15.領主の娘……④
その翌朝。
『シュヴァルベ』の「朝」は、通路の照明が夜間の青から、ほんのり暖かい白へと切り替わることで告げられる。床を磨くドロイドたちが、ぱちりと光の目を瞬かせながら、艦橋の隅を行き来していた。
艦橋の床に寝転がって星図を眺めていたジークリットに、ミューラーが声をかけた。
「おい、じゃじゃ馬」
「じゃじゃ馬って言うなし!」
「お前、箱入りにしちゃ、マジで口が悪いな」
「……ガキの頃から、館抜け出して、下町の連中とつるんでたから」
「それで、アタイか……」
「悪りぃかよ!」
「悪かねぇよ。ただ、令嬢が館の塀をよじ登るってのは、なかなかの絵面だ」
「ビビッてねぇし、慣れてるし」
ジークリットは、ほんの少しだけ得意げに言った。
ミューラーは、呆れたように鼻を鳴らした。この男は、自分を「ジークリット様」と呼ばない。「お嬢様」とも呼ばない。領主の娘だと分かってからも、扱いはまるで変わらなかった。
「小娘」、「じゃじゃ馬」と呼んで、高貴な身分には、まるで敬意を示さない。
腹が立つ……腹が立つのに、何故か、それが少しだけ心地よかった。
「で? 結局どこ行くんだよ?」
ミューラーは答えず、船長席の端末に向かった。
「ナターシャ。現在位置からエルケまでの所要日数と、追加の費用を出せ」
『了……所要日数は4日。推進剤および機関エネルギーの追加費用は、約41万ユニーです。先日の離脱で航路が外れたため、当初の試算より3万ユニー増えています』
「チッ……3万増えてやがる」
ミューラーは頭をがりがりと掻いて、ジークリットに向き直った。
「このままトレーダーには戻れねぇ。戻ったら俺が捕まる。誘拐犯の嫌疑を晴らすには、お前さんに自分の意思で逃げてきたって証言してもらうしかねぇ……」
眉根を寄せるミューラーを見て、ジークリットの瞳に輝きが点る。
――待って、自分の証言がなければ、誘拐犯のままってことじゃん!
つまり、今この船で一番立場が強いのは、アタイじゃん!
ジークリットは、ゆっくりと身を起こした。床に寝転がっていた時とは別人のように、補助席にふんぞり返って脚を組む。口の端が、にやりと吊り上がった。
「ふーん……証言、ねぇ」
「……何だ、その顔は?」
「別にぃ? ただ、アタイがひと言『この人に誘拐されました』って言えば、アンタ一発で牢屋行きなんだなーって……」
「…………」
「証言してほしけりゃ、まずエルケまで連れてくこと。それから、飯はもっとマシなもん出すこと。あと、アタイのこと『じゃじゃ馬』って呼ぶの禁止な」
指を折りながら、ジークリットは得意満面で条件を並べた。
ミューラーは黙って聞いていた。聞き終えると、ひとつ頷いた。
「なるほど。取引ってわけだ」
「そ。商人なんだろ? 分かるよな?」
「分かるとも」
ミューラーは、にっこりと笑った。
メイクをしていない地味な顔で、商談用の笑顔を作る。妙に迫力があった。
「取引なら、まず清算からだ。ナターシャ、こいつの未払い分を読み上げろ」
『了解しました。無賃乗船分の運賃、離脱時の推進剤および機関エネルギー費の按分、被弾箇所の修理費の按分、食費。現時点での請求額は、合計で……』
「ちょ、ちょっと待て!」
『……以上です。エルケへの航路変更を含めた場合、さらに約41万ユニーが加算されます』
「条件を出すなら、それを今すぐ払え。払えたら、飯でも呼び方でも、好きなだけ聞いてやる」
「……っ、ちょっと待てよ」
ジークリットは、組んだ脚をほどかずに食い下がった。ここで引いたら負けだ。
「アンタ、さっき追手に言ったよな。『俺の船に乗った客』って。客なんだろ、アタイ。客なら運賃は着いてから払うのが普通じゃん」
「後払いってのはな、払う当てのある客にだけ通用するんだよ」
ミューラーは、眉ひとつ動かさなかった。
「前金なしで荷を運ぶのは、信用取引だ。お前さん、その信用を担保するもんを何か持ってるか?」
「アタイは領主の娘だぞ。信用なら……ある」
「その領主の娘は、今、誘拐の被害者として星系中に手配されてる。身分を証明する書類もねぇ。着てる作業着も借り物だ。それに、親父さんの財布は、今はフンヴェが握ってるんだろうが」
「ぐ……」
「担保にならねぇよ」
ジークリットは、唇を噛んだ。それでも、まだ引かなかった。
「じゃ、じゃあ、証言そのものが担保だ! アタイが証言しなきゃ、アンタは困るんだから……」
「それは悪手だ。お前も困る」
被せるように言われて、ジークリットは言葉に詰まった。
「お前が証言しなきゃ、俺は誘拐犯のままだ。だがな、お前のほうも『誘拐された令嬢』のまま、執政府に連れ戻されるだけだ。困るのは俺だけじゃねぇ」
ミューラーは、指を1本立てた。
「双方に利がある取引で、片方だけが条件を吊り上げる。そういうのを商売の世界じゃ『足元を見る』って言うんだよ。いちばん嫌われるやり方だ」
『補足します』
ナターシャが、淡々と口を挟んだ。
『現時点で、ジークリット様の交渉材料である「証言」は、本船にとってと同等以上に、ジークリット様ご自身にとって必要なものです。交渉上の優位は、成立していません』
「ナターシャまで……!」
「残念だったな、じゃじゃ馬。こちとら、海千山千の連中と、毎日こういう話をしてんだ」
「…………」
ジークリットの脚が、そろそろと組み直された。
財布どころか、着ている作業着さえ借り物だ。払う宛など、どこにもない。
ぐうの音も出なかった。
「……後で払う」
「知ってるよ」
ミューラーは鼻を鳴らし、船長席の端末に向き直った。
「エルケへ行く。お前の大事なエーリッヒ様に、きっちり話を通しにな」
ジークリットが、目を丸くした。
「……え、行くの? アタイ、払えねぇって今……」
「だから、運賃は『後で』きっちり払ってもらう。推進剤代41万、修理費15万、食費1日3ユニー、迷惑料は別途請求だ」
「迷惑料って何だよ?」
「俺が誘拐犯呼ばわりされた分と、腹に頭突きを食らった分と、今の生意気な条件を聞かされた分だ」
ジークリットは、ぽかんと口を開けた。
それから、堪えきれなくなったように、吹き出した。
「あはは! 何それ、ケチ臭ぇ!」
「バカ言え! これも商売だ」
「ケチな上に、地味!」
「地味は関係ねぇだろうが!」
ジークリットは、腹を抱えて笑った。この船に乗ってから、初めての笑い声だった。
ナターシャのヘッドセットの光が、心なしか柔らかく明滅した。
――何だよ。年相応にちゃんと笑えるんじゃねぇか……
ミューラーは、口には出さずにそう思い、「フン!」と再び鼻を鳴らして前を向いた。
「ナターシャ。針路、エルケ」
『了解しました針路、惑星エルケ』
『シュヴァルベ』は、ゆっくりと艦首を巡らせた。




