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公爵令嬢に生まれたので断罪に備えていたら、なぜか王国最強になっていました  作者: 玉響すばる


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第3話 師はまだいないので、まずは基礎からですわ

 鍛錬の許可を得た翌日から、私の生活は目に見えて変わった。


 朝は日の出とともに起床。

 軽い歩行。

 柔軟。

 屈伸。

 重心移動の確認。

 そのあと朝食。


 昼には礼儀作法と読み書き、計算、歴史。

 午後は短い休息を挟み、庭で再び身体を動かす。


 夜は湯浴みのあとに、今日の反省と明日の調整。


 実に良い。


 この規則正しさだけでも、断罪への備えとしては十分な前進である。


 何しろ、破滅する令嬢というものは、たいてい感情に振り回されるか、慢心して足元を掬われるかのどちらかだ。

 その点、私は違う。


 前世でもそうだった。

 勝ちたければ、まず生活を整える。

 強くなりたければ、再現性を作る。


 競技者にとって、根性論だけでは長く持たない。

 積み上がる身体は、積み上がる生活からしか生まれないのだ。


 というわけで、今日も私は庭に立っていた。


 まだ朝露の残る芝の上。

 整えられた一角。

 転んでも比較的安全な、グレゴールが早々に用意した鍛錬用の場所である。


 優秀だ。

 非常に優秀だ。


 私は木の棒を両手で持ち、正面に構えた。


 もちろん木剣ではない。

 まだ本格的な練習道具を持つことは許されていないからだ。

 だが棒でも十分である。

 大事なのは、今の身体で何ができて何が足りないかを把握することだ。


「お嬢様。本日は棒を振るのですか」


 傍らで見守る侍女が、おそるおそる尋ねてきた。

 名前はミアという。

 まだ若いが、前の侍女よりもだいぶ肝が据わっている。


「ええ。ですが、振るというより確認ですわね」


「確認、ですか」


「はい。手首、肘、肩、腰、脚。この連動がどの程度できるかですわ」


 ミアはしばらく黙った後、静かに言った。


「お嬢様は五歳とは思えないことを仰いますね」


「中身の問題ですわ」


「中身」


「いえ、何でもありませんの」


 危ない。

 うっかり本音が出た。


 私は咳払いをひとつして、足を肩幅より少し広く開いた。

 膝を軽く緩める。

 肩の力を抜く。

 棒を握る手に余計な力は入れない。


 そのまま、ゆっくりと振り下ろした。


 ひゅ。


 軽い音がした。


 悪くない。

 だが弱い。


 前世で剣道をしていた頃なら、もっと踏み込みと体重移動が連動していた。

 今は腕も短く、腰も高く、体重がうまく乗らない。

 打ち込むというより、ただ下ろしただけだ。


 ならば修正である。


 私はもう一度構えた。


 今度は、足裏を意識する。

 後ろ足で押し、前へ重心を流す。

 腕だけで振らない。

 腰から。

 体幹から。

 最後に棒がついてくる形。


 すう、と息を吸って、吐く。


 そして振る。


 ひゅん。


 さっきよりはましだった。


「お嬢様」


「何かしら」


「違いがお分かりになるのですか」


「もちろんですわ。今のはほんの少しだけ体重が乗りましたもの」


 ミアは、なんとも言えない顔になった。


 その気持ちは分かる。

 五歳児が言う内容ではない。

 だが、こちらも真剣だ。


 私はさらに数度、ゆっくりと棒を振った。

 一回ごとに軌道を確かめる。

 足の位置を修正する。

 肘の角度を整える。


 力任せに何十回も振る意味はない。

 最初に作るべきは、雑な反復ではなく正しい型だ。


 前世でも、雑に反復した癖は後から修正が面倒だった。

 特に幼い頃に染みついた癖は厄介である。


 だから今は丁寧に、ゆっくり、正確に。


 私は十回ほど振ったところで棒を下ろした。


「……腕より先に、背と腰が疲れますわね」


「それは良いことなのですか?」


「たぶん良いことですわ。腕だけで振っていない証拠ですもの」


 本当なら師が欲しい。

 だが、まだいない。


 父は剣術師範を呼ぶことに慎重だった。

 当然だろう。

 普通、公爵令嬢が病み上がりの勢いのまま剣を始めたいと言い出した場合、まずは落ち着くのを待つ。


 しかし、私は落ち着いたうえでなお本気である。


 この温度差が厄介だ。


 私は棒を持ったまま、小さくため息をついた。


 師がいない以上、自分で出来ることからやるしかない。

 幸い、前世で知っている基礎は多い。


 姿勢。

 呼吸。

 重心。

 反復。

 受け身。

