第83話 お兄様の婚約者が公爵家へいらっしゃいましたけれど、どうやら妹としては「ちゃんと良い方か」を見てしまうのは仕方のないことのようですわね
兄から、婚約者と結婚する意志を直接聞かされた数日後。
その婚約者が、ヴァルツェン公爵家へ来ることになった。
当然といえば当然である。
結婚に向けた話を家として進めるなら、正式に顔を合わせ、段取りを詰め、双方の意思と空気をきちんと重ねる必要がある。
だが、理屈は分かっていても、それと私の気分は別だった。
少しだけ落ち着かない。
かなり、ではない。
だが、少しだけ、である。
私はその日の朝、自室で準王国騎士団服を整えながら、自分でもその感覚を持て余していた。
なぜ落ち着かないのか。
理由は分かっている。
兄が選んだ相手。
兄が“好きだ”と認めた相手。
そしてこれから兄の妻になり、この家へ深く関わる人。
ならば妹として、どうしたって見てしまうのだ。
ちゃんと良い方か、と。
かなり失礼ですわね。
ですが、仕方ありませんわね。
母には「今日は少し柔らかくなさい」と言われた。
心外である。
「わたくし、普段から十分に柔らかいのではなくて?」
「その返しがもう少し硬いのよ」
と言われたので、私は黙って紅茶を飲んだ。
父は父で、「お前は黙っていてもそれなりに圧がある」と言った。
これも心外である。
兄だけは少しだけ気まずそうだった。
「頼むから変に試すなよ」
「試しませんわ」
「本当か?」
「観察はいたしますけれど」
「それを試すって言うんだよ」
だが、こちらにも事情がある。
兄の人生に関わる人なのだ。
妹として何も見ない方が不自然である。
オズヴァルトは、そのやり取りを少し離れたところで聞いていたが、最後に一言だけ言った。
「お嬢様」
「何かしら」
「見るのはよろしいですが、斬らぬよう」
「斬りませんわ」
今日は本当に失礼な人ばかりである。
昼前、婚約者は公爵家へ到着した。
応接の間へ入る前に、私は一度だけ呼吸を置いた。
別に戦場でも何でもない。
そう。
戦場ではない。
ですが、まあ、少しは似た緊張がありますわね。
扉が開く。
父と母が前。
兄が一歩引いた位置。
そして、その隣に婚約者が立っていた。
第一印象は、静かな人、だった。
華やかではある。
家格にふさわしい整い方もしている。
だが、それを前へ押し出す感じがない。
むしろ、必要なだけ整え、その上で落ち着いて立っている。
良い。
かなり良いですわね。
年は兄に近い。
視線が落ち着いている。
こちらを見て、すぐに品よく一礼した。
「お初にお目にかかります。エリザベート・フォン・レインベルクにございます」
声も静かだった。
よく通るが、妙な作りがない。
私は礼を返す。
「ルクレツィア・フォン・ヴァルツェンですわ。お会いできて光栄です」
エリザベート嬢は、そこで少しだけ微笑んだ。
控えめだが、曖昧ではない笑みだった。
「こちらこそ」
その瞬間、私は少しだけ肩の力を抜いた。
少なくとも、“妙に軽い方”ではありませんわね。
そこはかなり大きい。
応接の場は、ごく穏当に進んだ。
父が家としての挨拶をする。
母がやわらかく受ける。
兄は横で少しだけ落ち着かない顔をしている。
そこが少し面白かった。
エリザベート嬢は、父の言葉にも母の言葉にも、きちんと答えた。
答え方が良い。
整っているが、言葉だけが整っているのではない。
ちゃんと相手の話を受けて返している。
私はそこで、少しだけ見方を変えた。
この方、ただ“令嬢として優れている”だけではありませんわね。
受け答えの速さは、速すぎない。
だが遅くもない。
相手の言葉を聞き切ってから返す。
しかも、その返しに妙な自己主張がない。
しかし、消えてもいない。
かなり良いですわね。
やがて父が、兄とエリザベート嬢の今後の段取りに軽く触れた。
その時、兄が少しだけ言い淀んだ場面があった。
ほんの少しだ。
たぶん父と母は気づいている。
私も気づいた。
そしてエリザベート嬢も、当然気づいた。
だが、彼女はそこで兄を助けるように一歩だけ言葉を入れた。
「その点につきましては、私どもでも既に大筋を揃えております」
自然だった。
兄の顔を立てつつ、流れは切らない。
しかも、出すぎていない。
私はそこで、少しだけ目を細めた。
……かなり良い方ではなくて?
