幕間 家令は知っていた。ルクレツィアが乙女であることを
ヴァルツェン公爵家の家令グレゴールは、有能だった。
長くこの家に仕え、主の気質を知り、奥方の機微を知り、若君の癖を知り、そしてもちろん、ルクレツィア・フォン・ヴァルツェンという少々特殊な公爵令嬢についても、だいたいのことは把握している。
いや、だいたいではない。
かなり把握している。
そうでなければ、この屋敷はとうの昔に別の意味で崩壊していただろう。
そんなグレゴールからすると、ある冬の夜、食堂付近を片づけていた使用人たちの間に微妙なざわめきが流れた時点で、だいたいの察しはついていた。
ああ。
何か聞かれたのだな、と。
しかも、剣でも槍でも行軍でもたんぱく質でもない。
あのざわめきは、もう少し家の内側の、柔らかい話題の時のものだ。
案の定、少し遅れてミアが、何とも言えない顔で戻ってきた。
「グレゴール様……」
「何です」
「お嬢様が」
「ええ」
「婚約のお話をされて」
「ほう」
「絶望したお顔を」
グレゴールは一拍だけ置いた。
そして、淡々と答えた。
「でしょうな」
ミアが止まった。
「えっ」
「でしょうな」
繰り返す。
そこに特別な驚きはない。
「驚かれないのですか?」
「婚約の話そのものより、“順序を飛ばされること”へ絶望なさったのでしょう」
ミアは目を瞬かせた。
そして、少しずつ顔を引きつらせる。
「……なぜ分かるのですか」
「分かります」
「いえ、そこをきっぱり仰られても」
だが、グレゴールには本当に分かっていた。
ルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、確かに少々ズレている。
五歳で高熱を出し、木剣を欲しがり、断罪を警戒し、騎士学校へ進み、重り入り部分鎧を買い、市場で肉を見に行く。
そこだけ抜き出せば、どこをどう見ても普通の公爵令嬢ではない。
だが、それとこれとは別なのだ。
グレゴールは知っている。
ルクレツィアが、昔から驚くほど“ちゃんと女の子”であったことを。
それは、令嬢らしく恋の噂にきゃあきゃあする、という意味ではない。
そういう分かりやすい形では、たしかにかなり薄い。
だが、たとえば幼い頃。
まだ木剣よりも先に絵本を読んでいた頃、ルクレツィアは物語の中で王子と姫が結ばれる話になると、露骨ではないが、きちんと機嫌が良くなった。
悲恋になると静かになった。
誠実でない相手には子供なりに眉をひそめた。
少し育ってからもそうだ。
舞踏の練習を嫌がらなかったのは、体幹訓練として有用だったからだけではない。
“ちゃんと手を取られるなら、雑ではない方がよい”と真顔で言ったことがある。
母とドレスを選んでいた時もそうだった。
着飾ること自体へ強い執着はない。
だが、“どうでもよい相手へ見せるための飾り”は好まず、“大事な場で自分を整える”ことには、案外きちんと意味を見ていた。
つまり、ルクレツィアはずっと一貫していたのだ。
雑に扱われるのが嫌い。
順序を飛ばされるのが嫌い。
理不尽に立場を失うのが嫌い。
そしてそれは、恋愛や婚約についても同じである。
だからグレゴールには、今回の反応はむしろ当然だった。
食堂から少し遅れて、奥方付きの年長侍女がやってきた。
こちらも、少しだけ面白いものを見た顔をしている。
「グレゴール」
「何でしょう」
「あなた、知っていたのね」
「何をです」
「お嬢様が、ああいう意味でちゃんと乙女だということを」
グレゴールは少しだけ目を伏せた。
それから淡々と答える。
「当然です」
「当然なの?」
「はい」
侍女は少しだけ笑った。
「旦那様も若様も、かなり驚いていたわよ」
「でしょうな」
「奥様は少し安心していらした」
「それもでしょうな」
このあたりの流れも、だいたい予想できる。
父と兄は、普段のルクレツィアしか見ていない時ほど、たまに根本を見失う。
母はもう少し分かっている。
だが、分かっていても、実際に口から出ると安心する。
そういう話だろう。
侍女が問う。
「どうして、そこまで分かるの?」
グレゴールは少しだけ考えた。
言葉にするのは難しい。
だが、できないことでもない。
「お嬢様は、物を雑に扱われるのを嫌います」
「ええ」
「ご自身の剣も、騎士学校制服も、重り入り部分鎧も、食事も、全部そうです」
「ええ」
「婚約だけ例外であるはずがない」
侍女はそこで、少し黙った。
それから、深く頷く。
「……なるほどね」
「お嬢様は、剣が好きだから乙女ではないのではありません」
「ええ」
「むしろ逆です。あれだけ“きちんとありたい”方なのですから、婚約のような重いことに対して雑であるはずがない」
それがグレゴールの理解だった。
ルクレツィアは変わっている。
それは事実だ。
だが、変わっているのは表現の仕方と優先順位であって、感情の根の部分ではない。
むしろ根は驚くほど繊細で、順序や誠実さや、自分の気持ちの置き場を大事にしている。
だからこそ、婚約の話に絶望したのだろう。
家同士の話として先に進み、自分の心が後ろへ置かれる可能性に。
好きになる前に決められてしまう可能性に。
“ちゃんと好きでいたい”という順序が潰される可能性に。
それはたしかに、かなり乙女らしい絶望だった。
少しして、若い下働きの一人が小声で言った。
「でも、お嬢様って普段は全然そう見えません」
グレゴールはその言葉に、少しだけ口元を緩めた。
「見えにくいだけです」
「見えにくい?」
「お嬢様は、必要なことを先に置きます。ですから、剣も、槍も、行軍も、食事も、全部正面に出る」
「ええ」
「ですが、奥にあるものが消えているわけではありません」
若い下働きは、まだ半分も分かっていない顔だった。
だが、それでよい。
これは少し長く仕える者でなければ見えにくい類の話だ。
グレゴールは静かに続けた。
「お嬢様は、きっとご自身で思っている以上に、ずっとちゃんと乙女です」
「そうでしょうか」
「はい」
「では、今後どなたかを好きになることも」
その問いに、グレゴールは少しだけ視線を遠くへやった。
誰かを好きになる。
なるだろうか。
なるのかもしれない。
ただし、その条件は普通より少々、いやかなり厳しいだろう。
雑では駄目。
軽くても駄目。
見ているものが浅くても駄目。
たぶん、強く、誠実で、理不尽の時に崩れず、しかもルクレツィア自身を“ただの変わった令嬢”として扱わない者でなければならない。
大変に面倒だ。
だが、グレゴールは少しも悲観していなかった。
「その時は」
グレゴールは穏やかに言った。
「お嬢様ご自身が、一番分かりやすく慌てるのではないでしょうか」
侍女が笑った。
若い下働きも少しだけ笑った。
それは、想像するとたしかに少し面白かった。
そしてその夜、屋敷の一角では小さく、しかし確かに共有された。
ルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、剣を握り、槍を学び、行軍をし、肉を見に市場へ行く、かなり変わった公爵令嬢ではある。
だが同時に、婚約の話をされれば“好きになった方でないと嫌ですの”と絶望する程度には、驚くほどちゃんと乙女なのだと。
その事実を、家令グレゴールだけは、わりあい最初から知っていたのである。