 足運び。


 剣そのものの技術はまだなくとも、土台は作れる。


 土台がある者は強い。

 これは競技全般に共通する真理だ。


「お嬢様」


 今度は、別の声がした。


 振り向けば、庭の端にグレゴールが立っていた。

 今日も隙のない服装で、今日も無駄のない姿勢である。


「グレゴール。何かしら」


「旦那様がお呼びです」


「まあ。ついに師を?」


「そこまでは存じません」


 だが、その顔は少しだけ面白がっているようにも見えた。


 私は棒をミアへ預けると、裾を軽く整えて姿勢を正した。

 鍛錬中であっても、私は公爵令嬢なのだ。

 礼節を捨てるつもりはない。


 グレゴールに先導されて向かったのは、父の執務室ではなく、小さな応接室だった。


 中に入ると、父と母が揃っている。

 そしてもう一人、見知らぬ男がいた。


 年の頃は三十代半ばほど。

 日に焼けた肌。

 無駄のない体つき。

 背筋は伸びているが、騎士ほど堅苦しくはない。

 右の頬に薄い傷があり、目つきは鋭い。


 見た瞬間に分かった。


 強い。


 少なくとも、ただの飾りの護衛ではない。


 私がじっと見つめると、男の方もまた私を見た。

 そして、軽く眉を上げる。


「……このお嬢さんが?」


「そうだ」


 父が疲れた声で言った。


「剣を習いたいと言い出した、私の娘だ」


 言い出した、ではない。

 習うのである。


 だが今は細かいことは置いておこう。


 男は私を頭から足まで見た。

 品定め、というほど失礼ではない。

 むしろ観察だ。

 立ち方、視線、重心、そういうものを見ている目だった。


 良い。

 話が早そうである。


「ルクレツィア」


 父が言う。


「こちらはオズヴァルトだ。騎士ではないが、若い頃に剣を教える立場にいたことがある」


「隠居済みですがね」


 男――オズヴァルトはそう言って肩をすくめた。


「今は旦那様に頼まれた時だけ、たまに助言する程度です」


 なるほど。

 正式な師範ではなく、お試し要員である。


 父らしい慎重さだ。


 私は一礼した。


「初めまして、オズヴァルト。ルクレツィア・フォン・ヴァルツェンですわ」


「これはご丁寧に」


 オズヴァルトも軽く頭を下げた。

 だが視線は鋭いままだ。


「お嬢様、本当に剣をおやりになるので?」


「ええ」


「なぜ」


「断罪された時に困るからですわ」


 室内の空気が一瞬だけ止まった。


 母が扇で口元を隠す。

 父が目を閉じる。

 オズヴァルトだけが、ほんの少しだけ黙った後、低く笑った。


「なるほど。変わった理由だ」


「ですが切実ですわ」


「そうでしょうな」


 オズヴァルトはそこで否定しなかった。

 優秀である。


「旦那様からは、しばらくすれば飽きるかもしれんと聞いております」


「飽きませんわ」


「なぜ言い切れる」


「前世から、鍛えるのは好きでしたもの」


 しまった、また少し出た。


 だが、今のはぎりぎり独り言で通るかもしれない。

 そう思ったが、オズヴァルトは少しだけ目を細めた。

 聞こえたらしい。


 とはいえ追及はしない。

 さらに優秀である。


「では、お嬢様」


 オズヴァルトは椅子から立ち上がった。


「少し見せていただけますか」


「ここで?」


「ええ。型も何も知らぬ子が、ただ気分で言っているのか。それとも何かしらの素地があるのか。そこは見れば分かります」


 父が口を挟んだ。


「危険はないのだろうな」


「棒切れを持たせる程度です。危ない真似はさせません」


 私は内心で小さく拳を握った。


 来た。


 これは試験だ。

 そして試験とは、つまり突破口である。


 応接室の中央が少し空けられ、グレゴールがどこからともなく木の棒を一本持ってきた。

 仕事が早すぎる。


 私は受け取る。


 軽い。

 だが十分だ。


「自由に構えてみてください」


 オズヴァルトが言った。


 私は一瞬考え、正面に立った。

 肩の力を抜く。

 足をずらし、重心を安定させる。

 そして棒を両手で握る。


 完全な剣術の型ではない。

 だが、少なくともただの子供の持ち方ではないはずだ。


 オズヴァルトの目がわずかに変わった。


「……ほう」


「何か」


「いや。続けてください」


「では、振りますわ」


 私は深く息を吸い、ゆっくりと一歩踏み出して振り下ろした。


 ひゅっ。


 まだ軽い。

 まだ甘い。

 だが、昨日よりはずっとよい。


 腕だけではない。

 ちゃんと脚と腰を通した。


 そして振り終わりで崩れないように止める。


 前世で学んだことの一つに、終わりが崩れる動きはだいたい途中も崩れている、というものがある。

