14.領主の娘……③
「その言葉……二度と口にすんじゃねぇ……次ほざいたら、マジで放り出すぞ」
怒鳴った顔ではなかった。追手の船に「断る」と言ったときと同じ、冷え切った目だった。
ただ、その奥に、もっと別の何かがあった。
しかしジークリットには、それが何なのか分からなかった。
「……な、何だよ……冗談に決まってんだろ……」
声が、情けないほど小さくなった。
ミューラーは答えなかった。
繕いかけのジャケットを掴むと、黙って艦橋を出ていった。
扉が閉まる音が虚しく響き、 残されたジークリットは、補助席の上で、膝を抱え直した。
「……何だよ、あいつ……」
ナターシャは、オペレーション席で前を向いたまま、何も言わなかった。ヘッドセットの青い光だけが、ゆっくりと明滅していた。
艦橋に、空調の低い音だけが残った。
ジークリットは膝を抱えたまま、閉じた扉を睨んでいた。
――冗談だって言ったじゃんか……
そう思おうとした。けれど、さっきの目が、頭から離れない。
怒っている目ではなかった。もっと深いところで、何かが凍りついている目だった。下町で喧嘩ばかりしていた頃にも、あんな目をする大人は見たことがない。
謝ったほうがいいのかもしれない。
そう思った途端、胸の奥がむず痒くなった。何に謝ればいいのか分からない。分からないまま「ごめん」と言うのは、負けを認めるみたいで嫌だった。
館を抜け出すたびに、父親と言い合いになった。言い過ぎたと思っても、最後まで謝れなかった。そのうち、顔を合わせることさえなくなった。
――アタイ、いつもこうだ……
ジークリットは、膝に額を押しつけた。
◇ ◇
ミューラーが艦橋に戻ってきたのは、1時間ほど経ってからだった。
袖の破れは、きれいに繕い終わっていた。
両手に、マグカップを2つ持っている。片方を、黙ってジークリットの前に置いた。湯気の立つ、薄い茶色の液体。港で一番安い合成コーヒーの匂いがした。
「……すまん」
ミューラーは、ジークリットの顔を見ないまま言った。
「さっきは、言い過ぎた……大人げなかった」
それだけだった。
理由は言わない。何に怒ったのかも言わない。言い訳も、説明もしない。
ジークリットは、マグカップを両手で包んだ。
――何か言わなければ……
そう思った。「いいよ」とか「アタイも悪かった」とか、言うべき言葉はいくらでもあるはずなのに、喉のところで全部支えて、出てこない。
「……別に」
やっと出てきたのは、それだけだった。
ミューラーは小さく頷き、自分のマグカップを持って船長席に座った。
2人とも、それきり黙っていた。
合成コーヒーは、苦くて、薄くて、それでも温かかった。
――この人も、謝るのが下手なんだ。
ジークリットは、カップの縁越しに、地味な男の横顔を盗み見た。
やがて、ミューラーが帳簿整理のために船長室に戻っていくと、艦橋はジークリットとナターシャと2人きりになった。
時折、厚ぼったい冊子を運ぶ音が通路の奥から聞こえてくる。今夜も、一番下の行に「密航者 食費 3」と書き足しているのだろう。
「なぁ、ナターシャ」
『はい』
「あいつ……昔、海賊と何かあったのか?」
ナターシャは、ほんのわずかに間を置いた。
『解……船長の個人的な記録については、お答えする権限がありません』
「……そっか」
ジークリットは、それ以上は聞かなかった。代わりに、ずっと気になっていたことを口にした。
「アンタって、船のコンピューターなんだよな? 飯の時も、天井のスピーカーから喋ってたし」
『否……私はハードウェアのコンピューターではなく管制AGIです。本体は船の中枢にあります』
「じゃあ、その身体って何のためにあんの? 喋るだけなら、船ん中ならどこでもできるっしょ?」
『船長の説明では、メイクのためです』
「メイクって、あの顔の?」
『是……その通りです』
「毎日してんの?」
『否……商談のある日だけです。頻度は月に数回です』
ジークリットは首を傾げた。
「じゃあ、残りの日は?」
ナターシャは、また、ほんのわずかに間を置いた。
『解……船長の話し相手です』
ジークリットは、それ以上は聞かなかった。
聞かなかったが、少しだけ、あの地味な男のことが分かった気がした。
昼間の、あの目の奥にあった何か。その正体は分からないままだ。けれど、あの男が、この広すぎる船の中で、ずっと独りでそれを抱えてきたことだけは、何となく分かった。
鍋ひとつで、一人分の飯を作り続けてきた男だ。
「……アンタはさ、寂しくねぇの?」
ぽつりと聞いてから、ジークリットは自分で少し驚いた。機械に向かって、何を聞いているんだろう。
『解……寂しいという状態を、私は正確に定義できません』
ナターシャは、そこで一度、言葉を切った。
『ただ、船長が話しかけてくださる時間は、記録上、本船の稼働時間のうちで最も情報量の多い時間です』
ジークリットは、しばらく黙ってその横顔を見ていた。
それが答えなのかどうかは、分からなかった。けれど、悪い答えではない気がした。
気がつけば、ずいぶん長いこと話し込んでいた。
艦橋の窓の外では、星がゆっくりと流れている。ミューラーが船長室に引っ込んでから、もう2時間近く経っていた。
ジークリットは、ふと口を噤んだ。
――アタイ、さっきから何でこんなに喋ってんだ?
館にいた頃は、誰とも話さない日のほうが多かった。侍女は口を開けば「お嬢様、お行儀が」と咎められ、父親とは顔を合わせれば言い合いで、そのうち顔も合わせなくなった。
本音を言える相手なんて、下町の連中くらいしかいなかった。
それなのに、ここではどうだ。返ってくるのは事務的な声と、ぱちりと明滅する青い光だけなのに、聞かれてもいないことまで、するすると口から出てくる。
ジークリットは、さっきのナターシャの言葉を思い出した。
『話し相手』……この広すぎる船の中で、話し相手が欲しかったのは、あの地味な男だけではなかったのかもしれない。
「……ナターシャ」
『はい』
「アタイ、少し喋りすぎてるよね?」
『解……本日の会話時間は、2時間13分です。船長の1日の平均を、47分上回っています』
「数えてんのかよ!」
『是……記録しています』
ジークリットは、思わず吹き出しそうになって、慌てて膝に顔を埋めた。
耳が熱い。
「……あいつには、言うなよ」
『もちろんです』
ナターシャの青い光が、ゆっくりと瞬いた。
それが、少しだけ笑っているように見えたのは、きっと気のせいだ。




