第4話 淑女教育は、つまり重心制御ですわね
オズヴァルトによる基礎鍛錬が始まった翌朝、私はいつもより少しだけ早く庭へ出た。
理由は簡単だ。
初日だからである。
前世でも、新しい練習の初日は少し特別だった。
何を学べるのか。
どこを直されるのか。
自分に何が足りないのか。
考えるだけで、自然と身体が目覚める。
朝の空気は冷たかった。
まだ日が昇り切る前の庭には静けさがあり、芝には薄く露が残っている。
整えられた鍛錬用の一角には、すでにグレゴールが立っていた。
仕事が早い。
そして静かだ。
非常に優秀である。
「おはようございます、グレゴール」
「おはようございます、お嬢様。本日は少し冷えますので、体を温めてからの方がよろしいかと」
「ええ。そういたしますわ」
私は軽く肩と首を回し、歩きながら足首をほぐした。
体温を上げる。
関節の動きを確認する。
呼吸を整える。
この時間が好きだった。
まだ何も始まっていないのに、ここから積み上がるものだけは確かにあると分かる時間だ。
やがて、砂利を踏む音が聞こえた。
オズヴァルトである。
今日も無駄のない服装で、手には細めの木の棒を二本持っている。
片方は私用だろう。
もう片方は見本用か、それとも矯正用か。
「早いですな、お嬢様」
「初日ですもの」
「嫌な予感しかしませんな」
「失礼ですわね」
「本音です」
だが、声色はやわらかかった。
完全に呆れているわけではないらしい。
よろしい。
好感触である。
オズヴァルトは私の前に立つと、まず棒を渡すこともなく言った。
「本日は棒を振りません」
私は瞬きをした。
「まあ」
「今日は立ち方、歩き方、向きの変え方。それだけです」
……素晴らしい。
私は内心で感嘆した。
そう。
まずそこなのだ。
形だけ剣を持っても仕方ない。
姿勢と足が崩れていれば、何を積み上げても土台が歪む。
前世の競技でも、それは嫌というほど知っていた。
「何です、その顔は」
「いえ。とても良いと思いましたの」
「そうですか」
オズヴァルトは少しだけ怪訝そうな顔をした。
「普通の子供なら、棒を持たせろとか振らせろとか言うのですが」
「本当に必要なのはそこではありませんもの」
「……やはり、五歳児とは思えませんな」
それは私もそう思う。
だが、口には出さないでおいた。
「まず立ってください」
私は素直に従った。
踵の位置。
つま先の向き。
膝の緩み。
骨盤。
背筋。
顎の角度。
オズヴァルトは私の周囲を回りながら、それらを静かに見ていく。
「肩が少し前です」
言われて、私はわずかに引いた。
「引きすぎです。胸を張るのではなく、背の中央を立てる」
ほう。
私は微修正した。
「……飲み込みは早いですな」
「分かる話ですもの」
「それを分かる五歳児がまず珍しい」
だが、それもそうだろう。
私は前世で、姿勢が崩れるとタックルの入りも受けも全部鈍ることを知っていた。
剣であっても本質はそう変わらない。
「次に歩いてください。ゆっくりで結構です」
私は前へ出た。
一歩。
二歩。
三歩。
「止まってください。今のは悪くない」
オズヴァルトが言う。
「ただし、お嬢様は少し“運ぶ”意識が強いですな」
「運ぶ?」
「ええ。足を置きにいっている。そうではなく、重心が先に流れ、その結果として足がついてくる方が自然です」
私はその場で反復した。
なるほど。
確かに今の私は、令嬢らしく見せる歩き方と、前世の身体感覚を無理やり繋げようとして少し硬くなっていた。
意識が足先に寄りすぎている。
「もう一度」
「はい」
今度は骨盤の向きと上体の流れを先に意識する。
足は追随。
肩は揺らさず。
首は固めず。
一歩。
二歩。
三歩。
「今の方が良い」
よろしい。
褒められると普通に嬉しい。
なぜなら基礎は嘘をつかないからだ。
私は少し口元を緩めた。
「では次に」
オズヴァルトは私の足元を見ながら言った。
「向きを変える時、お嬢様は少し上体が先走ります。敵……いえ、人に正面を見せたまま移る意識を持ちなさい」
「敵でよろしいのではなくて?」
「よくありません」
即答だった。
だが、目が少し笑っている。
この人、だんだん扱い方を覚えてきたわね。
私はくるりと向きを変えてみせた。
「違います。足が交差しかけた。転びます」
「まあ」
「まあ、ではありません」
厳しい。
だが正しい。
私は何度か向きの変換を繰り返した。
前足を開き、軸を保ち、後ろ足を寄せる。
無駄に跳ねない。
重心を上げない。
肩線をぶらさない。
面白い。
とても面白い。
こういう地味な調整は好きだった。
派手さはない。
だが、一つ変わるだけで次の動きが全部軽くなる。
「楽しそうですな」
「ええ」
「地味でしょうに」
「地味な基礎ほど、後で差になりますわ」
オズヴァルトが、ふっと笑った。
「その考え方は嫌いではありません」
それはかなり良い評価ではなくて?
