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公爵令嬢に生まれたので断罪に備えていたら、なぜか王国最強になっていました  作者: 玉響すばる


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第82話 お兄様が婚約者と結婚すると仰いましたけれど、どうやらこれは妹としてきちんと受け止めるべき話のようですわね

 帰省して数日。


 三年前期課程修了後の屋敷の空気にも、私は少しずつ馴染み始めていた。


 外で削られた順番を、そのまま家の中へ流し込みすぎない。

 だが、せっかく得たものまで置いてしまわない。


 何を急がせ、何を急がせないか。

 それを屋敷の速度に合わせて切り分ける。


 かなり面倒で、かなり良い調整だった。


 そんなある日の午後、兄から「少し時間を取れ」と言われた。


 言い方が少々真面目だったので、私は最初、何か家の仕事かと思った。

 あるいは、私の今後の進路についてか。

 騎士学校のことか。

 仮出向のことか。


 そう考えながら、屋敷の一角にある小さな応接間へ向かう。


 兄はすでにそこにいた。

 窓際に立っている。

 紅茶は出ているが、まだほとんど手をつけていない。


 なるほど。


 少し重い話ですわね。


「お待たせしましたわ」


「いや、今来たところだ」


 その返しがもう少し固い。

 私は兄の向かいへ座り、静かに待った。


 兄は一度だけ息を吐く。

 それから、いつもより少し低い声で言った。


「ルクレツィア」


「何かしら」


「今日は、ちゃんと話しておきたいことがある」


 ええ。

 やはり重いですわね。


 私は少しだけ背筋を伸ばした。


「聞きますわ」


 兄はそこで一拍置いた。

 そして、まっすぐ私を見て言った。


「俺は、婚約者と結婚する」


 私はその瞬間、少しだけ目を瞬かせた。


 驚いた。

 だが、嫌な驚きではない。


 兄に婚約者がいることは知っている。

 家の者として、当然知っている。

 だが、“結婚する”という言葉はやはり別だ。


 婚約が先にあるのだから、理屈として不自然ではない。

 それでも、理屈と実際に告げられる重さは別である。


「……そう」


 最初に出たのは、その短い言葉だった。


 兄は少しだけ苦笑した。


「反応が薄いな」


「そんなことはありませんわ」


 私は兄を見たまま答える。


「少し驚いておりますの」


「そうか」


「ええ。だって、“いずれ”ではなく、“結婚する”ですもの」


 その言い方に、兄の肩から少しだけ力が抜けたのが見えた。

 たぶん、もっと荒れる可能性も少しは考えていたのだろう。


 兄は椅子へ腰を下ろした。

 それから、少しだけ真面目な顔のまま続ける。


「正式には、家でもう少し段取りを詰める」

「ええ」

「でも、俺としてはもう決めてる」

「ええ」


 私はその言葉を、一つずつ受け取った。


 兄が結婚する。

 婚約者と。

 つまり、家の中の一つの形が変わる。


 兄は兄のままだろう。

 だが、兄であると同時に、夫になる。

 家の外にも、家の中にも、新しい線が引かれる。


 それは妹として、きちんと受け止めるべき話だった。


「おめでとうございます」


 私は静かにそう言った。


 兄は、少しだけ意外そうに私を見る。


「素直だな」


「何か問題がありまして?」


「いや。もっとこう……」


「もっとこう?」


「驚くとか、茶化すとか、少し面倒なことを言うかと思った」


 私は少しだけ首を傾げた。


「面倒なことを言う理由がありますの?」


「お前、たまにあるだろ」


「失礼ですわね」


 だが、兄の言いたいことも少し分かる。


 私たちは兄妹だ。

 近い。

 だからこそ、こういう話は、かえって妙な照れや雑さで包みやすい。

 だが今日は、そうしたくなかった。


 兄が結婚する。

 それは、家の行事であると同時に、兄自身の人生の大きな選択でもある。

 ならば、妹として最初に出すべきなのは、やはり祝意だろう。


「お兄様」


「何だ」


「きちんと、おめでたいことですもの」


 兄は少しだけ黙った。

 そして、本当に少しだけ柔らかく笑った。


「……そう言われると、助かるな」


 その一言で、私はようやく兄がなぜわざわざこうして二人で話をしようとしたのか、少し分かった気がした。


 たぶん兄は、私へ伝えることを軽くしたくなかったのだ。

 家の一員として。

 妹として。

 ちゃんと話しておきたかったのだろう。


 それは、少しだけ嬉しいことだった。


「いつ頃になりますの?」


 私が問うと、兄は少しだけ現実的な顔に戻った。


「まだ細部は詰める。だが、そんなに先へ引っ張るつもりはない」


「そう」


「父上と母上も、基本的には賛成だ」


 ええ。

 でしょうね。


 今さらそこで揉める話でもない。

