19.若き領主フリューゲル……②
泥まみれの作業着のまま完璧な礼をとる少女を前に、ミューラーの口は、頭より先に動いた。
「お前……うちの船の飯が合わなくて、ついに頭までおかしく……」
そこまで口にした瞬間、太腿に鋭い衝撃が走った。
「……っ!」
ジークリットの踵だった。
膝折礼の姿勢はそのまま。頭は垂れたまま。表情はおろか、肩ひとつ動いていない。ただ、作業着の裾の陰で、片足だけが正確にミューラーの太腿を捉えていた。
ミューラーは声を飲み込み、白いスーツの膝をさすった。
『被害状況報告……右大腿部への打撃を確認しました。頭突き、港での未遂1回を含め、3回目です』
「数えなくていい……」
エーリッヒは、そのやり取りを見ていなかった。
見ていなかったのか、見ないことにしたのか。どちらにしても、彼の視線はまっすぐジークリットにだけ注がれていた。
青年は机を回り込み、少女の前まで歩み寄った。
「顔を上げてください、ジークリット嬢」
少女が、そっと顔を上げる。
エーリッヒは、泥の跡が残るその頬を見て、ほんのわずかに目を細めた。
「とにかく無事で良かった……」
責める響きは、欠片もなかった。
ジークリットの唇が小さく震えた。何か言いかけて、言葉にならず、もう一度だけ深く頭を下げた。
ミューラーは、太腿をさすりながら、その小さな背中を眺めていた。ずっと強張っていた少女の肩から、ようやく、ほんの少しだけ力が抜けていくのが分かった。
エーリッヒは、机の上の呼び鈴を鳴らした。
間を置かず、扉が開いて、初老の秘書官が姿を見せた。執務室に見知らぬ3人がいることにも、本棚がずれていることにも、眉一つ動かさない。
「本日以降の予定を、すべて組み直します」
「畏まりました」
「午後の農政評議会は、議長に代理を。明日の視察は延期。来週の通商交渉は、こちらから先方に連絡を入れて、日程の再調整を。理由は『領主の急病』で構いません」
「急病、でございますか」
「嘘ではありません。頭が痛いのは事実です」
秘書官は一礼し、端末に指を走らせた。エーリッヒは別の端末を引き寄せ、関係各所への通信文を、口述で次々と作らせていく。
評議会、視察、交渉、軍の定例報告、港湾局への照会。山のようだった予定が、見る間に片づき、空いた枠が、一つの用件のために並べ替えられていく。
迷いがない。言葉に無駄がない。誰に何を任せ、何を自分の手に残すか、すべて最初から決まっているかのようだった。
――商会でも始めたら、あっという間に業界を席巻するんじゃねぇのか、この男……
ミューラーは、内心で舌を巻いた。
自分が3日かけて組む商談の段取りを、この青年は3分で組み終えている。
「それから、侍女を」
「すぐに」
ほどなくして、年若い侍女が2人、執務室に入ってきた。
エーリッヒは、ジークリットに向き直った。
「長旅で疲れたでしょう。まずは湯を使って、着替えてください。話はそれからゆっくり伺います」
「……お心遣い、痛み入りますわ」
ジークリットは、もう一度、優雅に膝を折った。
侍女に付き添われて扉へ向かう。その途中で、ちらりとミューラーを振り返った。
令嬢の顔のまま、唇だけが、音を立てずに動いた。
――余計なこと言うなし!
扉が閉まった。
執務室に残されたのは、白いスーツの汚れた男と、白い中折れ帽を胸に抱えた秘書姿のアンドロイド、そして若い領主だけだった。
「さて、ミューラー殿」
ミューラーは、思わず鼻白んだ。
名乗った覚えはない。だが、港からの報告に添えられていたのは、見習いの顔だけではなかったらしい。
この青年は、本棚の裏から転がり出てきた泥まみれの3人のうち、白いスーツの男の名前を当たり前のように口にした。
――何もかもお見通し……って訳だ……
普通なら、ここで肝が冷える。
だが、不思議なことに、ミューラーの心は却って静まっていった。
相手がどこまで知っているか分からない内は、手札の切り方に迷う。ハッタリをどこまで盛るか、どこで引くか、そればかり考えて汗を掻く。
けれど、全部知られているなら話は早い。隠す手間が省ける分、勝負は値札の付け方だけになる。
――上等だ……
ミューラーは、口の端をほんのわずかに吊り上げた。
ここから先は、商人の土俵だ。
そう思った直後、エーリッヒはミューラーの前に立ち、深く頭を下げた。領主が、一介の商人に。
「まずは感謝を。ジークリット嬢を……我が婚約者を……ここまで無事に送り届けてくださった行動には厚く報いたい」
――何……?
しかし、ミューラーが返事をする前に、エーリッヒは顔を上げた。
「ところでミューラー殿……」
声の温度が、一段下がった。
さっきまでジークリットに向けていた穏やかさは、どこにもない。目の前にいるのは、星ひとつを背負う統治者だった。
「貴殿の目的は奈辺にあるのか、お聞かせ願いたい」
「目的……と、仰いますと?」
「アイゼンシュタットの港は、あの日、貴殿の船にだけ出港を許した。そして貴殿の船の貨物区画には、レオナートが400トン積まれている」
エーリッヒは、まっすぐにミューラーの目を見た。
「そのレオナートを、貴殿は、どうなさるおつもりか?」
一瞬だけ、背筋が冷えた。だが、名を呼ばれた時ほどの驚きはもうなかった。
税関には、積荷の目録を出した。だが、鉱山惑星で出港許可がこの船にだけ下りたことまでは話していない。
この男は、最初から全部見ている。
ジークリットのこと。
船のこと。
そして積荷のこと。
本棚の裏から転がり出てきた3人を見て、頭を抱えていた手を下ろしたあの瞬間から、ずっと値踏みしていたのだ。
――ハッタリが効く相手じゃねぇな……
税関の役人の時と同じだ。いや、それ以上だ。
ミューラーは、一度だけ息を吐いた。汚れた白いスーツの襟を正す。ナターシャの腕から中折れ帽を受け取り、胸に当てた。
「もちろん販売するのですよ、閣下」
まっすぐに、若い領主の目を見返す。
「俺は自由商人です。物を仕入れて、運んで、売って、代金を受け取る。それ以上でも、それ以下でもない。あのレオナートは、正規の手続きで、正規の書類を揃えて買った荷です。採掘許可証も、精錬記録も、輸出許可証も、全部照合して、照合した時刻まで記録してある正規品ですよ」
『記録は、すべて保存しています。必要でしたら、直ちに提出いたします』
ナターシャが、静かに言い添えた。
「閣下が何を疑っておられるのかは、概ね察しがつきます。ですが、俺は運び屋の真似事はしても、盗人の片棒は担がない。それが、自由商人の矜持ってもんです」
エーリッヒは、しばらく黙ってミューラーを見ていた。
ミューラーも、目を逸らさなかった。
メイクの下で、背中を冷や汗が伝っていく。それでも、笑みだけは崩さなかった。