 だから最後まで気を抜かない。


 私はそのまま静止した。


 数拍の沈黙。


 やがてオズヴァルトが、ゆっくりと息を吐いた。


「旦那様」


「……何だ」


「少なくとも、お遊びではありませんな」


 父がこめかみを押さえた。


「分かっていたが、分かりたくなかった」


「お父様、それはどういう意味ですの」


「意味はそのままだ」


 母がくすくすと笑う。

 感じが悪い。

 いや、悪くはないのだが、少し面白がられている気がする。


 オズヴァルトは私に近づき、今度は真正面から棒を軽く指した。


「お嬢様」


「何かしら」


「誰に教わったのです」


「誰にも」


「では、なぜ足から入る」


「そちらの方が強いからですわ」


 これは本音だ。

 腕だけで何とかしようとするのは、だいたい伸び悩む。

 前世の競技経験がそう言っている。


 オズヴァルトは、しばらく私を見た後、ふっと笑った。


「面白い」


 そして父の方へ向き直る。


「旦那様。正式な剣術を叩き込むにはまだ早いですが、基礎の基礎からなら始めてもよろしいかと」


 父が顔をしかめる。


「本気で言っているのか」


「ええ。逆に、このまま変な自己流を積ませる方が危険です」


 それは本当にそうである。

 私は心の中で強く頷いた。


「まず姿勢、足運び、棒の扱い、礼の仕方、体の使い方。その程度なら害はありません。むしろ礼儀作法の延長としても説明がつく」


 礼儀作法の延長。


 うまい。

 実にうまい言い方だ。


 母が扇の向こうで微笑んだ。


「それなら、そこまでおかしくは聞こえませんわね」


「いや、十分おかしいが?」


 父だけが常識人である。

 だが、ここで押し切れる。


 私は一歩進み出て、父を見上げた。


「お父様」


「何だ」


「わたくし、努力は惜しみませんわ」


「……それは見れば分かる」


「毎日続けます」


「それも分かる」


「ですので、どうか基礎からお許しいただけませんか」


 父はしばらく私を見ていた。

 その視線には困惑と疲労と、ほんの少しの諦めが混ざっている。


 やがて、深い深いため息。


「……期間を決める」


 来た。


「まずは一か月だ。その間、オズヴァルトの言う基礎だけだ。危険なことはしない。礼儀作法や勉学を疎かにしない。体調が悪い日は休む。これを守れるなら許可する」


 私は即座に答えた。


「守りますわ」


「即答するな。少しは考えろ」


「考えるまでもありませんもの」


 守れる条件しかない。

 むしろ好都合だ。


 オズヴァルトが口元を押さえて笑いを堪えている。

 よろしい。

 この人は味方にできるかもしれない。


 母は優雅に言った。


「決まりですわね、ルゥ」


「はい、お母様」


「ただし」


 母の目が少しだけ鋭くなる。


「淑女としての学びも同じだけ大事ですわ。剣だけに夢中になって、所作や言葉遣いが乱れるのは許しません」


「もちろんですわ」


 私は胸を張った。


「むしろ、礼儀作法も鍛錬に活かしますの」


 父がまた遠い目をした。

 オズヴァルトが吹き出しかけた。

 母は「まあ」と言いながら少しだけ楽しそうだった。


 だが私は本気である。


 カーテシーは重心移動。

 歩法は足運び。

 姿勢矯正は体幹訓練。

 淑女教育と剣の基礎は、工夫次第でいくらでも繋がる。


 そう。

 全ては断罪回避へ通じているのだ。


「では、お嬢様」


 オズヴァルトが棒を軽く叩いた。


「明日から始めましょう。まずは立ち方からです」


 私は目を輝かせた。


「はい」


「その顔はやめてください。戦場に出る顔です」


「違いますわ。鍛錬が始まる顔ですの」


「なお悪い」


 それでもオズヴァルトは笑っていた。


 よし。


 師とまではまだいかない。

 だが、導いてくれる大人は得た。

 基礎も始まる。

 環境も整いつつある。


 十分な前進である。


 私は応接室の窓から見える庭を見た。

 まだ小さく、まだ非力で、まだ何者でもない今の私。


 けれど、積み上げれば変わる。


 一か月。

 三か月。

 一年。

 その先まで。


 地道な基礎は、裏切らない。


 前世でも、今世でも、それだけは変わらない真実だった。


 ――こうしてルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、断罪対策という極めて不穏な動機のもと、ついに正式な基礎鍛錬の第一歩を踏み出すことになったのである。

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