表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
公爵令嬢に生まれたので断罪に備えていたら、なぜか王国最強になっていました  作者: 玉響すばる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/106

第2話 公爵令嬢、鍛錬開始を宣言する

 ヴァルツェン公爵家の朝は早い。


 ……いや、正確には、公爵家の朝そのものは別に早くない。

 早いのは私だけである。


 まだ空が白み始めたばかりの時刻、私は寝台の上で静かに目を開けた。


 熱はすっかり引いていた。

 頭も冴えている。

 身体の節々に少し怠さは残るが、五歳児の回復力は侮れない。


 私は小さく息を吐いた。


 よろしい。


 昨日の決意は熱に浮かされた妄言などではなかった。

 極めて冷静かつ合理的な生存戦略である。


 公爵令嬢に生まれた以上、断罪の危険は常に付きまとう。

 それが現実だ。

 たとえまだ婚約者がいなかろうと、学園に通っていなかろうと、王子と深く関わっていなかろうと、油断はできない。


 乙女ゲームとは、何気ない日常の一歩先から破滅が始まるものなのである。


 ならば、始まる前に備えるしかない。


 私は毛布を払って起き上がった。

 床に足を下ろした瞬間、少しだけ体がふらつく。


 だが転ぶことはない。

 前世で散々叩き込まれた重心感覚は、幼い体でも消えてはいなかった。


 私は軽く膝を曲げ、足裏の位置を確かめる。


 うん。

 まだ筋力はない。

 だが、関節は柔らかい。

 身体は軽い。

 鍛えればかなり伸びる。


 五歳児の身体としては、むしろ素材は悪くない。


「お嬢様?」


 控えていた侍女が、目を丸くした。


 昨日の侍女とは別の人物だ。

 年かさで、落ち着いた雰囲気をしている。


「もうお起きに? まだお休みになっていた方が……」


「いいえ。今日から忙しくなりますもの」


「は……?」


「お着替えをお願い。動きやすい服がよろしいわ」


 侍女は困惑した顔で瞬きをした。


「動きやすい服、でございますか」


「ええ。できれば裾が広がらず、足さばきの邪魔にならないものを」


「お嬢様は本日、ご静養の予定ですが……」


「静養も大事ですわね」


 私は頷いた。


「けれど、静かに養うだけでは足りませんの。基礎体力も養わなくては」


 侍女は完全に返答を失った。


 分かる。

 分かるが、こちらにも事情がある。


 昨日の父と母の反応からして、私の剣術習得計画は一筋縄ではいかないだろう。

 ならばまずは既成事実を積み上げるべきだ。


 これは前世の競技経験からも言えることである。


 やると言ってからやるのでは遅い。

 やってから認めさせるのだ。


 私は着替えを手伝われながら、頭の中で本日の鍛錬計画を組み立てた。


 第一段階。

 現状把握。


 第二段階。

 可動域確認。


 第三段階。

 基礎動作。


 第四段階。

 周囲への正当性の提示。


 うん。

 完璧だ。


 やがて私は、普段よりもずっと簡素な朝の服装に整えられた。

 公爵令嬢としてはかなり控えめだが、動くには十分だ。


 私はその場で一度、肩を回した。

 次いで首を倒し、腰をひねり、足首を軽く返す。


 侍女の視線が痛い。

 だが気にしていては鍛錬はできない。


「お嬢様……何をなさっているのですか」


「可動域の確認ですわ」


「かどう……」


「動く前に確かめるのは大事ですの」


 前世でもそうだった。

 いきなり全力で動いて身体を壊すのは二流である。

 まずは状態確認。

 それから負荷をかける。


 競技者の基本だ。


 私は部屋の中央で、小さく腰を落とした。

 背筋を伸ばし、膝とつま先の向きを揃える。

 そのまま立ち上がり、また沈む。


 一回。

 二回。

 三回。


 ……弱い。


 前世の私なら、こんなものは準備運動のさらに前段階だった。

 だが今は違う。

 この身体はまだ幼く、積み上げはゼロだ。


 ならばゼロから作るだけである。


「お嬢様! おやめくださいませ!」


 侍女が慌てて駆け寄ってきた。


「病み上がりでそのようなことをなさっては……!」


「大丈夫ですわ。無理はしておりません」


「しかし」


「無理と鍛錬は違います」


 私は真顔で告げた。


「無理は身体を壊しますけれど、正しい鍛錬は身体を作りますの」


 侍女は口を開き、閉じた。


 納得はしていないが、反論もしづらいらしい。

 理屈としては間違っていないからだ。


 私はさらに続けた。


「それに、わたくしは公爵令嬢ですもの」


「は、はい」


「公爵令嬢たるもの、いつ何時いかなる断罪にも耐えられるよう備えておく必要がありますわ」


「だん……ざい……?」


 侍女の顔が、なんとも言えないものになった。


 この世界の人々はまだ知らないのだ。

