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公爵令嬢に生まれたので断罪に備えていたら、なぜか王国最強になっていました  作者: 玉響すばる


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第59話 お父様、お母様、婚約の話をされた時に絶望したのには、きちんと乙女らしい理由がありますの

 冬季休暇も半ばに入った頃、ヴァルツェン公爵家では、ついにその話題が食卓へ上った。


 婚約である。


 いや、正確には“婚約について一度くらい本人に聞いておくべきではないか”という、極めて穏当で、極めて家族らしく、そして私にとっては少々不意打ちな流れだった。


 その日の夕食は、いつも通り整っていた。

 冬らしい温かな料理。

 静かな食卓。

 父も母も兄も機嫌が悪いわけではない。


 だからこそ油断したとも言える。


 食後のお茶が出され、会話が一段落したところで、母がやわらかい声で言った。


「ルゥ」


「何かしら」


「少し聞いてもいいかしら」


「ええ」


 その時点では、私はまったく警戒していなかった。

 冬季休暇中の過ごし方か。

 二年次の予定か。

 あるいは制服での外出の件か。


 そう思っていた。


 母は本当に穏やかに言った。


「婚約については、どう考えているの?」


 絶望した。


 いや、これは比喩ではない。

 私はその瞬間、本当に顔から色が抜けたのだと思う。


 母が止まった。

 兄も止まった。

 父まで目を細めた。


 食卓の空気が、きれいに止まった。


「……ルクレツィア?」


 父が低く呼ぶ。


 私はその声で、ようやく少しだけ意識を戻した。

 だが、もう遅い。

 たぶん、かなり分かりやすい顔をしてしまった。


 兄が半ば呆れたように言う。


「お前、何でそこまで露骨に絶望するんだ」


「絶望、とは少々大げさではなくて?」


「大げさじゃないわ」


 母が即答した。


「今のあなた、本当に“終わった”みたいな顔をしたのよ」


 それは少し不本意だが、否定もしきれない。


 父が静かに言った。


「理由を聞こう」


 来ましたわね。


 逃げ道は薄い。

 しかも、ここで曖昧に濁すと余計に話が長くなる。

 ならば、きちんと説明した方がよい。


 私は一度だけ呼吸を置いた。


「……婚約そのものが嫌なわけではありませんの」


 母の眉がわずかに動く。

 兄も少しだけ顔を上げる。

 父は黙って聞いていた。


「では何だ」


 父が促す。


 私は少しだけ目を伏せた。

 ここは、かなり言いにくい。

 だが、説明しないとさらに面倒になる。


「わたくし」


「ええ」


「婚約するとしたら」


「ええ」


「ちゃんと……」


 言いにくいですわね。


 兄がそこで少しだけ嫌な顔をした。

 たぶん、何となく察し始めたのだろう。


「ちゃんと?」


 母がやさしく促す。

 その優しさが、今は少しだけ痛い。


 私は覚悟を決めた。


「ちゃんと、好きになった方とでないと嫌ですの」


 沈黙。


 綺麗な沈黙だった。


 父が止まる。

 母が止まる。

 兄はついに顔を覆った。


 数秒後、最初に口を開いたのは母だった。


「……まあ」


 それは、驚きと、少しの安心と、少しの可笑しさが混ざった“まあ”だった。


 父が低く聞く。


「それが、絶望した理由か」


「ええ」


「なぜ絶望する」


「だって」


 私は少しだけ顔を上げた。


「家の話として婚約を勧められるということは、そういうものを飛ばして進む可能性がありますでしょう?」


 兄が手で顔を覆ったまま言う。


「お前、それを真顔で言うのか」


「重要ではなくて?」


「重要だけど、そういう反応をするとは思わないんだよ」


 だが私は本気だった。


 婚約は分かる。

 家同士の話も分かる。

 公爵家の娘として、それが人生の選択肢に入ることも理解している。


 だが、それとこれとは別なのだ。


 私は静かに続けた。


「結婚や婚約は、人生においてかなり重いではありませんの」


「ええ」


 母が頷く。


「でしたら、せめて相手をちゃんと好きでいたいですわ。尊敬できて、一緒にいたいと思えて、その方の隣なら嫌ではないと、自分で思いたいですの」


 また沈黙。


 今度は、少しだけ空気が変わった。

 驚きはある。

 だが、さっきとは違う。


 母は目を細め、兄は顔を覆ったまま肩を震わせ、父はなぜか少しだけ視線を外した。


「……物凄く乙女だな」


 兄がとうとうそう言った。


 私はすぐにそちらを見た。


「悪いことかしら」


「悪くはない」


「でしたら問題ありませんわね」


「問題はあるだろ。今までの流れで急にそこへ着地するから、こっちの心の準備がないんだよ」


 母がそこで、口元を押さえながら笑った。


「ごめんなさい、ルゥ」


「何かしら」


「少し安心したわ」


「安心?」


「ええ。あなた、婚約そのものへまるで興味がないのかと思っていたもの」


 それは少し心外だった。


「そこまでではありませんの」


「でも、興味の向き方がかなり独特なのよ」


 そこは否定しにくい。


 父がようやく口を開いた。


「ルクレツィア」


「はい、お父様」


「つまりお前は、婚約するなら“家の都合だけで決められたくない”ということか」


「ええ」


「そして“好きになれる相手でなければ嫌”だと」


