領主。比べるまでもない。初めから、答えは出ている。
『船長とは、器が違いますね』
ナターシャが、隣で淡々と言った。
「……ちげぇねぇ……」
ミューラーが小さく答えると、ナターシャの表情に変化が浮かんだ。珍しく意外そうな表情を浮かべている。
『驚……船長にしては意外な反応でした……貴重なので記録しておきます』
「うっさい……」
その時、エーリッヒの視線が、一瞬だけ向けられた気がした。だが、気のせいだったのかもしれない。青年はすぐに、ジークリットへ向き直っていた。
◇ ◇
エーリッヒは、応接用の長椅子を2人に勧めた。
ジークリットが腰を下ろす。ドレスの裾を整える手つきに、迷いはない。ミューラーはその向かいに、汚れた白いスーツのまま腰掛け足を組んだ。ナターシャは、その背後に控えて立った。
「まずは、記録を取らせてください」
エーリッヒが呼び鈴を鳴らすと、書記官が端末を抱えて入ってきた。
「ジークリット嬢。貴女がアイゼンシュタットを出た経緯を、お聞かせ願えますか? ミューラー殿との約定がありますので、正式な記録として残します」
ジークリットは、ちらりとミューラーを見た。ミューラーが右手を指し伸ばして促すと、背筋を伸ばして書記官に向き直った。
父が病に倒れたこと。
政務を執政フンヴェに任せるようになったこと。
いつの間にか、行政も治安部隊もフンヴェの言葉で動くようになり、父が館に閉じ込められたこと。
外に助けを求めても、すべてフンヴェに筒抜けになり揉み消されること。
だから、自分の意思で館を抜け出し、自分の意思で『シュヴァルベ』に乗り込んだこと。
全部、『シュヴァルベ』の艦橋で、ぶっきらぼうに……あちこちに飛びながら……話したのと、同じ中身だ。しかし、その言葉はまるで違った。順序立てて、要点を押さえ、余計な感情を挟まない。
一つ一つの事実を、記録に残る形で正確に並べていく。船の中とは大違いだった。
――こいつ、こんな話し方もできたのか……
ミューラーは、黙って聞いていた。
ただ、父親のことに触れるときだけ、ジークリットの声が、ほんのわずかに硬くなるのが分かった。「父は」と言うたびに、膝の上で重ねた指先に、力がこもる。
「ミューラー様は、誘拐犯などではございません。私が勝手に乗り込んで、ご迷惑をおかけしただけですわ」
「記録いたしました」
書記官が一礼して下がる。
エーリッヒは、ミューラーのほうを向いた。
「少なくともエルケの領内では、貴殿が誘拐犯として扱われることはありません。約定の1つ目です」
「助かります」
これで、首の皮が1枚つながった。
「では、エーリッヒ様」
ジークリットが、わずかに身を乗り出した。
「父を……助けていただけますの?」
エーリッヒは、すぐには答えなかった。
しばらく考えてから、静かに口を開いた。
「アイゼンシュタット閣下を救い出す必要があることは、私も同じ考えです。ですが、エルケの軍を、他の惑星へ直接送ることはできません」
「……理由を……承っても……?」
「他領への軍の派遣は、侵略と見なされます。たとえ目的が救出であっても、です。周辺の星々は、エルケがアイゼンシュタットの混乱に乗じて、鉱山を奪いに来たと受け取るでしょう」
「されど……父は館に閉じ込められていて……」
「分かっています」
「分かっていらっしゃるなら、どうして……」
ジークリットの声が、震えた。
「どうして、見殺しに……するんだよ……」
最後の一言だけ、令嬢の言葉が剥がれ落ちた。
ジークリットは、はっとして口元を押さえた。けれど、出てしまった言葉は戻らない。
執務室が、水を打ったように静まり返った。