 兄の婚約は、ただ形だけで続いていたものではないのだろう。

 そこへ“結婚する”が乗るのは、むしろ自然な流れだ。


 私は少し考えてから聞いた。


「お兄様」


「何だ」


「婚約者の方を、ちゃんとお好きで?」


 兄がそこで、少しだけ顔をしかめた。


「お前な」


「大事ではなくて?」


「大事だけど、妹から真顔でそこを聞かれるのは結構きつい」


「ですが、聞きますわ」


 兄は小さく息を吐き、観念したように言う。


「……好きだよ」


 その答えは、思っていたよりずっと静かで、思っていたよりずっと真っ直ぐだった。


 私はそこでようやく、本当に安心した。


 ああ。

 それなら良かったですわね。


 私は以前、婚約の話をされて絶望した。

 その理由は、ちゃんと好きになった方でないと嫌だからだった。


 兄は兄で、きっと兄なりに、その重さを越えてここへ来たのだろう。

 だからその答えは、妹としてかなり大事だった。


「それなら、なおさら良かったですわ」


 兄は少しだけ目を細める。


「お前、前に婚約の話をされた時、絶望してただろ」


「ええ」


「だから、そこを気にするか」


「当然ですわ」


 私は答える。


「結婚は重いですもの。少なくとも、“この方となら”と思えている方が良いではありませんの」


 兄はその言葉に、少しだけ苦笑し、それから頷いた。


「そうだな」


 そこには、からかいではない納得があった。


 少しの沈黙が落ちる。

 だが、その沈黙は重くない。

 むしろ、話がきちんと届いたあとの静けさだった。


 兄がふいに言う。


「なあ」


「何かしら」


「お前、少し変わったな」


 私はそちらを見た。


「どういう意味かしら」


「前より、受け止め方が静かだ」


 その言葉に、私はほんの少しだけ考えた。


 たしかにそうかもしれない。


 以前なら、もっとすぐに感情を言葉へ変えていたかもしれない。

 あるいは、何か別の問いを先に挟んだかもしれない。

 だが今は違う。


 まず受け取る。

 それから、何を返すかを切る。


 それはたぶん、第八騎士団での三か月も少し関係しているのだろう。


「少し外を見ましたもの」


 私がそう言うと、兄は少しだけ笑った。


「やっぱりそこへ戻るのか」


「戻りますわ」


「でも、今のは嫌じゃない」


 その言い方は、かなり兄らしかった。


 私は少しだけ笑いそうになった。


「お兄様」


「何だ」


「わたくしは、お兄様が結婚しても、お兄様はお兄様だと思っておりますわ」


 兄は一瞬だけ止まった。

 それから、今度ははっきりと笑った。


「そりゃそうだろ」


「ええ。ですが、ちゃんと言っておきたかったのですの」


「そうか」


「ええ」


 兄はそこで、少しだけ真面目な顔に戻った。


「俺も、お前にはちゃんと言っておきたかった」


 その言葉は、かなり静かに胸へ入った。


 家のこと。

 兄妹のこと。

 そして、自分たちの人生がそれぞれ別の形で進んでいくこと。


 そういうものを、今日は少しだけちゃんと話せたのだと思う。


「婚約者の方にも、よろしくお伝えくださいまし」


 私がそう言うと、兄は少しだけ苦い顔をした。


「……お前、その時はあんまり怖い顔するなよ」


「いたしませんわ」


「本当か?」


「たぶん」


「たぶんかよ」


 そのやり取りで、ようやくいつもの兄妹らしい空気が戻った。


 だが、その軽さの下に、きちんと受け止めたものがある。

 それが今日は良かった。


 その夜、私は自室で記録帳を開いた。


 お兄様が婚約者の方と結婚すると仰った。

 少し驚いた。

 だが、きちんとおめでたかった。

 そして、お兄様がその方をちゃんとお好きだと知って、かなり安心した。

 妹として、こういうことは軽く受け流すのではなく、きちんと受け止めるべき話なのだと思いましたわね。


 そこまで書いて、私は少しだけ手を止めた。


 それから最後に、一行だけ静かに足した。


 どうやら兄妹というのは、近いからこそ雑にも出来ますけれど、本当に大事な節目では、近いからこそちゃんと伝えて、ちゃんと受け取るべきもののようですわね。


 ……かなり良い話でしたわ。


 私は羽根ペンを置き、少しだけ静かに息を吐いた。


 お兄様が結婚する。

 それは少し寂しいような気もする。

 だが、それ以上に、ちゃんと良いことだと思えた。


 そう思えるのなら、たぶん今日はそれで十分なのだろう。


 ――こうしてルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、兄から婚約者との結婚を直接告げられ、その話を妹として軽く流すのではなく、きちんと祝意と確認と受容をもって受け止めることで、兄妹でありながらそれぞれの人生が少しずつ別の形へ進んでいく節目を、静かに、しかし確かに共有するのだった。

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