 令嬢という生き物が、どれほど理不尽なイベントに晒される可能性を秘めているかを。


 知識の差とは恐ろしい。


 私は静かに窓の外を見た。


 朝露を帯びた庭。

 よく手入れされた芝。

 歩きやすそうな小道。

 適度な広さ。


 よろしい。

 まずはあそこだ。


「庭に出ますわ」


「えっ」


「支度を」


「お、お待ちください! せめて朝食の後に……!」


「朝食前の軽い運動は身体を目覚めさせますわ」


「軽く、ではない予感しかしませんが……!」


 侍女のその直感は正しい。

 なかなか見どころがある。


 だが私は構わず扉へ向かった。

 小さな足で歩きながら、頭の中ではすでにメニューを組んでいる。


 歩行確認。

 軽い駆け足。

 柔軟。

 その場での重心移動。

 転倒時の受け身の確認。

 余裕があれば、棒状のものを借りて素振りの真似事。


 五歳児としては少し多いかもしれない。

 だが、やれないほどではない。


 何しろ私は前世で、試合前に緊張するとむしろ基礎に戻るタイプだったのだ。

 不安なら鍛える。

 それが私である。


 廊下に出ると、朝の屋敷はまだ静かだった。


 磨かれた床。

 静かな空気。

 行き交う使用人たちも少ない。


 その中を、公爵令嬢たる私が真剣な顔で早足に歩いていく。

 しかも病み上がりである。


 すれ違った使用人が二度見した。


 当然だろう。

 だが止まるわけにはいかない。


 私は庭へ出た。


 朝の空気は冷たく、肺に気持ちよく入ってくる。

 太陽はまだ高くない。

 土も芝も少し湿っているが、問題ない。


 私はまず、その場で深く呼吸をした。


 吸って。

 吐く。


 胸郭の動きは悪くない。

 姿勢もまだ矯正しやすい。


 次に、ゆっくり歩く。

 かかとから着地し、足裏を転がす。

 左右のブレを見る。

 腕の振りを確認する。


 ……うん。

 幼い分、歩幅は狭い。

 だが変な癖はまだついていない。


 私は少し速度を上げた。


 侍女が後ろでおろおろしている気配がする。

 だが今は気にしない。


 五歩。

 十歩。

 二十歩。


 軽く走る。

 足音はまだ頼りない。

 呼吸も短い。

 だが、これも鍛えればよい。


 私は庭の一角まで行って立ち止まり、その場で屈伸を始めた。


「お、お嬢様。本当に何を……」


「準備ですわ」


「何の」


「断罪に備えるための」


 侍女がとうとう両手で顔を覆った。


 気持ちは分かる。

 だがこちらは真面目である。


 私は屈伸のあと、前屈、開脚、肩回しと進めていった。

 身体はやはり柔らかい。

 この年齢ならではの利点だ。

 可動域を広く保ったまま育てられれば、後で大きな武器になる。


 そのあと、私は軽く地面に手をついた。


「お嬢様?」


「受け身の確認ですわ」


「確認しなくてよろしいです!」


「よろしくなくて?」


「よろしくありません!」


 もっともな意見だ。

 もっともだが、受け身は大事である。


 前世でも、怪我を避ける技術は競技寿命を左右した。

 今世でも、階段から落ちるかもしれないし、誰かに突き飛ばされるかもしれないし、断罪イベント中に無様に転ぶかもしれない。


 備えは必要だ。


 私はそっとしゃがみ込み、できるだけ安全に横へ倒れ込むようにして身体を転がした。


 ごろん。


 ……できた。


 もちろん前世ほど滑らかではない。

 だが、頭を打たず、肩から背にかけて衝撃を流す感覚は残っている。


「お嬢様あああっ!」


 侍女の悲鳴が庭に響いた。


 次の瞬間、ばたばたと複数の足音が近づいてきた。

 声も聞こえる。


「何事だ!」

「ルクレツィア様に何か!?」


 しまった。

 少し注目を集めすぎたかもしれない。


 私は起き上がり、服についた芝を払った。


 そこへ駆けつけたのは、昨日の父と母、それから執事らしき壮年の男性だった。


 父は血相を変えている。

 母も優雅さを保とうとしているが、明らかに目が笑っていない。

 執事は完全に状況確認の顔だ。


「ルクレツィア、何をしている」


 父の声は低かった。


 叱責というより、理解不能なものを見る声音である。

 当然だろう。

 朝の庭で、公爵令嬢が受け身を取って転がっていたのだから。


 私は姿勢を正した。


「鍛錬ですわ、お父様」


「……鍛錬」


「はい」


 父は私を見つめたまま沈黙した。

 母がそっと口を開く。


「ルゥ。昨日のお話は、熱のせいで少し混乱していたのではなくて?」


「いいえ、お母様。むしろ昨日より整理されておりますわ」


「整理」


「はい。まずは基礎体力の向上。次に柔軟性の維持。それから受け身と足運び。礼儀作法とも連動できますので、かなり効率がよろしいかと」


 母が黙った。

 父も黙った。

 執事だけが、ほんの一瞬だけ目を細めた。


 おや。


 この人、もしかして少し話が通じるのではなくて?