「ええ」


「それは、容姿か。家格か。能力か」


 良い問いだ。

 私は少し考えた。

 だが、答えは思っていたよりはっきりしていた。


「全部ではありませんわね」


「では何だ」


「……ちゃんと強い方がよろしいですわ」


 兄がとうとう声を上げて笑った。

 母も扇があれば隠しただろう顔をしている。

 父は目を閉じた。


「やはりそこへ戻るのか」


「剣が強いだけでは足りませんの」


 私は真面目に言った。


「ええ?」


 兄が笑いながら聞き返す。


「どういう意味だ」


「理不尽の時に崩れない方がよろしいですわ。見ているものが浅くなくて、自分の頭で考えて、必要な時に前へ出られて、でも無駄に前へ出すぎない方」


 母が静かに言う。


「……それ、かなり難しくないかしら」


「ええ」


「しかも」


 兄が横から入る。


「ちゃんと好きになれる相手、なんだろ?」


「当然ですわ」


「条件が厳しすぎる」


 それはそうかもしれない。

 だが、婚約という重いものに対して条件を緩める理由もない。


 父が低く言う。


「なるほどな」


 その声は、少しだけ疲れていた。

 そして、少しだけ納得していた。


「お前が絶望したのは、“婚約の話が来た”からではない。“そういう順序を飛ばされる可能性”に対してか」


「ええ」


「家の都合で決まる婚約に絶望したわけではなく、“自分の気持ちを置いていかれること”に絶望した」


「ええ」


 私は頷いた。


「かなり」


 母が、その言葉にとてもやわらかく笑った。


「そう。なら、よかった」


「何がかしら」


「あなたが、そこできちんと“女の子”だったことよ」


 それは少しだけ、くすぐったかった。


「わたくし、元々そうではなくて?」


「そうなのだけれど、普段が普段だから」


「心外ですわね」


 兄がすぐに言う。


「いや、だってお前、普段は剣だの槍だの行軍だの部分鎧だのたんぱく質だのって言ってるだろ」


「どれも大事ですわ」


「そこへ急に“好きになった方でないと嫌ですの”が来ると、こっちがびっくりするんだよ」


「ですが、大事ではなくて?」


「大事だよ。大事だけど、お前の口から出ると破壊力がある」


 父はそこで、ようやく少しだけ肩の力を抜いたようだった。


「少なくとも、“誰でもよいから婚約は面倒”ではないのだな」


「とんでもありません」


 私はすぐに否定した。


「誰でもよいのが一番困りますわ」


「そうか」


 父は短く頷いた。


「ならば、今すぐ無理にどうこうする話でもない」


 母も頷く。


「ええ。そこは急がなくていいわね」


 兄が苦笑する。


「むしろ急いだら悲劇だろ」


「言い方」


 母が咎める。

 だが完全には否定しない。


 私はそこで、少しだけ視線を落とした。

 言ってしまえば、だいぶ楽になった。


 これまでは、家族が婚約についてどう考えているか、何となく分かっていた。

 だが、私の中の“ちゃんと好きになった方でないと嫌”まで言葉にしたことはなかった。


 それを言って、否定されなかった。

 むしろ、変に安心された。


 そこは少し意外で、かなりありがたかった。


 母が最後に、やわらかく言った。


「ルゥ」


「はい」


「安心なさい。少なくとも、今ここであなたを“好きでもない相手と婚約しなさい”と押し込むつもりはないわ」


「……ええ」


「でも」


 来ましたわね。


「ちゃんと好きになれる相手、というのは、もう少し条件を広く取ってもいいのではなくて?」


 私は少し考えた。


「善処いたしますわ」


 兄がまた笑う。


「その返し、絶対広げる気ないだろ」


「努力はいたしますもの」


「父上、母上。やっぱりこの件、まだ先ですね」


 父が低く答えた。


「当然だ」


 そしてその場は、思っていたより穏やかに終わった。


 婚約の話。

 家の都合。

 公爵家の娘としての立場。

 そういう重いものを含みながらも、最後に残ったのは妙に柔らかい空気だった。


 たぶんそれは、私が変な意味で拒絶したのではなく、きちんと乙女らしい理由で絶望したからだろう。


 その夜、私は記録帳を開いた。


 婚約について聞かれた。

 絶望した。

 理由は、ちゃんと好きになった方でないと嫌だから。

 お父様もお母様もお兄様も、思っていたより変な顔はしなかった。

 むしろ、少し安心していた。


 そこまで書いて、私は少しだけ迷った。

 だが、最後にきちんと書き足した。


 どうやらわたくしは、思っていた以上にちゃんと乙女らしい理由で婚約を重く見ているようですわね。


 ……よろしい。


 それなら、それで。


 私は羽根ペンを置き、少しだけ静かに息を吐いた。


 剣も大事。

 槍も大事。

 行軍も大事。

 だが、婚約の相手をちゃんと好きでいたいのも、たぶん同じくらい大事なのだ。


 それが確認できただけでも、悪くない夜だった。


 ――こうしてルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、公爵家会議の流れで婚約について真正面から問われ、あまりに露骨に絶望したことから理由を掘り下げられた結果、自分が思っていた以上に“ちゃんと好きになった相手でなければ嫌”という極めて乙女らしい感情を大事にしていることを、家族の前でとうとう明かすことになるのだった。

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