私は少し嬉しくなったが、そこで背後から別の声がした。
「ルクレツィア」
振り返ると、母がいた。
今日も完璧な姿で、朝の光の中でも隙がない。
公爵夫人として完成された美しさである。
そしてその後ろには、礼儀作法の教師であるマルグリット夫人までいる。
あら。
この組み合わせは少し危険だ。
「お母様。マルグリット夫人。おはようございます」
「おはよう、ルゥ」
母はにこやかに言った。
「朝からずいぶん熱心ですこと」
「必要なことですもの」
「ええ。そうでしょうね」
声音は穏やかだが、目はしっかりこちらを見ている。
何か企んでいらっしゃる顔だ。
私は警戒した。
「本日は礼儀作法の時間を少し早めますわ」
来た。
「鍛錬との両立ができるか、見せてちょうだいな」
私は一瞬だけ沈黙した。
なるほど。
これは牽制ではない。
確認だ。
剣だの鍛錬だのと言い出した娘が、淑女教育を疎かにしていないか。
そこを見に来たのだろう。
合理的である。
「承知いたしましたわ」
私は一礼した。
「逃げませんのね」
「逃げる理由がありませんもの」
「そう」
母は少し楽しそうに笑った。
マルグリット夫人は相変わらず厳格な顔をしている。
五十代ほどの細身の女性で、姿勢の悪い人間を見るとそれだけで矯正したくなる気配を纏っている。
「では、ルクレツィア様」
夫人が言った。
「基本の歩法、礼、着席、起立を見せていただきます」
「はい」
私は姿勢を整えた。
ここで崩れてはならない。
なぜなら私は昨日、自分で言ったのだ。
礼儀作法も鍛錬に活かすと。
ならば証明せねばなるまい。
まず歩く。
背筋を立てる。
顎を引きすぎない。
視線を落としすぎない。
裾さばきを意識し、足音を立てず、重心を安定させる。
……あら。
昨日よりやりやすい。
鍛錬で重心の位置を意識したせいか、足の運びが以前より素直だ。
体幹が通っている感覚がある。
私はそのまま止まり、礼をする。
膝の緩み。
上体の傾き。
首筋。
手の位置。
起き上がる。
そのあと椅子へ向かい、着席。
さらに起立。
マルグリット夫人の目が、わずかに細くなった。
「……ほう」
おや。
今のは少し感心した時の反応ではなくて?