 私はその執事へ視線を向けた。


「あなた」


「は」


「名前は?」


「執事頭のグレゴールにございます」


「グレゴール。棒はありまして?」


「……棒、でございますか」


「木剣がなければ棒でも構いませんの。長さと重さがある程度あれば、素振りの基礎確認はできますわ」


 グレゴールは、一拍だけ置いた。

 それから視線を父へ向ける。


 父は頭を押さえた。

 母は扇を口元に当て、静かに息を吐いた。


「ルクレツィア」


 父が、非常に慎重な声で言った。


「なぜ、そこまで剣にこだわる」


 私は迷わなかった。


「断罪された時に、自分の身を守れないのは困りますもの」


 庭が静まり返った。


 鳥の声だけが聞こえる。

 風が芝を揺らす音まで妙に大きい。


 父が遠い目をした。

 母はついに額へ手を当てた。

 侍女はもう半泣きである。


 だが、執事頭グレゴールだけは、ほんの少しだけ考えるような顔をしていた。


「お嬢様」


「何かしら、グレゴール」


「念のため伺いますが、その“だんざい”とは何を想定しておられますか」


 よい質問だ。


 観察力がある。

 いきなり否定せず、定義を確認しにきた。

 優秀である。


 私は頷いた。


「婚約破棄、名誉失墜、社交界からの排斥、最悪の場合は追放や拘束ですわね」


 母が扇の向こうで何かを呟いた。

 たぶん「最悪すぎるわ」あたりだろう。


 父は空を見上げた。

 現実逃避の気配がある。


 グレゴールは少しだけ口元を引き締めたが、崩れはしなかった。


「そのような事態が起きるとお考えなのですか」


「公爵令嬢ですもの」


 私はきっぱり言った。


「備えておいて損はありませんわ」


 これは実際その通りだ。

 起こらなければそれでよし。

 起これば備えた者が生き残る。

 危機管理とはそういうものである。


 しばしの沈黙の後、父が重々しく口を開いた。


「……グレゴール」


「は」


「医師を呼べ」


 失礼である。


 私は思わず父を見上げた。


「お父様。わたくしは正気ですわ」


「そう言う者ほど怪しい」


「冷静です」


「朝の庭で転がる公爵令嬢のどこがだ」


「受け身の確認ですわ」


「確認しなくていい」


「よくありません」


 ぴしゃりと返すと、父がとうとう言葉を失った。


 母が扇越しに笑いをこらえている。

 あら。

 少し面白がっていらっしゃる?


「あなた」


 母が、楽しげな声を抑えながら父に言った。


「少なくとも、この子が本気なのはよく分かりましたわ」


「分かりたくなかった」


「でも、頭ごなしに止めても逆効果ではなくて?」


 さすが母である。

 社交界を渡ってきた人間の観察眼だ。


 私は静かに頷いた。


「ええ。止められても鍛えますわ」


「そうでしょうね」


 母は即答した。

 理解が早い。


 父はしばらく黙っていたが、やがて深いため息をついた。


「……条件付きだ」


 私は目を見開いた。


「条件?」


「病み上がりなのは事実だ。無茶はさせない。まず医師に診せる。そのうえで、軽い運動から始めること。必ず大人をつけること。独断で危険な真似をしないこと」


 私は考えた。


 医師。

 監督。

 制限。


 完全自由ではない。

 だが、許可が下りるだけ大きい。


 交渉としては十分勝ちだ。


「よろしいですわ」


「本当に理解しているか?」


「はい。まずは段階的に、ですわね」


 父はまだ不安そうだったが、母は完全に面白がる顔になっている。

 グレゴールは無表情のまま一礼した。


「でしたら、本日中に庭の一角を整えましょう」


 私はそちらを見た。


「まあ」


「転倒時に危険の少ない場所を確保した方がよろしいかと」


 優秀である。


 私は思わず口元を緩めた。


「気が利きますのね、グレゴール」


「恐れ入ります」


 父が「もう整えるのか」と小さく呟いたが、聞こえないふりをした。


 決まった。

 これで第一歩は踏み出せる。


 私は朝の庭を見渡した。

 まだ小さな身体。

 まだ細い腕。

 まだ何も積み上がっていない足腰。


 だが構わない。


 ここから始めればいい。

 一回。

 一日。

 一歩。

 積み上げれば、それはいずれ力になる。


 断罪を回避するために。

 誰にも侮られないために。

 誰にも一方的に裁かれないために。


 私は小さく拳を握った。


 よし。


 まずは朝の歩行と柔軟。

 次に基礎体力。

 そのあと、棒と木剣。

 礼儀作法との接続も考える必要がある。

 舞踏はきっと足運びに使える。

 カーテシーも重心制御に応用可能だろう。


 やることは山ほどあった。


 その全部が、今の私にはひどく頼もしい。


 ――こうして、公爵令嬢ルクレツィア・フォン・ヴァルツェンの鍛錬は、家族と使用人たちを盛大に困惑させながらも、正式に幕を開けたのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