18.若き領主フリューゲル……①
フリューゲル家の屋敷は、街外れの丘の上にあった。
手入れの行き届いた庭。蔦の絡む古い石塀。その塀の、裏手の一角に、ジークリットは迷いなく足をかけた。
作業着の少女は、まるで猫のように、するすると塀を登っていく。張り出した枝に手をかけ、反動をつけて、向こう側へ音もなく消えた。
塀の上から、顔だけ出して手招きする。
「ほら、早く」
「……簡単に言いやがる」
ミューラーは塀を見上げた。白いスーツ。白い中折れ帽。磨き上げた革靴。どれも、塀を越えるためのものではない。
『船長。お手伝いします』
ナターシャが、タイトスカートのままミューラーの背後に立った。
「お前、その格好で……」
言い終わる前に、身体が浮いた。
ナターシャは、船長の腰のベルトを片手で掴み、荷物でも扱うように持ち上げると、軽く跳躍して塀の上に乗った。そのまま、向こう側へ着地する。
「……おい」
『告……最も効率的な方法です』
「俺の威厳ってもんを考えろ!」
『解……商談の予定はありませんので、問題ないと判断しました』
ジークリットが、塀の陰で腹を抱えて震えていた。
庭の奥、苔むした石の祠の裏に、錆びた鉄の蓋があった。ジークリットが指をかけて引くと、湿った冷気と、黴の匂いが吹き上がってくる。
闇の中へ、古い石段が続いていた。
「ここだよ」
「……マジかよ」
地下通路は、大人一人がやっと通れるほどの幅だった。天井は低く、壁からは水が染み出している。ナターシャのヘッドセットの青い光だけが、足元を照らしていた。
ミューラーは身を屈め、壁に肩をこすり、天井の蜘蛛の巣を顔で受け止めた。
「……スーツが汚れるじゃねぇか」
『クリーニング費用は、概算で32ユニーです』
「そういう問題じゃねぇ!」
『帽子は、私がお預かりします』
ナターシャは、白い中折れ帽をそっとミューラーの頭から取り上げ、自分の胸に抱えた。帽子だけは、埃ひとつ付いていない。
「……そっちを守るのかよ」
『是……白い中折れ帽は、汚れが落ちにくい素材です。スーツより優先度が高いと判断しました』
先を行くジークリットが、くすくすと笑う声が、通路に反響した。
ジークリットの足取りは、迷いがなかった。
子供の頃、退屈しのぎに何度も潜り込んだ道だ。あの頃は背を伸ばしたまま歩けた天井が、今は少し屈まないと頭をぶつけそうになる。それだけ時間が経ったのだと、妙なところで思い知らされた。
やがて突き当たりが近づくにつれて、ジークリットの口数は減っていった。
――エーリッヒ様に、何て言えばいい……
作業着は泥と油まみれ。髪はぼさぼさ。おまけに、得体の知れない商人とアンドロイドを連れて、本棚の裏から現れようとしている。
ジークリットは一度だけ立ち止まり、深く息を吸った。
吐き出す息と一緒に「アタイ」という言葉を胸の奥にしまい込んだ。
◇ ◇
通路の突き当たりは、石の壁だった。
ジークリットが、壁の一角の石を、迷いなく押し込む。低い音を立てて、壁の一部が横にずれた。
隙間から、柔らかな灯りが漏れてくる。その向こうは、壁一面の本棚の裏側……執務室だ。
大きな机に、書類が山のように積まれている。
机の上の端末には、鉱山惑星アイゼンシュタットの星図が映し出されている。
その奥で、1人の青年が、両手で頭を抱えていた。
やがて、本棚がギィと音を立てて動き、青年が顔を上げる。
本棚の隙間から現れたのは、泥と油に汚れた作業着の少女。その後ろに、蜘蛛の巣を肩に乗せた白いスーツの男。そして、白い中折れ帽を大事そうに胸に抱えた、濃紺のスーツの美女。
青年は、しばらく黙って3人を見ていたが、やがて深く、静かに息を吐いた。
「やれやれ……これは当家の防護体制を、見直さねばなりませんね」
青年は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
すらりとした長身。落ち着いた物腰。飾り気のない上着の襟元に、領主の紋章が小さく光っている。
「事情は、手の者から聞いています。アイゼンシュタットの執政府が、貴女の誘拐を公示したことも。高速武装商船が1隻、厳戒下の港から出ていったことも」
青年は、そこで一度言葉を切った。
「そして、その船が今朝、我が港の第3バースに入港したことも。乗員名簿にない『見習いのジーク』が、乗っていたことも」
ジークリットの肩が、跳ね上がった。
「バ……バレてた……っ!?」
思わず素の声が出た。
税関の照会は「該当なし」だった。息を詰めて、作業着の裾を握りしめて、やっと抜けたはずだった。
「照会には、何も出なかったでしょう。手配は回っていないのですから」
エーリッヒは、穏やかに言った。
「ですが、港から上がってきた報告に、作業着の見習いの姿が添えられていました。幼い頃から存じ上げている方の顔を、私が見間違えるとでも?」
ジークリットは、口を開けたまま固まった。
ミューラーも、内心で舌を巻いた。
他星系へは手配を回していない、とナターシャは言っていた。この若い領主は、手配など待たずに、自分の目と耳で掴んでいた。
「明朝には、迎えの者を船へやるつもりでおりました」
「……は?」
「まさか、本棚の裏からお見えになるとは思いませんでしたが……」
彼は穏やかな笑顔を浮かべていた。衛兵を呼ぶでもなく、護身用の武器を取り出す訳でもない。まるで、何が起きても驚かぬと、初めから決めていたかのように。
『補足します。本日の侵入は、不要だった可能性があります』
「言うな」
ミューラーは、蜘蛛の巣の乗った肩を払いながら天を仰いだ。
その時だった。
隣に立っていた作業着の少女が、すっと背筋を伸ばした。
泥のついた作業着の裾を、ドレスのそれのように指先でつまむ。片足を斜め後ろに引き、膝を折り、頭を垂れる。
一分の隙もない、完璧な膝折礼だった。
「エーリッヒ様。このような出で立ちで、御前に参じますご無礼を、どうかお許しくださいませ……そして、ご心配をおかけいたしましたわ」
声まで、違った。
低くて、柔らかくて、一つ一つの言葉が丁寧に磨かれている。
ミューラーは、自分の耳を疑った。
つい昨日まで、艦橋の床に寝転がって「ケチ!」と笑い、「じゃじゃ馬って言うなし」と噛みついていた小娘と、同じ口から出てくる言葉とは、とても思えない。
『告……ジークリット様から言語様式の切り替えを確認しました』
ナターシャが、小さく報告した。
ミューラーは、口を半開きにしたまま、隣の少女を見下ろした。
泥まみれの作業着。ぼさぼさの髪。それなのに、背筋の伸びたその姿は、どこからどう見ても、星ひとつを継ぐ領主の娘だった。
――何なんだ、こいつは……