母も扇の向こうで目を瞬かせている。
「ルゥ」
「はい、お母様」
「少し安定しているわね」
「そうですわね。今朝、立ち方と歩き方を教わりましたので」
私が当然のように答えると、母はゆっくりとオズヴァルトを見た。
オズヴァルトは肩をすくめる。
「私はまだ何もしておりません。お嬢様が勝手に繋げたのです」
「勝手に」
「ええ。勝手に」
褒め言葉に聞こえる。
たぶんそうだろう。
マルグリット夫人が一歩前に出た。
「もう一度、歩いてごらんなさい。今度はもう少しゆっくり」
「はい」
私は応じた。
より繊細に。
より静かに。
足先に意識を寄せすぎず、体幹から運ぶ。
一歩。
二歩。
三歩。
「止まりなさい」
言われて止まる。
「……面白いわね」
夫人が珍しく感情を乗せた声を出した。
「いつもより力みが少ないわ。腰が安定しているから、裾の乱れも減っている」
やはり。
私は内心で頷いた。
礼儀作法と身体操作は繋がる。
見栄えの問題ではなく、構造の問題なのだ。
「お母様」
「何かしら」
「申し上げた通りですわ」
「何を?」
「礼儀作法は鍛錬に活かせますし、鍛錬は礼儀作法にも活きますの」
母は数秒黙った後、ふっと笑った。
「悔しいけれど、今のところはその通りみたいね」
勝った。
いや、戦っていたわけではないが、かなり大きい。
これで少なくとも、剣の鍛錬と淑女教育が対立するものではないと示せた。
今後の自由度が変わる。
オズヴァルトも腕を組んだまま言った。
「旦那様にはそう説明しておきましょう」
「それは助かりますわ」
「ただし、お嬢様」
「何かしら」
「調子に乗ると全部崩れます。今日は上手く繋がっただけで、まだ自分のものではない」
「はい」
私は即答した。
その通りだ。
前世でも、一度うまくいっただけで分かった気になる者は伸びない。
再現できてこそ実力。
安定してこそ技術である。
だから浮かれない。
今日できたことを、明日もできるようにする。
明後日も、来週も。
その積み重ねが力になる。
マルグリット夫人が母へ向き直った。
「奥様」
「何かしら」
「この子は、少し教え方を変えた方が伸びるかもしれません」
私は耳をそばだてた。
「どういうこと?」
「姿勢を“美しく見せるため”だけでなく、“身体をどう使うか”から入れた方が理解が早いでしょう」
母は少し驚いた顔をした。
マルグリット夫人が教え方を変えると言うのは、かなり珍しいのだろう。
だが、それは理にかなっている。
私は思わず口を開いた。
「素晴らしいですわ」
「静かになさい」
「はい」
たしなめられた。
だが仕方ない。
今のはかなり大きな進歩である。
淑女教育が敵ではなくなる。
むしろ鍛錬の一部になる。
これはつまり、日常の大半が断罪対策に変換可能ということだ。
すごい。
世界が優しい。
いや、違う。
私が見つけたのだ。
「では、本日はここまでにして、午前の礼儀作法で改めて確認しましょう」
マルグリット夫人がそう言って一礼した。
母も頷く。
「ルゥ。鍛錬も良いけれど、朝食はきちんと摂りなさいな」
「もちろんですわ。鍛えるには食事も必要ですもの」
「その言い方だと何だか少し嫌ね」
母が笑う。
だが本音なので仕方ない。
朝食。
睡眠。
鍛錬。
学び。
全部必要。
全部繋がる。
私はふと、自分の手を見た。
まだ小さい。
まだ頼りない。
剣を握るには細すぎる手だ。
けれど、この手は昨日の私より少しだけ前に進んだ。
立ち方が変わった。
歩き方が変わった。
礼の安定も少し増した。
そういう変化は、とても静かで、とても確かだった。
好きだ。
私はやはり、こうして少しずつ積み上げる感覚が好きなのだ。
たとえ理由が断罪対策でも。
いや、断罪対策だからこそ、なおさら。
誰にも一方的に裁かれないために。
どんな場でも立っていられるように。
美しく、強く、崩れずにいるために。
私は小さく息を吸った。
よし。
次は歩法の再現。
礼の安定化。
そのあと、棒の振りとどう繋げるか。
やることは増えた。
だが、それが嬉しい。
――こうしてルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、淑女教育すら断罪回避のための実戦訓練へと変換し始め、周囲にじわじわと「この子は本気だ」と理解させていくのだった。




