第5話 お兄様、それは見学ではなく偵察ですわ
鍛錬と淑女教育の接続が認められてからというもの、私の日課はさらに充実したものになった。
朝の歩法確認。
柔軟。
立ち方。
向きの変換。
礼儀作法。
勉学。
午後の軽い棒の操作。
夜の反省。
実に良い。
人は目標だけでは強くなれない。
仕組みがいる。
習慣がいる。
毎日少しずつでも積み上がる流れがいる。
前世でもそうだった。
試合で勝つ人間は、大会当日に急に強くなるのではない。
勝てる生活を前もって作っているだけなのだ。
そして私は今、断罪に勝てる生活を作っている。
完璧である。
その日も午前の礼儀作法を終え、私は廊下を歩いていた。
背筋を立てる。
裾さばきを乱さない。
目線は落としすぎず、高すぎず。
歩くことそのものが鍛錬と分かってから、屋敷の廊下すら有用な訓練場に見えてくる。
素晴らしいことだ。
そんな私の前に、ふと影が差した。
「ルクレツィア」
低すぎず、高すぎず、よく通る男性の声だった。
顔を上げると、そこにいたのは一人の少年である。
年は私より六つか七つほど上だろうか。
明るい金髪。
父に似た整った顔立ち。
だが父ほど完成された威圧感はなく、代わりに若さゆえの自信と軽やかさがある。
そして何より、微妙に人をからかうのが好きそうな目をしていた。
兄だ。
顔を見た瞬間に分かった。
血縁特有の、説明のいらない納得がある。
「お兄様」
私が一礼すると、少年――兄は片眉を上げた。
「やっぱり覚えているな」
「家族ですもの」
「それにしては妙に落ち着いているが」
「わたくし、最近いろいろありましたの」
「らしいな」
兄は口元を緩めた。
「熱を出したと思ったら急に剣を習いたいと言い出して、庭で転がって、礼儀作法は体幹訓練だと言い張っていると聞いた」
情報が早い。
いや、家の中なのだから早くて当然か。
私は軽く頷いた。
「概ねその通りですわ」
「概ね、で済ませるのか」
兄は吹き出した。
感じの悪い笑い方ではない。
ただ純粋に面白がっている顔だ。
この手の人物は要注意である。
悪意がなくても事態をかき回す。
そしてたいてい、当人はその自覚が薄い。
つまり兄妹関係においては、油断してはいけない相手だ。
「失礼ですが、お兄様」
「何だ」
「本日は何のご用件で?」
「用件がなければ妹に話しかけてはいけないのか」
「いけなくはありませんが、少なくとも興味本位ではいらっしゃるでしょう」
「鋭いな」
認めた。
この人、なかなか正直である。
「で、その興味本位のお兄様は、何をなさりたいのですか」
「見学だ」
「鍛錬の?」
「そうだ」
私は少し考えた。
兄の見学。
つまり上位貴族家の跡取り候補に近い立場の少年が、私の行動を見に来るということだ。
表向きはただの兄妹の交流でも、見られる側からすれば評価の場である。
しかも相手は気楽な顔をしていても、家の中の情報伝達経路になり得る。
結論。
見学ではない。
偵察である。
「お兄様」
「何だ」
「それは見学ではなく偵察ですわ」
兄は一瞬黙り、次いで声を上げて笑った。
「ははっ。偵察か」
「違いまして?」
「いや、たしかに半分くらいはそうかもしれん」
半分ではない気もするが、認めるだけましだろう。
「よろしいですわ」
「見せてくれるのか」
「ええ。ただし」
「ただし?」
「お兄様も見たものを正しく評価なさってくださいまし。幼子の遊びではなく、断罪対策の一環ですの」
兄はまた妙な顔をした。
笑うのを堪えているのか、呆れているのか、その両方か。
「分かった。できるだけ善処しよう」
「その返答、あまり信頼できませんわね」
「妹が辛辣だな」
当然である。
信頼は観察してから積むものだ。
私は兄を連れて庭へ向かった。
午後の鍛錬にはまだ少し早い。
だが、オズヴァルトはこの時間にも時々顔を出して、午前の動きを軽く確認してくれることがある。
たぶん今日もいるだろう。
