第6話 お父様、騎士団の訓練場は視察に向いておりますわ
兄という新たな観察者を得た翌日、私は朝から少し機嫌が良かった。
理由は単純である。
理解者とまでは言わずとも、少なくとも「本気でやっているらしい」と認識する人間が家の中に一人増えたからだ。
これは大きい。
何事も、最初は奇行に見える。
だが継続され、結果が伴い、周囲が「これは一時の気まぐれではない」と理解し始めた時、それは初めて現実のものとして扱われる。
前世でもそうだった。
最初は無茶だと言われた練習も、続けて結果が出れば、やがて周囲は前提として受け入れる。
つまり今の私は、断罪対策を「奇妙な思いつき」から「困るが本気らしい習慣」へと昇格させつつあるのだ。
素晴らしい。
その日、午前の勉学を終えた私は、廊下を歩きながら今日の予定を頭の中で確認していた。
午後は歩法と棒の操作。
夕方前に礼の復習。
夜に反省。
だが、それとは別に今の私には足りないものがある。
実戦の観察である。
もちろん本物の実戦などまだ不要だ。
必要なのは、強い大人がどう動くかを見ること。
剣を扱う者の重心、間合い、踏み込み、上体の使い方。
そういうものを目に入れておくことだ。
映像知識のようなものは前世にはない。
あっても、この世界の剣と前世の競技では違う。
ならば生の観察が必要になる。
そう結論づけて、私はある扉の前に立った。
父の執務室である。
私は軽く息を整え、扉を叩いた。
「ルクレツィアですわ。お父様、お時間よろしいかしら」
中から少し間を置いて返事がある。
「入れ」
扉を開けると、父は机に向かって書類を読んでいた。
窓から差し込む光の中でも隙のない姿で、本当に宮廷公爵という感じがする。
強そうではない。
だが、別種の圧がある。
政治的強者だ。
こういう相手に対しては、こちらも要件を整理して臨まねばならない。
「失礼いたしますわ」
「ああ」
父は顔を上げ、私を見た。
最近の私は、執務室に来るたびに何か言い出す娘と認識されている気がする。
視線に微妙な警戒がある。
もっとも、その警戒は正しい。
「どうした」
「お願いがございます」
「そうだろうと思った」
父はすでに疲れた顔をしていた。
まだ何も言っていないのだが。
「今度、騎士団の訓練場を見せていただけませんか」
父の動きが止まった。
完全に止まった。
書類を持つ手も。
瞬きも。
何なら呼吸も一瞬止まった気がする。
「……何を?」
「騎士団の訓練場ですわ」
「聞き取れなかったわけではない」
そうだろうと思った。
だが確認は大事である。
父はゆっくり書類を置いた。
「なぜだ」
「視察ですわ」
「何の」
「強い方々の動きの」
父が額を押さえた。
最近よく見る仕草である。
たぶん私のせいだ。
「ルクレツィア」
「はい」
「お前はまだ五歳だ」
「存じております」
「公爵令嬢だ」
「ええ」
「騎士ではない」
「もちろんですわ」
「なのになぜ騎士団の訓練場を見たがる」
私は少しも迷わず答えた。
「強い方々の動きは参考になりますもの」
父はしばらく黙った。
そして遠い目をした。
この反応も最近よく見る。
「参考にしてどうする」
「鍛錬に活かしますわ」
「活かさなくていい」
「よくありません」
「よくあるんだよ、お前以外の世界では」
心外である。
だが父の言いたいことは分かる。
普通の公爵令嬢は騎士団の訓練など見たがらないし、見たところで鍛錬に取り込もうとはしない。
しかし私は普通で済ませるには、あまりにも断罪リスクを理解しすぎている。
危機意識の差だ。
「お父様」
「何だ」
「自分より経験のある方の動きを見るのは、大変に有意義ですわ」
「その理屈自体は正しいのが腹立たしいな……」
父は苦々しく呟いた。
勝ったわね。
いや、まだ勝ってはいない。
理屈が通るだけでは許可は下りない。
ここから先は、父にとっての利益と安全性を示す必要がある。
「申し上げますわ」
「まだあるのか」
「ございます」
私は胸を張った。
「見学であれば危険は少なく、なおかつ私は騎士の方々の姿勢、足運び、礼、間合いの取り方を学べます。これは礼儀作法や歩法の理解にも繋がりますし、オズヴァルトのご指導の意味もより深く理解できます」
父は黙って聞いている。
よろしい。
完全拒否ではない。
「それに、公爵家の令嬢としても、家が抱える力を知っておくのは無駄ではありませんわ」
これで少し角度を変えた。
個人的趣味ではなく、家の一員としての視点も含める。
これはたぶん効く。
父の眉がわずかに動いた。
「……誰に吹き込まれた」
「誰にも」
「本当に?」
「本当にですわ」
前世の私と現世の危機意識が勝手に結論を出しただけである。
父は椅子にもたれ、私をじっと見た。
見極めているのだろう。
本気か、気まぐれか、どこまで理解しているか。
だが、そこへ不意に別の声が差し込んだ。
「父上」
扉の方を見ると、兄がいた。
いつからいたのだろう。
気配はしていなかった。
少し不覚である。
「ノックをしましたが、返事がないので失礼しました」
「……何だ」
父の声に若干の疲労が混ざる。