それは、妹としてかなり重要な加点だった。
昼食を共にする段になると、空気はさらに少し柔らかくなった。
母が話を広げ、兄が必要なところだけ補い、エリザベート嬢がそれを受ける。
父も、思っていたより機嫌が悪くない。
むしろ、かなり静かに見ている。
私はそこへ入る立場だ。
妹として。
家の一員として。
だから、ここで一つくらいは聞くべきだろうと思った。
「エリザベート様」
私がそう呼ぶと、彼女はすぐにこちらを見た。
「はい」
「お兄様の、どういうところを良いとお思いになりましたの?」
兄が止まった。
母が少しだけ扇の動きを止める。
父は目を細めた。
かなり良い反応である。
エリザベート嬢だけは、驚きながらも崩れなかった。
「ルクレツィア」
兄が小さく言う。
だが私は兄を見ない。
これは聞いておきたいのだ。
エリザベート嬢は、ほんの一拍だけ考えた。
それから、静かに答えた。
「誠実なところです」
短い。
だが、かなり良い答えだった。
「それに、自分の役目から逃げないところ」
私は少しだけ目を瞬かせた。
兄も、少しだけ驚いた顔をしている。
そこへエリザベート嬢は続ける。
「優しい方は他にもいらっしゃいます」
「ええ」
「ですが、お兄様は“優しく見える時”だけでなく、“面倒な役目を引き受ける時”にも、その優しさが崩れにくい方だと思っております」
その言葉を聞いて、私はようやく本当に安心した。
ああ。
ちゃんと見ておられるのですわね。
表面だけではない。
兄が兄であるところ。
少し面倒で、少し不器用で、それでも逃げずに立つところ。
そこを見て、そこを良いと思っている。
それなら、かなり良い。
私は静かに言った。
「……そう」
エリザベート嬢は、私のその短い返しをきちんと受けて、少しだけ微笑んだ。
「はい」
兄がそこで、小さく息を吐く。
たぶん今のやり取りが一番緊張したのだろう。
そのあたりが少し可笑しかった。
食後、少しだけ庭を歩く時間があった。
母とエリザベート嬢が先に進み、父と兄が少し後ろで話す。
私はその横を歩いていたが、母がふと振り返って言った。
「ルゥ、少しエリザベート様をご案内して差し上げたら?」
あら。
来ましたわね。
「ええ」
私は素直に応じた。
庭を歩きながら、少しだけ二人きりのような形になる。
気まずさはない。
だが、互いに少し測っている感じはある。
もっとも、それは悪いことではない。
家に入るとは、そういうものだろう。
「先ほどは失礼いたしましたわ」
私が言うと、エリザベート嬢は首を振った。
「いいえ。大切なご質問だったのだと思います」
その返しも良かった。
「わたくし、妹ですもの」
「ええ」
「少し見てしまいますの」
エリザベート嬢はそこで、小さく笑った。
「でしょうね」
それで、空気が一段柔らかくなった。
「でも、安心いたしましたわ」
私がそう言うと、彼女は少しだけ目を丸くした。
「何に、でしょう?」
「お兄様を、きちんと見ておられるのだと分かりましたもの」
エリザベート嬢は、そこでほんの少しだけ真面目な顔になった。
それから静かに言った。
「……はい。きちんと見ているつもりです」
その答えに、作りがなかった。
だから私は頷いた。
「それなら、よろしいですわ」
彼女はそこで少しだけ笑う。
今度の笑みは、最初より自然だった。
「ルクレツィア様は、お兄様をとても大切に思っていらっしゃるのですね」
私は少しだけ考えた。
だが、答えはすぐ出る。
「ええ」
「そうなのですね」
「ええ。かなり」
その返しに、彼女は本当に楽しそうに少しだけ笑った。
なるほど。
笑うところがきれいな方ですわね。
庭から戻る頃には、私の中の警戒はだいぶ薄れていた。
もちろん、今日一日で全てが分かるわけではない。
そんなことはありえない。
だが少なくとも、兄がこの方を選んだことに対して、妹として抱いていた“少しだけ落ち着かない感じ”は、かなり静まっていた。
見ている。
受け止めている。
しかも、兄を立てるだけでなく、自分も消えていない。
それなら良い。
かなり良い。
帰り際、エリザベート嬢は改めて家族へ礼をした。
そして私へも視線を向けて、静かに言う。
「本日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「また、お話できれば嬉しいです」
私は少しだけ目を細めた。
それは社交辞令だけではない響きだった。
「ええ。わたくしもですわ」
馬車が見えなくなるまで見送りながら、兄が横で低く言う。
「……どうだった」
私は兄を見た。
「何がかしら」
「分かってるだろ」
ええ。
もちろん分かっておりますわ。
「かなり良い方ですわね」
兄がそこで、はっきりと肩の力を抜いた。
分かりやすい。
「そうか」
「ええ」
「お前のその評価、妙に重いな」
「妹ですもの」
私は答える。
「そこは重くなりますわ」
兄は少しだけ笑った。
そしてその笑い方が、いつもより少しだけ穏やかだった。
その夜、私は記録帳を開いた。
お兄様の婚約者であるエリザベート様が公爵家にいらした。
静かな方だった。
だが静かなだけではなく、きちんと見て、きちんと受けて、必要な時には自然に言葉を入れられる方だった。
そして何より、お兄様の“誠実さ”と“面倒な役目から逃げないところ”を見ておられた。
それが分かって、かなり安心いたしましたわね。
そこまで書いて、私は少しだけ手を止めた。
それから最後に、一行だけ静かに足した。
どうやら妹というのは、兄の結婚相手に対して少々厳しめに見てしまうもののようですけれど、本当にちゃんとした方だと分かると、かなり素直に安心できるもののようですわね。
……かなり良い方でしたわ。
私は羽根ペンを置き、少しだけ静かに息を吐いた。
お兄様は、お兄様だった。
そしてその隣に立つ方も、どうやらきちんと良い方だった。
それなら、今日の私は十分に満足である。
――こうしてルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、兄の婚約者が初めて公爵家を訪れる一日を通して、妹として当然のように抱いていた“ちゃんと良い方か”という少々厳しめの目線を向けながらも、その人が兄をきちんと見ていることを知り、静かに、しかし深く安心するのだった。