庭へ出ると、案の定、鍛錬用の一角にはグレゴールとオズヴァルトがいた。
グレゴールは兄の姿を見て一礼し、オズヴァルトは「増えた」とでも言いたげな顔をした。
「お嬢様。そのお方は」
オズヴァルトが問う。
「兄ですわ」
「ほう」
「見学ではなく偵察にいらしたそうですの」
「言っておくが、そこまでは言っていない」
兄がすぐに訂正したが、オズヴァルトは肩を震わせていた。
笑っている。
よろしくない。
「お兄様、こちらはオズヴァルト。基礎をご指導くださっている方ですわ」
「初めまして、オズヴァルト殿。妹が世話になっている」
「こちらこそ」
オズヴァルトは兄を一目見て、軽く目を細めた。
「お兄様も多少は体を動かされるようですな」
「見るだけで分かるのか」
「立ち方である程度は」
おや。
それは興味深い。
兄も少し感心したようだった。
「それで、今日は何をしていたんだ、ルクレツィア」
「歩法と向きの変換、それから棒の操作の基礎確認ですわ」
「五歳の答えとは思えんな」
「わたくしもそう思います」
兄はまた笑った。
だが、見せる以上はきちんと見せよう。
口先だけで鍛えているつもりの令嬢と思われるのは不本意である。
「オズヴァルト、始めてもよろしいかしら」
「ええ。ではお嬢様、まず立ち方から」
私は定位置に立った。
足幅。
膝。
骨盤。
背筋。
肩。
顎。
視線。
ゆっくり整えていく。
兄の視線を感じる。
だが気にしない。
前世でも、見られる環境で崩れる者は試合でも崩れた。
観察されることを雑音にしないのも訓練のうちだ。
「歩いてください」
「はい」
一歩。
二歩。
三歩。
止まる。
向きを変える。
再び歩く。
派手さはない。
だが、重心は以前より滑らかに流れている。
足先だけで動いていない。
上体も暴れていない。
「次に棒を」
グレゴールがすっと木の棒を渡してくる。
実に手際がよい。
私は受け取り、正面に構えた。
前世の癖を出しすぎず、今の身体でできる範囲に留める。
焦らない。
幼い体で理想を追いすぎると、むしろ型が崩れる。
「振りますわ」
小さく告げて、一歩出る。
ひゅ。
まだ軽い。
だが、ただ振っただけではない。
下半身から流して、最後に棒が走る形を意識する。
「もう一度」
オズヴァルトの声。
私は繰り返した。
ひゅん。
今度の方が良い。
足裏の押しが少しだけ素直だった。
「止め」
声に合わせて静止する。
終わりの形も崩さない。
そこでようやく、兄の方を見た。
兄は、最初に私へ向けていた面白半分の顔を少し消していた。
「……へえ」
短いが、反応は悪くない。
「何かしら、お兄様」
「いや。もっとこう、お遊戯の延長みたいなものかと思っていた」
「失礼ですわね」
「失礼だな。だが正直な感想だ」
兄は腕を組んで私を見た。
「少なくとも、お前が本気なのは分かった」
「当然ですわ」
「それと、たぶん自分が何をしているかも分かっている」
「それも当然ですわ」
「五歳に対する感想ではないんだが……」
そこへ、オズヴァルトが口を挟んだ。
「お兄様、と仰いましたな」
「そうだが」
「お嬢様は少々特殊です」
「見れば分かる」
「理解も早い。妙な理屈もある。断罪だの何だの不穏なことも言う。ですが、基礎を疎かにしないのは本物です」
兄は真顔で頷いた。
「最後の一つだけで十分厄介だな」
厄介とは何だろう。
褒め言葉として受け取っておくべきか。
「お兄様」
「何だ」
「わたくしは厄介ではありませんわ。合理的なだけですの」
「それを厄介と言う場合があるんだよ」
心外である。
だが、兄の目は先ほどより真剣だった。
そして、ここからが大事だ。
家の中で、兄がどう私を理解するか。
それは今後に響く。
私は少し考え、兄へ向き直った。
「お兄様。ひとつお願いがございます」
「珍しいな。何だ」
「わたくしが鍛えていることを、面白半分で広めないでくださいまし」
兄の眉が上がった。
「理由を聞いても?」