この家の男性陣は、最近私のせいで消耗している気がする。
兄は私と父を見比べ、だいたい状況を察したらしかった。
「また何か言い出したのか」
「騎士団の訓練場を視察したいそうだ」
「なるほど」
兄は一拍だけ置き、私を見た。
「偵察ではなく視察か」
「ええ」
「言い換えが上達しているな」
「実際、今回はかなり視察寄りですわ」
兄は笑いをこらえながら言った。
「父上。少なくともルクレツィアは、本気で学ぶつもりですよ」
「お前までそう言うのか」
「この前見ましたからね。棒の振りも歩法も、遊びではありませんでした」
父が兄を見る目に、「お前がそちらに回るのか」という色が混ざる。
だが兄は気にしていない。
「危険な真似をするなら止めるべきでしょうけど、見るだけなら悪くないかと。むしろ中途半端な想像で変なことを考えるよりはましでは?」
それは本当にそうである。
私は心の中で大きく頷いた。
兄は使える。
観察だけでなく、言語化も上手い。
父は深く息を吐いた。
「お前たちは本当に……」
「お父様」
「黙っていろ、今考えている」
私は静かに口を閉じた。
交渉の場では、押すだけではなく黙ることも必要である。
沈黙のあと、父は机を指で軽く叩き、やがて口を開いた。
「条件付きだ」
来た。
「まず、お前が一人で騎士団へ近づくことは認めない。見学は私、もしくは信頼できる者が同行する時だけだ」
「はい」
「騒がない。勝手に口を挟まない。訓練に割り込まない。見ただけで真似をして無茶をしない」
私は一瞬だけ考えた。
騒がない。
当然だ。
勝手に口を挟まない。
……善処しよう。
訓練に割り込まない。
もちろんである。
見ただけで真似をして無茶をしない。
無茶はしないが、参考にはする。
いける。
「承知いたしましたわ」
「即答したな」
「守れる条件ですもの」
父は疑わしそうだったが、兄が横で肩をすくめた。
「父上、そこは本当でしょう。この子、案外条件を守る時は守りますよ」
「“時は”が気になるが」
私も少し気になった。
だが今は良い。
重要なのは、前進したことだ。
「では、近日中に一度だけだ」
父が言った。
「騎士団の訓練の一部を遠目から見学させる。それで十分だと思えばそれで終わりにするし、余計な真似をすれば次はない」
「ありがとうございます、お父様」
私は深く一礼した。
本当にありがたい。
この一歩は大きい。
観察は重要だ。
特に、自分の知らない技術体系を見ることは、認知の幅を広げる。
前世でも、違う競技の強者を見るのは良い刺激になった。
見て、理解し、分解し、自分に取り入れられる部分だけ持ち帰る。
ああ、楽しみだ。
「そんなに嬉しいのか」
兄が少し呆れたように言う。
「当然ですわ」
「普通の令嬢なら、新しいドレスを買ってもらう時の顔だぞ」
「わたくしにとっては、強者の観察の方が有意義ですもの」
「言っていて悲しくならないか」
「まったく」
兄は小さく笑い、父はついに天を仰いだ。
だが、私の胸は本当に弾んでいた。
騎士団。
訓練場。
集団の動き。
個々の強さ。
礼の仕方。
始まりと終わりの空気。
師弟の距離感。
上の者が下を見る視線。
全部が学びになる。
断罪対策という観点からも、武力を持つ集団の文化を知るのは悪くない。
いざという時、どういう人間が何を重視するのかを知っているだけで、対応の質は変わる。
「お兄様」
「何だ」
「先ほどはありがとうございました」
「珍しく素直だな」
「助力は助力として認識しておりますわ」
兄はほんの少し目を丸くし、それから笑った。
「そうか。なら今度また偵察に行ってやる」
「視察なら歓迎いたします」
「使い分けるようになったな」
「当然ですわ」
父はもう何も言わなかった。
疲れているのだろう。
だが、私は十分に満足していた。
見学の許可を得た。
条件付きだが構わない。
条件のある許可は、許可である。
そして何より、父も兄も、私の鍛錬を「一時の熱」とは見なくなりつつある。
それが大きい。
奇行が継続されると、人はそれを性質として認識する。
そこまで行けば強い。
次からは毎回説明しなくてもよくなるからだ。
私は執務室を辞した後、廊下を歩きながら小さく拳を握った。
よし。
次は観察の準備。
見たい点を整理する。
足運び。
重心。
打ち込み前の溜め。
複数人の距離感。
礼の所作。
訓練場の空気。
見て終わっては意味がない。
見て、持ち帰って、鍛錬へ落とし込むのだ。
前世でも、強い選手をただ眺めるだけの者は伸びなかった。
違いを言語化し、自分の課題に変換できる者だけが前に進めた。
私は立ち止まり、窓の外に広がる空を見た。
まだ見ぬ訓練場。
まだ知らぬ強さ。
まだ足りないもの。
それを知れると思うと、少しだけ胸が熱くなる。
よろしい。
断罪までに、やるべきことは山ほどある。
ならば一つずつ、確実に積んでいけばいい。
――こうしてルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、ついに屋敷の外にある“本物の強さ”へ視線を向け始め、断罪対策をまた一歩だけ前へ進めるのだった。