「本気で積み上げていることを、珍しいもの見たさで消費されるのは不本意ですわ」
庭が少し静かになった。
オズヴァルトも、グレゴールも、黙る。
兄はしばらく私を見ていたが、やがてふっと息を吐いた。
「……そうか」
「ええ」
「分かった。少なくとも、笑い話としては広めない」
「ありがとうございます」
「ただし」
兄が少しだけ口元を上げる。
「家族として観察はするぞ」
「それは構いませんわ。お兄様の目が節穴でなければ」
「本当に容赦ないな、お前」
兄は苦笑したが、前よりずっと機嫌が悪くない。
よろしい。
最低限の線は引けた。
その後、兄はしばらく私の鍛錬を見ていた。
立ち方。
歩法。
向きの変換。
棒の軌道。
礼の動きとの接続。
ときおり質問もしてきた。
「なぜそこで一度止める」
「終わりが崩れると途中も崩れているからですわ」
「なぜ礼の動きまで混ぜる」
「重心制御に使えますもの」
「なぜそんなに基礎ばかり気にする」
「基礎が崩れると全部崩れますわ」
我ながら、答えに一貫性がある。
実に良い。
そして兄は最後に、妙に納得した顔で言った。
「なるほどな」
「何がですの」
「父上と母上が、困りながらも止めきれない理由だ」
「当然ですわね」
「いや、当然ではないんだが……まあいい」
兄はそう言って私の頭に手を伸ばしかけた。
私は半歩だけ下がった。
反射だった。
兄の手が空を切る。
「おや」
「……失礼いたしましたわ」
「いや、別に構わないが」
兄は少しだけ驚いた顔をした後、ふっと笑った。
「警戒心が強いな」
「危機管理ですの」
「家族にもか」
「家族だからこそ、ですわ」
乙女ゲームにおいて、家族が絶対安全圏とは限らない。
むしろ油断を誘う近さが危険なこともある。
兄はその答えに何か言いかけ、だが結局言わなかった。
「……本当に面白いな、お前」
「断罪対策に真剣なだけですわ」
「その言葉で全部台無しだ」
心外だが、否定はしない。
兄はやがて去っていった。
去り際、オズヴァルトに「妹をよろしく頼む」と言い、グレゴールには「父上には変に刺激しないよう伝えてくれ」と小声で残していた。
……おや。
思ったより悪くない。
少なくとも、ただ面白がるだけの人ではなさそうだ。
観察し、判断し、必要なら配慮もする。
利用価値が高い。
もとい、家族として有益である。
「お嬢様」
オズヴァルトが声を掛ける。
「何かしら」
「今の半歩、綺麗でしたな」
私は瞬きをした。
「半歩?」
「お兄様が頭に手を乗せようとした時です。重心を乱さず、距離だけ切った」
……しまった。
無意識だった。
「癖ですわね」
「良い癖です。ただし、相手を選ばぬと面倒になります」
「気をつけますわ」
これは本当にそうだ。
前世でも、急な接触や不用意な距離詰めへの反応は身体に残りやすかった。
今の私にはまだ幼さがあるから、愛嬌で済む場面もあるだろう。
だが、いつまでもそれで通るわけではない。
覚えておこう。
私は棒を持ち直した。
家族の理解。
観察者の増加。
それに伴う見られ方の変化。
面倒ではある。
だが、悪いことばかりでもない。
少なくとも今日、私は兄に「本気だ」と理解させた。
それは小さいが、確かな前進だ。
そして、前進したなら次も積むだけである。
「ではオズヴァルト、続きをお願いいたしますわ」
「休憩はいりませんか」
「少しだけ呼吸を整えれば足りますの」
「嫌な子供ですな」
「褒め言葉として受け取りますわ」
オズヴァルトは呆れたように笑い、グレゴールは静かに視線を逸らした。
たぶん笑いを堪えている。
よろしい。
笑うなら笑えばいい。
どうせ最後に残るのは、積み上げたものだけだ。
――こうしてルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、兄という新たな観察者まで巻き込みながら、それでも一歩ずつ、自分の断罪対策を既成事実に変えていくのだった。




